nakajima on 6月 16th, 2019

使徒言行録3:1~10  「美しい門」における癒しの奇跡。「生まれながらに足の不自由な男」が神殿の門のところに運ばれてきて、そこに置かれた。神殿に参拝に来る人たちに施しを乞うためであった。それによって生計を立てる他ない、どれほど辛い人生であったろうか。

そこにペトロとヨハネがやって来たので、その男は二人に施しを乞うた。ペトロが「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って、「右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」のであった。まさに「ブラボー!!」の一言。

ブラボーは賞賛の掛け声として用いられるが、元々は「野蛮な」、「凶暴な」という意味だった。この素晴らしい出来事に接しても、祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人たちは、苛立ち、ペトロとヨハネを捕らえて牢に放り込んでしまった。生殺与奪権を持つ者の野蛮な、凶暴な姿が露わになる。

大祭司、議員、長老、律法学者たちは、ペトロとヨハネに尋問した。二人は、堂々とイエスの名による癒しと救いを弁明した。また、いつも「美しい門」のところで施しを乞うていたあの男が、事実、自分たちの目の前で歩けるようになっているのだから、何も言い返すことができなかった。そこに真実の救いがあるのを見たにも関わらず、彼らは信仰を受け入れることができずにペトロとヨハネを「脅す」ばかりであった。

一方、歩けなかった人が歩けるようになったのだから、「なんと素晴らしい!」と、素直にイエス・キリストの名による救いを信じた人は「男の数が五千人ほどになった」とある。真の信仰は自分を誇るためではない。悲しみにある人が喜びの人となる、そのことを我がこととして喜ぶがハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 6月 9th, 2019

使徒言行録2:1~8

今日は、キリスト教会の三大祝祭日の一つ、ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎え、また、「こどもの日・花の日」として教会・JC・園の合同礼拝を捧げます。

クリスマスとイースターはすっかり冬と春の季節の風物詩として、イベントとして日本に定着しましたが、最後のペンテコステはさっぱり知られていないと思います。ペンテコステは、聖霊なる神が、イエス・キリストの弟子たちに降った日で、この時から弟子たちの宣教が始まったので、全世界の教会の誕生日とも言われています。

「聖霊が降るとあなたがたは力を受ける」(使徒言行録1:8)とある通り、一言で言うと聖霊とは力のことです。力にも包容力、真逆の暴力、様々あります。聖霊の力が何かを表すヒントが、弟子達に聖霊が降ると「世界中の言語で話し始めた」にあります。

「永遠の命」という最高の祝福を、誰にでも分かるように、すなわち全ての人に受け取ってもらうことができるようになったということです。難行苦行や難しい教理教典によるのではなく、すべての人に分かる言葉で伝えられることになった、だから、教会は全世界に広まっていったのです(とは言っても、聖書がすべての人が読めるようになる扉が開かれるのには1500年もかかってしまいました*宗教改革、聖書の翻訳)。

「子どもの日・花の日」は米国教会の「子どものための礼拝を守ろう」、「子どもにお花を持たせて病院や施設を訪問することによって、奉仕、お手伝いの心を育もう」に由来しています。教会が聖隷横浜病院、JCが清水ヶ丘病院、園が給食の食材を取り扱っているお店、郵便局等、お世話になっているところを訪問しています。聖霊の力を一つ一つ現し、永遠の命に繋がるのがハレルヤ!  中島 聡主任牧師

nakajima on 6月 2nd, 2019

マタイ22:1-14   「天の国」の譬えでは、すべての人が招かれているという側面と、入ろうとしない人、入ることができない人がいる側面も描かれている。この「王子の婚宴」では、①招待客は誰も来なかった~イスラエルの民がエジプトに居座り続けた。②王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった~預言者たちを殺した。③王は怒り、軍隊を送って、町を焼き払った~イスラエル王国、南ユダ王国の滅亡。④当初の招待客(ユダヤ人)ではなく、「町の大通りに出て、見かけた者は誰でも婚宴に連れてきなさい。そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来た」~すべての人が天の国に招かれることになった(ガラテヤ3:28)。

目出度く婚宴はいっぱいになったが、「礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

せっかく王が、「友よ」と呼び掛けているのだから、「すいません、礼服を持っていないのです」と言えば貸してくれた、否、最上の着物を着せてくれたであろう(ルカ15章)。が、黙っていた~せっかく婚宴の席にまで招かれたのに、最後に「救い」を拒否した~イスカリオテのユダが心をよぎる。

この譬えを聞いて、「では私はきちんとした礼服で礼拝を守ろう」は初心者マーク。イエス様の“血の汗”をしたたらせての祈りと願いは、すべての人が救われることである。

この譬えの冒頭、「食事の用意が整いました。…さあ、婚宴においでください。」と全ての人を招いた王に倣い、また大通りに出て行って婚宴の席をともかくいっぱいにした家来に倣い、「さあ、一緒に恵みの礼拝へどうぞ」と招くのがハレルヤ!  中島 聡主任牧師

マタイ20:1-16   「ぶどう園の労働者のたとえ」幾度、読んでも、第一印象は「そりゃ、朝一から働いていた人たちが怒るのも無理ないな」。だから、聖書は何度でも読む必要があると示される。

ぶどう園の主人が、園で働く労働者を雇うために、夜明けに広場に出かけて行き、1日1デナリオンの契約で園に人を送ったとある。この後も、時間差で人々が雇われ、働くことになる。

主人が動き始めた「夜明け」と言えば5時頃だから、一番目に雇われた人は、早朝6時スタートということになる。2番目が朝9時、3番目が昼12時、4番目が午後3時、そして最後が午後5時。夕方になって賃金が支払い始められた。7時だと夜だから、おそらく夕方6時。最後の人はたった1時間しか働いていない。最初の人は、実に12時間労働。「賃金は最後に来た人から払ってやりなさい」との主人の命令。最後の人は、1時間働いて、1デナリオンを受け取った。早朝から働いて人たちは「『もっと多く貰えるだろう』と思っていたが、同じ1デナリオンだったので、不平を言った。」当たり前だろう!これが会社なら大問題だが、ここは「天の国」であることを忘れないように。

労働時間が短い人達は、なかなか雇われなかった人達。決して、だらけて、さぼっていたのではない。聖書には早朝から、夕方5時ごろまで、「1日中、立っていた」とある。ずっと立ち続け、働けるのを待っていたのである。誰からも声をかけられず、目の前を次々と雇われ、働きに行ける人をずっと立ちながら見ていたのである。どんなにさびしくてつらいことであったろう。主は「あなたも天の国に招きたい」と言われた。

天の国に人々を招くため、夜明けから一番最初に働き始めているのは「主人」だ。そいて、朝9時、昼12時、午後3時、夕方5時と、天に招くために何回も何回も広場まで足を運んでいるのも主人であることを忘れないように。天の国、永遠の命は、神様の愛によって私たちに与えられる恵みである。決して私たちの善行に対する対価ではない。私たちは、この主の恵み、救いにどれだけの人をお招きすることができるだろうか。何回、足を運ぶだろうか。主と共に伝道へ。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 5月 19th, 2019

ルカ18:18-30

福音書をまとめると「富める青年議員」が、イエス様に「永遠の命」を受け継ぐ方法を尋ね求めた。イエス様は彼に十戒の遵守を教えられた。彼は「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と答えたので、イエス様は「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と教えられた。残念ながら彼は、「非常に悲しんで」立ち去ってしまった。「大変な金持ちだったからである」。

実は、イエス様は「永遠の命」を受け継ぐ術について教えてはおられない。「天に富を積むことになる」と言われただけである。最も大切なことは、最後に「それから、わたしに従いなさい」と語りかけられた通りに、イエス様を、「永遠の命」を与えてくださる救い主と信じて従うことである。イエス様は、彼をすでに弟子として認めておられるのである。

最大の使徒と言われるパウロも、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、…愛がなければ、わたしに何の益もない」(Ⅰコリント13:3)と喝破したとおり、《善行》は永遠の命の約束手形ではないが、せっかくの求道者に対して、あまりにも手厳しいと思ってしまう。全財産を、愛をもって使い尽くすとは、誰にでも出来ることではない。これでは伝道、信仰へのアプローチはほとんど不可能になってしまう。

しかしながら、イエス様は彼を「慈しんで」おられたことに目をとめたい(マルコ10:21)。そうすれば、確かに聖書には「同一人物」とは記されていないが、イエス様の葬りに際して、「金持ちで、…この人もイエスの弟子であった」(マタイ)、「身分の高い議員」(マルコ)、「ヨセフという議員…、善良で正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。…神の国を待ち望んでいた」(ルカ)と記されたるは彼であろう、と心に染み込んでくるのである。イエス様は必ず私達を慈しみ、永遠の命に導いてくださると信じるのがハレルヤ! 中島 聡主任牧師

ヨハネの黙示録22:1-7

「ヨハネの黙示録」の最終章は、天国の有様を記している。神の御子イエス・キリストが、如何にして懐妊されたのか、癒しを行われたのか。復活されたのか、私たちにそのメカニズムが教えられていない。同様に御子の再臨、救いの完成がいつなのか、その「時や時期は、あなたがたの知るところではない」(使徒言行録1:7)とある。また永遠の命がいかなるものであるのか定かではない。しかし、愛の使徒ヨハネを通して、天国がどのようなところであるのかが記されている。無論、これとても私たちに理解できる範囲の言葉で描写された天国の有様であるが、一つの希望と言える。

「輝く命の水の川」、「年に十二回、毎月実を実らせる命の木」、天国は命に満ちている。呪われるものはなく、病は癒され、神の僕たちは神を礼拝し、神の御顔を仰ぎ見るとある。まさに天国である。

イエス様は、この天国に私たちを招き入れるために、この世にお生まれになり、十字架に架かり、三日後に復活され、永遠の命を証してくださったのである。主の再臨がいつかは秘められているが、マタイ福音書24章に、①偽メシア、②戦争の騒ぎ、噂、③民族、国同士の争い、④飢饉や地震、⑤あらゆる民に憎まれる、殉教する、と再臨前の徴は明らかにされている。「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる、多くの人の愛が冷える」から気をつけなさい。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」のである。

「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」主は「この書物の預言の言葉を秘密にしておいてはいけない」と仰せられた。全ての人が天に招かれている。新年度も御救いを宣べ伝えて参りましょう。ハレルヤ! 中島聡主任牧師

使徒言行録1:3-11   イエス様は約束の通りに、三日後に復活された。婦人たちも弟子たちも信じることができなかったが、イエス様は決して叱り飛ばしたり、諦めたりすることなく、何度も御身を現し、傷跡を示し、皆に「平安」を与え、食事を共にされ、預言は必ず成就することを教えてくださった。それは実に四十日間に及んだ!その忍耐は「荒野の四十年」、「荒野の四十日」に匹敵する、否、凌ぐと思われる。神の御子が十字架に架かってまで証された復活を信じようとしない。「一体これ以上どうしろと言うのか!」となるところを、イエス様はまた“世話を焼く”ところから始めて、懇々と諭し続けてくださったのである。福音を伝えることの根気、伝えるにあたっての遜りを学ばされる。

確かに、弟子達は全世界に福音を宣べ伝える使徒となっていくが、それは弟子達が回心したからではない。無論、復活の主に教えられ、やっと得心し、「そうありたい!」と弟子達が祈り願ったことは大切なことだが、福音宣教は決して「人の力」によるのではない。それは、主が弟子達を「愛し抜かれて」、弟子達が全く不十分であるにも関わらず、御自身の命に続いて、「聖霊」をも与えて下さったからである。

実は、この期に及んで弟子達はまだ真の福音の何たるかを微塵も理解してはいない!だから弟子達は「『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた」のである。まだ福音とは、「イスラエル人のもの、王国の再建」と考えているのである。

そこで「イエスは言われた。『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』」

福音は全ての人のためなり。そして全ての人に伝える力、すなわち聖霊が与えるとの約束を信じるのが、「再臨信仰」なのである。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

nakajima on 4月 29th, 2019

ヨハネ21:1-14

イエス・キリストの復活。三度も繰り返された預言の通り、主は甦られた。天の御使いもそのように告げた。しかし、婦人たちも、弟子たちも、誰も信じることができなかった。せっかく復活したのに。主のお気持ちは如何であったろうか。婦人たちも、弟子たちも心の底からイエス様を信じてはいなかったということになる。しかし、イエス様は、そのような「迷える子羊」(迷い出た子羊は一匹ではなかった。全部だったが、主はすべての弟子たち)を愛され、何度も御身を現して、力強く信仰に生きることができるように説得を続けてくださったのである。

いよいよ十字架に磔られる直前、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)とは、誠に真実であった。

天の御父は、私たちの信じ切ることができない弱さも、私たちの罪もご存知である。 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ4:10)。

「口で言っても言うことを聞かない。約束を守れない。」これは子どもである。実に手の掛かる、世話の焼けることである。それでもその子に向き合い、育てるのは愛に他ならない。世話を“焼く”とは、火をおこして煮炊きする、食事を作って食べさせてやる、まさに生きる基本であろう。この段階のことをイエス様は最後まで根気強く成されたのである。弟子たちが、愛する我が子であったからだ。「御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(同3:1)。

イエス様は、復活を信じられないで逃げ出そうとしていた弟子たちに、“大漁=必ずや多くの人を漁(すなど)る漁師になるとの確約”を与え、炭火をおこして魚を焼き、パンを分け与え、食べさせてくださった。この主が私たちをも愛し、伝道に足る恵みを与えていて下さるのである。ハレルヤ!中島聡主任牧師

マルコ16:1-8

随分前から教会では「本当のクリスマス」という言い方をしているが、遂にイースターもその仲間入りを果たした感がある。日本でイースターの認知度が8割に達しているという調査報告があるとおり、CM、スーパー、アミューズメントパーク、そこら中にイースターが溢れている。クリスマス同様、商業ベースになっており、教会は「本当のイースター」を説き明かしていかねばならない。

預言の通りに、イエス・キリストは十字架の死から三日後に復活された!まさにキリスト教会の根幹を成す祝祭日である。復活の伝承として最古のものであろうマルコ福音書では、その事実に最初に遭遇したのは「婦人たち」だった。日が上るとすぐに墓に向かったマグダラのマリア、ヤコブ(とヨセフ)の母マリア、サロメは、墓を封印していた大きな石がすでに脇に転がしてあったので、中に入ると「白い長い衣を着た若者」から主イエスの復活を告げ知らされたとある。

そして、弟子たち、ペトロに、イエス様が復活されたこと、ガリラヤでイエス様に出会えることを伝えるように命じられたが、恐ろしさの余り、「正気を失って」、「誰にも何も言わなかった」。無理もないと思えるが、イエス様は、マグダラのマリアに御自身を現して、「復活の第一証人」としてくださったのである!

このマリアに関しては、主に香油を注いだ女とする 伝承もあるが定かではない。しかし、「七つの悪霊を追い出していただいた婦人」とあるから、どれほどの苦しみ、孤独、絶望感に嘖(さいな)まされていたことだろうか。しかし、主によって癒され、全世界のキリスト教会の根幹と成る復活の証人となったのである。このように復活の意義は、その奇跡性よりも、信仰によって人が新たに造り変えられるという点にある。

マリアは正気を取り戻し、弟子たちに主の復活を告げ知らせたのであった。私たちも信仰によって永遠の命の福音を伝えん!ハレルヤ!中島聡主任牧師

ルカ23:39-49

預言の通りに、ついにイエス様が十字架に架けられる日がおとずれた。それは人間の目から見れば、敗北、絶望、まさに「つまずきの石」(詩編118:22、マタイ21:42、Ⅰペトロ2:7,8)であった。しかし、同時にこれもまた預言の通り、「今日こそ主の御業の日」となり、「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。」との祈りが成就されたのである。

主の両脇に十字架で死刑に処せられるほどの重犯罪人が引かれて来て、一人は主を口汚くののしったが、一人は主の義を認め、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と信仰告白を果たした。すると、主は「はっきり、言っておくが、あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と救いを宣言された。確かに「どうか主よ、わたしたちに救いを」との祈りは遂げられた。

これだけでも主の愛の広さ深さに驚嘆するものであるが、では、ののしった者はどうなったのか?さすがに地獄か。否、主の愛の大いなるは私たちの思いを遙かに凌駕するものであることが既に明らかになっている。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」これこそ、神の愛(アガペ)!主をあざけり、ののしったユダヤ教指導者、ローマ兵たち、主を裏切った弟子たち、十字架を見上げているが何もできないでいる者たち、主はもうすべての人のために赦しを祈って、十字架に御身を捧げられたのである。

《赦し~Forgive.》 まさに「あなたのために与える」である。主は、交換条件なく、許可でもなく、御身をもって罪の赦しを与え、永遠の命を与えてくださった。主は十字架の傍らにいたもう一人の者、陰府にいる者にも「宣教されました」(Ⅰペトロ3:19)。この主の愛に満たされ「祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(同3:9)との御言葉に従って参りましょう。ハレルヤ!中島聡主任牧師