ルカによる福音書1:1-14 新p.99
いよいよ待降節、イエス・キリストの御降誕を待ち望む、アドベントの時となりました。教会にとっては喜びの時でありますが、残念ながらイスラエルとパレスチナの停戦は終戦に至りませんでした。
ウクライナにおける戦争はいまなお続いています。アフガニスタンは200万人の難民を抱え、アフリカ・スーダン、シリア、ソマリヤ、世界の紛争、内乱は激化しています。そのような中、私たちのこの教会における礼拝、アドベントを迎えての礼拝が何をもたらすのか。今朝の御言葉は私たちの信仰をいかに導くものであるのか。まさに主に祈り求める他はないのです。主の御名を誉め讃え、御言葉の真理の導きに与って参りましょう。ハレルヤ!
ルカ福音書の冒頭を読みますと、新約聖書、福音書が何の目的のために、どのように書き残されたのかが、明確に記されています。1-2節「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。」イエス・キリストの福音宣教については、当時、多くの人々が書き残そうとしていました。
新約聖書、当然ですが、とりわけ福音書はイエス・キリストが為した御業について書き残そうとされたものです。福音書、これをGospelと呼びますが、新約聖書が成立するにあたって、最初、ルカ福音書の一部のみを聖書とする動きがありました。最終的にカルタゴ教会会議(397年)において、現在の四福音書が正典(神の霊感、啓示によって書き残されたもの)として定められました。
福音書の中で、マルコ福音書が一番最初にまとめられましたが、正典性においては、ルカ福音書は最初に聖書と定められていたんですね。それは、ルカ福音書の献呈先である「テオフィロさま」(口語訳テオフィロ閣下)、ローマ帝国の高官に宛てて書かれているものであり、信憑性が高いわけです。別に身分の高い人に宛てて書いたから良いものというわけではありません。
しかし、続編の使徒言行録も同じくテオフィロさまに宛てて書かれていることと合わせて、すなわち、福音書が「ローマへの伝道」を意図していることが分かります。ここが大切なんですね。
それは、イエス・キリストの最後の宣教命令、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」に忠実に従おうとする弟子たちの熱意溢れる信仰が伝わります。当時、随一の国であるローマ帝国に向かってイエス・キリストの福音を宣べ伝えようとしている。この力強さ、キリストの命令に忠実なる弟子たちの存在が見えるのです。
頼もしいですね。十字架から逃げ出した弟子たちとは思えません。これが復活のキリストに出会って与えられた聖霊の力ですね。しかして、ルカはもちろん、マタイもマルコもヨハネも、キリストの福音を伝えるための福音書でありながら、その始まりは「バプテスマのヨハネ」であると、書き記しています。
ルカ福音書の書き出しは、献呈の言葉に続いて、洗礼者ヨハネの誕生を書き記していますね。マルコ福音書はもっと明確に分かり易い。1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。はっきり、福音の初まりは、バプテスマのヨハネである、と宣言しているのです。
では、この意図することは何か?それは、バプテスマのヨハネの誕生物語を読みますと、明らかに、「旧約聖書全体にわたる神の愛と導きをここに集約させて宣べ伝えよう」という信仰が示されているのです。
ヨハネの誕生を見て参りましょう。祭司ザカリアと妻エリサベトには、「子どもがなく、二人とも既に年をとっていた」、しかし、神の恩寵によってヨハネが与えられた!
このことは、明らかに神が高齢となっていたアブラハムとサラを祝福の基に選ばれたことに遡るものです。ヨハネ誕生の預言にあたって御使ガブリエルが、「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる」(1:14)と言いましたが、⇔ これは、「神はわたしに笑いをお与えになった」(創世記21:6)を対比するものであり、この神の祝福を継承するものであります。
もう望むべくもなかったアブラハムとサラ、ザカリヤとエリサベト、しかし、神は彼らを祝福し、大いなる御業を与えられました。ここに福音書の意図するところ、信仰のなんたるかが、記されています。
第一に、信仰とは、もちろんイエス・キリストによる福音でありますが、それはアブラハムに遡る父なる神、ずっとずっとイスラエルの民を愛し続け、選び続け、導き続けてくださった父なる神の愛を継承するものであること。
そして、神の、イエス・キリストの福音のメッセージが、バプテスマのヨハネから始まるということは、アブラハムとサラを旧約聖書をまとめるものとし、ザカリヤとエリサベトにそれらを継承させ、信仰とは何か、福音とは何か、を言いたい、伝えたいことはただ一つ。
信仰の始まりにおいて、あなたが神の祝福を受けるにあたって、あなたに大いなる神の御業が始まるのに、年齢は一切関係が無いということです。信仰に、神の御業に、「老い」は無い、ということです(「わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」Ⅱコリント4:16)。
この一点だけでも会得することができれば、信仰はとてつもなく強くなる。弟子たちが福音書を書き記し、ローマであろうが立ち向かい、世界に福音を宣べ伝える者となったように。これが祝福を受けた者の力ですね。
ここで、しかして、その祝福とは、決してこの世的な御利益のことではありません。それは、少し、聖書を先に進めての話しになりますが、もう一つ、ヨハネに集約されている、継承されている部分を読めば明かです。
ヨハネは祭司ザカリヤの子であり、本来は神殿に仕える者となるはずでしたが、イエス・キリストの福音の道を備えるために、神殿ではなく荒野で生活し、ヨルダン川でバプテスマを授ける者となりました。皆を天の国、神の国に導くために、荒野で過ごし、最後は斬首となりましたね。イスラエルを神の約束の地に導くために、イスラエルの民を顧みることなく王家で過ごすこともできたのに、荒野の40年を背負い、しかも、自らは約束の地に入ることは許されなかった、荒野で生涯を終えたモーセの如くです。
このように、なぜキリストの福音の初まりにバプテスマのヨハネが置かれているのか、それは、旧約を背負うためであり、旧約の間に注がれてきた神の愛を伝えるためです。
私たちも、アドベント、キリストの降誕と福音を待ち望むにあたって、バプテスマのヨハネの誕生を通して、先ずもって、かくも注がれてきた神の愛の深さを想うべきこと。そして、キリストへの道を備えるために、自らの命を献げたヨハネの愛に倣って、アドベントとの伝道に、教会の一つ一つの奉仕に仕えていくべきことを示されるのです。一にも二にも、愛によって、献身の心によってです。
いよいよ、神の御子を迎える時です。神の御子は降誕の時から試練の只中にありました。昨日、子どもの教会の小麦クラスのクリスマス会が行われました。最初、少し参加者が少ないかな、と思っていたのですが、18名の子どもたちが集まってきました。そこには秋のバザーを行った結果、まるで白百合の同窓会のように集まってきた子どもたちが、クリスマス会にも行く!ということによるものでした。
この世界は混沌であり、試練も多くあります。しかし、私たちが、これまでに注がれてきた神の愛を知るならば、感謝を深めることができるなら、私たちはなおも福音の種を蒔き続けることができるのです。
「その子はあなたがたにとって、多くの人にとって喜びとなる」、アドベントを迎える私たちが、バプテスマのヨハネがわたしたちのためにも与えられたことを信じるならば、私たちはそれに続く者として強められるのです。信仰の初まりに年齢は関係がない、信仰には老いがないことを知るならば、わたしたちは、命の限り、主の弟子であることができるのです。
確かに世界は混沌であり、試練もあります。しかし、今、私たちは福音を宣べ伝えることができる時と力を与えられています。クリスマスの真の恵み、キリストによる救いを伝えて参りましょう。ハレルヤ! 中島 聡牧師
ルカによる福音書7:36-50 新p.116
ある時、ファリサイ派のシモンが主イエスを食事へと招きました。その食事の席に罪深い女が紛れ込み、主イエスの足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、香油を塗ったというのです。
さてこのシモンに目を向ければ、彼は典型的なファリサイ派でした。彼はまず、主イエスの足を涙で濡らした女をさばきました。そしてその行いを許している主イエスをも心の中でさばきました。
そのようなシモンでも主イエスを食事に招待したのですから、ほんの少しでも求める心があったのでしょう。自分はファリサイ派として律法を守り、正しい行いをしている、と思っていたわけですから、少ない借金を赦してもらった者に彼はなぞらえられます。
主イエスのたとえ話にはほかにも、借金が赦された者が出てきます。それがマタイ18:21以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」です。そこで家来が赦された借金は、1万タラントンもの膨大な額でありました。
これが、私たちの受けた赦しです。自分ではどうがんばっても到底返すことのできない負債を、神さまが完全に赦してくださった、恩赦を与えてくださったのです。この恵みを忘れてしまうのなら、このシモンと同じ過ちを私たちも犯すことになるでしょう。
「自分は正しい、自分は赦される必要など無い」、という思いは、いつの間にか神さまを隅に追いやってしまうことになりかねません。そうなりますと当然、私たちは神さまから離れてしまうことになります。神さまが見えなくなってしまいます。
そうならないために必要なのは、この「罪深い女」のように、自分が罪深いものである、と知ることです。そして、自分の受けた赦しが如何に大きいものかを知ることです。そうするとき、主イエスが47節で「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と語られたとおりになるでしょう。
「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」とありますが、私たちが受けている赦しは、「少ない」ということは決してありません。主イエスの十字架の贖いを受け入れた者は、莫大な負債を赦されているのです。
けれども、そのような赦しを受けている事実を私たち自身がどう受け止めるのか、で大きく変わってくるでしょう。私たちは自分自身がいかに多く赦しを受けているか、改めて覚えたいと思います。そして、多く赦されている者であることを自覚し、神さまと隣人とを大いに愛するものとして歩んでいきましょう。ハレルヤ!
片平貴宣牧師
ルカによる福音書7:1-10 新p.114
「百人隊長の部下の癒し」です。イエス様による癒しの奇跡を耳にした百人隊長は「ユダヤの長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」とあります。すでにユダヤ教指導者たちは「怒り狂って」(ルカ6:11)激しくイエス様を敵視していましたので、さぞかし嫌な役目であったと思います。
しかし、「長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った」のでした。彼らは百人隊長が「そうしていただくのに【ふさわしい人】です」と口添えをしました。口語訳では「あの人はそうしていただく【値打ち】がございます」とより分かり易い表現がされています。それは、「百人隊長がユダヤ人を愛して、みずから会堂を建ててくれた」からでした。病に苦しんでいる(マタイによれば中風でひどく苦しんでいる)人が可哀想だから癒してあげてくれ、ではありませんでした。
なんとも‘都合の良い話し’ですが、イエス様はこれに応えられました。ここにイエス様の分け隔てのない愛が示されています。
イエス様は自分を敵視しているユダヤ教指導者たちの願いを聞き入れ、病人のもとに向かわれました。すると「百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。』」と伝えさせ、「ただ癒しの命令を下さい」と願ったのでした。
伝え聞きでありながら、隊長は完全にイエス様を信じていたのです。部下の癒しのために。マタイでは、百人隊長自らがイエス様に懇願し、そして、ルカと同様に「癒しの命令」だけを求めたとあります。当時のユダヤはローマ帝国の統治下にありましたから、支配者側が属民に対してここまでの平身低頭、礼を尽くすのは考えられないことです。しかも自分のためではなく部下のためです。
イエス様はこれに感心し、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と絶賛されました。それはイエス様に対して礼を尽くしたからではなく、部下の癒しのために、信じ抜く心根を称賛されているのです。
ここに信仰の本質が明らかにされます。勿論、信仰は自分の救いのためですが、必ずや「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)へと“聖化”していくのです。「霊の結ぶ実は愛であり」(ガラテヤ5:22)、聖霊による神の愛は与える愛、仕える愛なのです。
イエス様は神の御子でありながら、病人に仕える「癒し主」となって下さいました。これぞ我らの希望であり、そのような主イエスに従いお仕えして参りましょう。ハレルヤ! 中島 聡牧師
マルコによる福音書3:13-19 新p.65
イエス様が十二弟子を任命されたことに学びます。イエス様が宣教活動を開始され、どのような状況であったのかと言いますと、(マルコ1:28)「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」とあります。
多くの癒しの奇跡を行われたイエス様のもとに、すでに多くの従う者たちが集まっていたのです。誰の目から見ても、それは凄まじいほどの人気と言いますか、ユダヤの在り方を変えてしまうほどの様相であったわけです。
在り方を変えてしまうとは、時の指導体制であった、ユダヤ教指導者たちによる統治、それはサンヘドリン、大祭司を筆頭とする71人の議員によって構成されている最高法院による統治のことです。彼らは、救いに与るのはユダヤ人のみとしていましたし、その権威は自分たちにしか無いと考えていました。
ところが、イエス様は、すべての人が、ユダヤ人も異邦人も信じることによって救われる、神殿によらないバプテスマを授けていました。また、安息日であろうが次々と病を癒し、人々はイエス様に従っていきました。
そこで、(同3:6)「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とある状況だったのです。ユダヤ教指導者たちによるイエスさまへの攻撃が鮮明になっていたわけです。
そのような中、イエス様は「これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。」とあります。弟子たちを任命するにあたっての“選考基準”は記されていませんが、選ばれた人たちを見ますと、シモン・ペトロ(岩)とその兄弟アンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネ(彼らはボアネルゲス「雷の子」と名付けられた)、まず漁師4人。フィリポ、バルトロマイ(またの名をナタナエル)、ここまでの6名はベトサイダ(漁村)の出身。
次にマタイ(レビ・取税人)、そして、トマス(「ディディモ(双子)」とも呼ばれる)、さらにアルファイの子ヤコブ(小ヤコブ)に、タダイ(ユダとも呼ばれます)、そしてシモン(熱心党)、この5名はガリラヤ地方出身。最後にイスカリオテのユダ(エルサレム出身)。
まあ相当、くせもあくも強い12人であることが分かります。
選考基準は分かりませんが、選考の理由ははっきりしています。「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された」と明記されています。これは、まるで「天使」です。
福音を宣べ伝え、悪霊をも追い出す権能を持っている。すごいことです。
上述の通り、ユダヤ教指導者の攻撃の手はどんどんエスカレートし、その矛先は弟子たちにも向けられていました。どうしてあなたがたは罪人と一緒に食事をするのか。どうして、安息日に麦の穂を摘んで食べるのか。一見ささいなことのように思われますが、当時の律法違反による罪は重いものであり、彼らはなんとかして、イエス様の命を奪おうとし、また弟子たちも狙っていました。
切り口は律法違反ですが、その根本原因は一言で言えば妬みです。妬みの大本は「どうして自分よりも。自分たちが一番のはずだ」という高慢な心です。これは誰もが陥る危険性のある罪です(『神曲』七つの大罪の第一番目)。
中世イギリスの文学作品において傑作とされる『失楽園』(『Paradise Lost』John Milton.1667)では、大天使であったルシファーが、この罪に陥る様を描いています。天使ですら妬みを覚えるのですね。
ルシファー最高位の天使でした。その名は「光をもたらす者」という意味であり、神に次ぐ地位にあったわけです。ところが、神様はイエス・キリストを一番尊いとされました。ルシファーは、自分よりもキリストが高位となったことに激しく嫉妬するのです。キリスト、人となり、貧しい馬小屋で産まれ、福音宣教のために天使ではなく、また人を選び、一体、どういうことだ。全てが許せないルシファーは、神に反逆を企て堕天使となってしまうわけです。
天使ですら「一番は自分だ」という罪に陥ってしまうのです。この罪は次々と争いを生み出していきます。今日の戦争も自国、自民族一番が根本にあります。
イエス様は「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は皆の僕になりなさい」(マタイ20:26-27)と教えられました。神の御心、イエス様の御心は、私たちのために自らの命を献げるという、至上の愛、これこそ神の愛、アガペの愛であったわけですが、ルシファーも、時の指導者たちも理解できなかったのです。
危険な状況の中、選ばれし弟子となった十二人も偉いと思いますが、この点は理解することができませんでした。ですから一度、十字架を前に逃げ出してしまうわけです。しかし、それでも、イエス様は復活され、弟子たちをこの上なく愛し抜かれるのです。そして、遂にその神の愛を信じることができた弟子たちは皆、命掛けで福音を世界に宣べ伝えにいくのです。
別の文献ですが、天使がイエス様に尋ねるのですね。どうして、あなたは力に満ちた天使ではなく、どうしようにないような人間を選ばれたのですか? イエス様は、「見ているがよい。福音とは愛によってしか伝えられないことを。あなたがたは弱い存在と見るが、神の力は弱いところにこそ強く働くのである。」と答えられるのです。
そして、イエス様の言葉どおりに、神の愛、主の愛を信じ、身に帯びた弟子たちは、力強く福音を宣べ伝え、やがてローマの国教となるまでに、そして、世界に伝えられていったのです。
先週の水曜日、清水ヶ丘教会の創立者の一人と仰ぐメーヤー宣教師の召天記念礼拝が鶏鳴チャペルで行われました。毎年、同じくメーヤー宣教師を創立者と仰ぐ目白教会の古旗誠牧師が司式者となってくださり、メッセージを執り継いでくださっています。メーヤー宣教師、明治44年、1909年11月12日に来日され、戦前戦中戦後と、実に半世紀に及んでこの日本の地において福音を宣べ伝えられました。
戦時中は敵国民として、虐げられました。せっかく身を賭して、日本の地に福音を宣べ伝えていたのに、敵視される、憲兵隊によって厳しい監視下に置かれ、監禁状態にあったわです。そのような辛酸を覚えながらも、戦争が終わるやGHQの中枢に身を置き、いち早く焼け野原となった日本の復興と、多くの教会建設、日本聖書神学校の建設に身を捧げられたのです。
このような自らを捧げる信仰がイエス様の弟子たちから世界へ伝えられ、メーヤー宣教師に伝えられていたのですね。そして、そのメーヤー宣教師に信仰が至るには、その両輪の存在があるわけです。
古旗先生が教えてくださいましたが、メーヤー宣教師のお母様は、御自分がアメリカの地においていよいよ天に召される時、息子に、フランシス・メーヤーに知らせてはいけない、電報を打ってはならないと言われたのです。息子の宣教の妨げになるから、と言われたのです。
異国の地、敵国民であった日本のために、ひたすらに神の愛を、すべての人が救われるという信仰を宣べ伝えるために、すべてを忍ばれたのです。
あなたがたは仕えられる者ではなく、仕えるものとなりなさい。自分を愛するように隣人を愛しなさい。イエス様の御教えを信じた人々は、天使にも優る力をもって福音を宣べ伝えてきたのです。
今朝、教会にとって大切な召天者祈念礼拝を捧げます。メーヤー宣教師、ラング宣教師、倉持芳雄牧師、そして、雲のごとくの証人、先達がたの尊い信仰によって教会がこの地に建てられ、今日も主の御救い息づいているのです。感謝に尽きません。
主の弟子が増すならばこの世は平和とならん。どうか、父の、母の、祖父の、祖母の信仰を受け継ぎ、仕える者となり、この地に主の愛を宣べ伝えて参りましょう。
主の御名を誉め讃えます。それでは、召天者の祈念の祈祷を御捧げいたします。ハレルヤ!中島 聡牧師
ルカによる福音書6:1-11 新p.111
「安息日」における主の御業、御心に学びます。イエス様は空腹だった弟子たちが麦畑の穂を摘み食することを善しとされ、これを咎めるファリサイ派の人々に対して、逃亡中のダビデが家臣のために、祭司以外には許されていない「聖別されたパン」(レビ記24:8-9*永遠の契約)を与えたことを話されました(サムエル記上21:1-7)。
さらに「ほかの安息日」に、右手が萎えていた人を癒されました。律法学者の人々はイエス様を訴える口実を見つけようとしていました。イエス様は「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と問い掛けて、律法は人を活かすためにあることを説かれました。
先主日のベトサダの池における癒しの奇跡も安息日に行われました。そこにはわざわざ「イエスが、安息日にこのようなことをしておられた」とまで記されています(ヨハネ5:9)。イエス様は安息日に18年間も病の霊に取りつかれていた女性を癒されました(ルカ13:10-17)。また水腫の人を癒されました(同14:1-6)。盲人を癒されました(ヨハネ9:14)。
これに対してユダヤ教指導者たちは「イエスを迫害し始めた」、「イエスを殺そうとねらうようになった」(ヨハネ5:16,18)、今朝の場面でも「怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」とあります。愛を受けとることができない心の末路です。
イエス様がこれらのことをなされたのは「人の子は安息日の主である」からです。主は6日間によって、天地万物、大自然、動植物、人間、全ての命を創造してくださいました。これだけでも計り知れない恵みですが、さらに7日目に、すべてを聖別し、祝福して下さいました。
祝福するとは、主の恵みを与えることです。命を与え、回復を与え、癒しを与え、罪を赦し、「神の子」としてくださることです。
その安息日に人が為すべきは、勿論、十戒に「安息日を覚えてこれを聖とせよ」と刻まれている通り、礼拝を守ることですが、イエス様は、この病の奇跡を通して、安息日において人を活かすこと、病を癒し、人に仕えることを示されています。
ですから、バランスが大切ですが私たちは日曜礼拝を守ると共に、日曜であっても良き業、様々な集会を持つのです。そこに集う一人一人が心の安らぎ、また霊的な力を得るためです。イエス様は安息日に限らず、御言葉の説き明かし、癒しの奇跡を行われました。主の祝福は永遠であり、毎日が祝されているのです。私たちも日々、感謝の祈り、また示された伝道に仕えて参りましょう。ハレルヤ! 中島 聡牧師
ヨハネによる福音書5:1-11 新p.171
エルサレムにベトザタ(憐れみの家)という池がありました。その池のまわりには廊下があり、たくさんの病人が池の水面を見守っていました。
この池には、水面が動いたときに池に入ると病気が治るという言い伝えがあり、たくさんの病人が、水面が動くのを今か今かと待っていました。
主イエスがここに来た時、38年間も病気で苦しんでいる病人に目を留められました。この人は池の畔にいる病人の中でも特に重い病気だったのでしょう。その病人は池の中に入りたくても体の自由がきかず、入ることができませんでした。まわりにはその病人を助けてくれる人もいませんでした。
主イエスはその病人に「良くなりたいか」(ヨハネ5:6)と尋ねられました。病人は、「はい、良くなりたいです。でも私は体が動かないのです。」と答えました。
その言葉を聞いた主イエスは、その病人に命じました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(ヨハネ5:8)すると、その人はすぐに良くなって、今まで自分が寝ていた床をかついで歩きだしました。主イエスの御言葉によって、病気はすべて癒されたのです。
けれども、その日は「安息日」(ヨハネ5:9)でありました。ユダヤ人達は安息日に癒しの業を行った主イエスと、癒しを受けた病人とを「律法違反である」として責めたのです。
しかし主イエスは語られました。同じように安息日に癒しを行った出来事がマルコ3章、ルカ6章にありますが、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3:4)と語られました。
すなわち「安息日は善を行い、命を守るためにある、さらには律法全体が善を行い、命を守るためにあるのではないか」、と主イエスは語られたのです。
私たちもこの安息日に、主の守りを受け、心と体の最高の休息を得て過ごしたいと願います。父なる神さまが創りたもうた天地万物を心に留め、造り主なる神様に心を向けて歩みましょう。ハレルヤ! 片平貴宣牧師
マタイによる福音書9:9-13
「彼は立ち上がってイエスに従った。」(9:9b)
徴税人マタイにイエス様は「わたしに従いなさい」と言われ、マタイは「立ち上がって」従いました。この「従う」とはただただ後をついていくという事ではありません。これは「決断」という、その人の存在、人生そのものがかかった毅然たる態度です。ここではただ単に「従った」と書けばよいのにわざわざ「立ち上がって」と記されています。9章7節の中風の人の「起き上がった」という言葉も同様ですが、これらの表現は信仰の始まりであり、神様への対応、態度を表しています。私たちが神様への信仰を告白する時、座っていては自分たちの古い生活や態度を捨て去ることができないので、私たちがまず立つこと、起き上がることが信仰の始まりであることを示しています。イエス様は他のリーダーや彼の雇い主とは違います。イエス様はこの時、強制的に「従え!」と命令はしていないのです。よって、信仰というのは本質的には個人的な信頼から始まるのです。
マタイがなぜイエス様を信頼できたのか。それはイエス様ご自身が罪人になられたからです。徴税人や罪人たちと食事をしていたイエスさまは「なぜ?」と問うファリサイ派の人々に対しホセア書の言葉を用いて『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。』と語ります。神様の憐れみ、愛とは、神であるイエス様ご自身が罪人の一人として数えられたということです(イザヤ書53:12b、マルコ15:28参照)。義人は自らを罪人として認められません。そこで義人の憐れみは崩壊します。しかし、イエス様は自ら罪人の地位までへりくだり、そして共に食事をされたのです。食事をすることとは人と人とが共にあること、いのちを分け合い、運命を共にすることです。イエス様は自ら罪人になるだけでなく、共にいて下さるということを、神様は私たちと共にいて下さることを主の憐れみによって示されているのです。イエス様が罪人にまでへりくだったからこそ、マタイはイエス様に従うことができました。そして、他の罪人や他の徴税人たちも安心してイエス様と共に食事が出来たのです。私たちは愛されています。もしイエス様が義人と共にあるならば、私たちがイエス様と共にいる権利はないでしょう。しかし、イエス様ご自身がへりくだってくださったことによって私たちは神様を求め、共におれるのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28) 田中尚美牧師
ルカによる福音書5:1~11
「四人の漁師を弟子に招かれたイエス」に学びます。この場面には、信仰、また教会の根源が描かれています。すべてはイエス様の御姿、イエス様の歩まれ方に拠るわけですが、その始まりは、イエス御自身が洗礼を受けられたということです。本来、罪人の救いの徴である洗礼を神の子が受けられた。これは遜りの極地と言えます。
さらに悪魔の誘惑を受けられました。四十日四十夜の断食によって空腹を覚えられました。悪魔の第一の誘惑に対して、御自身の持っている力、石をパンに変えることができる力を用いられませんでした。
第二、第三の誘惑に対して、全世界を治めることができる力、十字架から降りて、十字架に磔た者たちを天からの火で焼き払うことができる力を、自分のためには一切用いない、という献身、奉仕、仕える者としての極地を現されました。一言で言えば、「人の子」として、私たちと同じ地平に立って福音宣教を開始されたということです。
さて、イエス様は、会堂で聖書を朗読し、説教し、病を癒し、悪霊を追い出されました。しかし、故郷ナザレで受け入れられないどころか、崖から突き落とされそうになりました。サタンの言う通り、人々が求めているのは「石をパンに変える力」であって、「罪を赦す愛(しかも御自身の命をもって罪を贖われる愛)」は全く理解されていなかったのです。
さらに、外国人も全ての人も救われるとは到底受け入れられなかったのです。しかし、それでもイエス様は福音宣教に向かわれました。すなわち十字架に向かわれました。ここに福音宣教の根幹が記されています。宣教とは十字架を担うこと、他者の救いのために自分を献げること、キリストの愛に満たされていることなのです。
イエス様は宣教のために弟子を招かれました。いよいよですね、信仰、教会の原点がここにあります。この弟子の召命について、漁をしていた四人とイエス様の出会いがファーストコンタクトと思われがちです。イエス様に出会い、人間を取る漁師にしてあげようと言われ、即座に網を捨てて従った、とても劇的、ドラマチックなのですが、そうではなのですね。
これが最初ではないのです。この召命の前に、マタイ、マルコ、ルカの三福音書共に、「シモン・ペトロの姑(熱病)の癒し」の出来事があります。さらにマルコによれば、そこには「アンデレも、ヤコブもヨハネと一緒にいた」とあります。
これは最初の出会いの前のニアミスというようなものではなく、姑の癒しの後、彼らはイエス様を「もてなし」ています。その後、イエス様は、悪霊にとりつかれた大勢の人々から悪霊を追い払い、おびただしい病人を癒されました。
この間、マルコによると、一度だけシモンは「伝令係」のような働きをしていますが、ガリラヤ中の会堂を巡回してイエス様に従っていたわけではありませんでした。
これだけの出会いがあったのですが、彼らはイエス様に従う者とはなっていまなかったのです。彼らはイエス様の悪霊に打ち勝つ力、癒しの力を目の当たりにしました。しかし、群衆がイエス様から「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」時、彼らは漁をしていました。そして、何も獲れないままに漁を終えて網を洗っていました。
ぺロトもアンデレも、ヤコブもヨハネもイエス様を追いかける中にはいまなかったのです。彼らは、イエス様に出会いながらも、漁師であることを選んでいたのです。しかし、シモン・ペトロは、舟から群衆に話されるイエス様の御言葉にじっと耳を傾けている内に心とかされていったのです。
それはペトロの「わたしは罪深い者なのです」という告白に行き着きました。ここなんですね。信仰、教会の始まりは、私たちは主イエスによる救いを受けねばならない罪があるということなのです。
自分の全てを見つめ、全てを受け入れる、認めることは難しいことです。プライドもあります、やっぱり漁師のままでいい、それが普通です。しかし、そうなるときはこれも仕様の無いことなのですが、心が救いを受け入れる時が来るのです。
すべてが赦され、洗い流され、心が清くされる。無条件に、ただ信じるだけなんです。何も問われない。ただ、信じます、それだけで良いのです。
子どものように信じるものでなければ、天の国に入ることはできない。そうなれた時、彼らは「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」との召命に従うことができたのです。
決して大量の魚が獲れたからではありません。もし、大量の魚が獲れたことが一番であったら、彼らは、では、これらの魚を市場に行って売ってから従います、と言ったでしょう。
しかし、彼らは魚も舟も「すべてを捨ててイエスに従った」とあります。彼らは喜びに満ちていたと思います。すべてをかけてもよいと思える方に、信仰に出会えたからです。
私たちもイエス様に招かれています。信仰とは、信じ、喜びに満ち、弟子の一人として、なんらかの形で、祈りで、賛美で、この救いを宣べ伝えていくことです。それぞれに示された伝道の機会において、イエス様の愛に満たされて仕えて参りましょう。すべては主に出逢うこの礼拝の喜びからです。 ハレルヤ!中島 聡牧師
ルカによる福音書4:16~30
「ナザレで受け入れられないイエス」を通して福音宣教の困難さに学びます。マタイ、マルコに並行記事がありますが、ルカが最も詳細に記しています。
イエス様は福音を宣べ伝えるにあたって、先ずバプテスマを受けられました。これは「自分は罪人」の一人であると、遜りの極致を示しています。
そして次に悪魔の誘惑に遭われました。ここにおいてイエス様は、空腹を覚え、悪魔の誘惑に心揺さぶられる人の子としての遜りを明らかにすると共に、人の子として心身の激痛を受けるにも関わらず、決して天的な力を我がためには用いないで、十字架から降りない受難を顕わにされます。
そこまでされて、イエス様は宣教に、私たちの救いのために踏み出されたのです。イエス様は「霊の力に満ちてガリラヤに帰られ」ました(ルカ4:14a)。
マタイ、マルコによれば、悪霊を追い払い、会堂司の娘の甦り、12年間血友病と思われる病に苦しんでいた婦人の癒し、盲人の癒し、口が利けない人の癒しをなされました。ですから、「その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」のです(ルカ4:14b-15)。
しかし、イエス様が故郷ナザレの会堂において聖書を朗読し、説教をされると、「人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」のでした(ルカ4:28b-29)。
イエス様が人々の期待する奇跡を行わず、エリヤもエリシャも異邦人のために奇跡の力を用いたと告げられたからです。さらに、マタイ、マルコによると「『この人は、大工の息子ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように人々はイエスにつまずいた。」と(マルコ6:3)、その平凡な出自をもって救い主のはずかないと否定してしまいました。
御利益的に奇跡の力を求める姿は、まさに「石をパンに変えるイエス」を求めることに他なりません。サタンの誘惑通りであり、いざ叶えられないとなると、崖から突き落とそうとはまさに悪魔の所業です。
イエス様はそれでも福音宣教を続けられ、ひたすらにゴルゴタの丘に向かって歩み続けられたのです。見ていない主の御業を信じることはとても難しいことです。しかし、この信仰によらなければ福音を宣べ伝えることはできないのです。
主は十字架に架かられ、三日後に復活された。このわたしの救いのために。これこそがキリスト教信仰であり、キリスト教会です。
御名を賛美し、宣べ伝えて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡牧師
創世記24:57-67
礼拝では族長アブラハムの物語に聞いて来ました。今日はその息子であるイサクについてです。アブラハムとサラの間に生まれた子供、それも年を取ってから生まれました。「イサク」とは「彼は笑う」という意味で、御使いが予告した時にサラが嘲りの意味で笑ったこと、実際に生まれた時に得た喜びの笑いを意味します。
このイサクを献げよ、との出来事から数年後のこと、サラは天に召され、アブラハムもまた、地上の生涯の終わりが近づいていました。心残りなのは、息子イサクの結婚でした。
アブラハムは、信頼している僕(しもべ)に、イサクの結婚相手を探すようにと命じました。罪に陥ることがないよう、アブラハムの生まれ故郷から真の神を信じる者を選ぶようにと告げました。
僕は旅立ち、水場でらくだを休ませていたとき、こう祈りました。「この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。」」(創世記24:13-14)
祈りは速やかに応えられました。アブラハムの祈りの積み重ねもあったでしょう。既に神さまはその答えを用意しておられたのです。まさに「ヤーウェ・イルエ」、主は備えたもうとの御言葉が実現しました。リベカが現れ、祈りの通りに行ったのです。
以前に伺ったメッセージで、この「ヤーウェ・イルエ」について聞きました。「ヤーウェ・イルエ」、この言葉は御存知の通り、「主の山に備えあり」との意味になります。けれども言葉の意味からすると、「主がおられる」とも訳せるそうです。
「主の山に備えあり」と「主がおられる」では、受ける印象も違ってくると思いますが、はたしてどちらが大きく、そして深い意味を持っているでしょうか?「主の山に備えあり」だと、神さまが私たちのために準備をしていてくださる、との意味のほうが強調をされがちです。
「主がおられる」となるともっと大きな意味になります。すなわち、「主がそのことを見ておられる、主がそのことを計らってくださる」の意味なのです。神さまが私と一緒にいてくださる、とのアブラハムの信仰の告白に基づいた言葉なのです、と伺いました。
ここで僕は、まさに主が備えていてくださることを身をもって体験しました。そして、主が共にいて祈りを聞いていてくださることを知ったでしょう。神さまに希望を置いて、神さまにゆだねて歩みを進めるとき、神さまが私たちの期待をはるかに超えて最善の答えを与えてくださるのです。主なる神さまが最善を備えてくださると信じ、私たちも歩みましょう。ハレルヤ! 片平貴宣牧師