マタイによる福音書12:1-8

「安息日」は私たちが想像する以上に、イスラエルの人々にとって大切な意味を持っています。現代においても敬虔なユダヤ人は安息日には旅行をしないのはもちろん、車に乗らず、料理は作らず、電気器具は使用せず(またはスイッチをさわらず)、お金は使わず、ペンも持たず、この一日を他の曜日と区別します。

イスラエル旅行のガイドもなさっている牧師先生から聞いた話では、ユダヤでは安息日に冷蔵庫を開けることが出来ないのだといいます。それは開け閉め自体がいけないのではなく、冷蔵庫を開けると小さな電気が点きますが、それが火をおこすことに当たるのでいけない、というのです。なので、安息日のための冷蔵庫があり、そちらは開けても電気が点かないようにしてあるそうです。

また、エレベーターに乗るのは問題ないのですが、エレベーターのスイッチを操作するのはいけないので、安息日にはエレベーターは、どの階にも必ず止まって扉が自動で開くようになっているそうです。

そこまでいきますと、「あれもこれもしてはいけない」という方だけが目立ちますが、そもそも安息日はなんのためにあるのでしょうか?

主イエスは安息日の目的を大きく4つ示して下さいました。①良いことをする。②命を救う。③憐れみを示す。④すべてのものを肉体的、霊的な束縛から解放する。

安息日とは単なる休日なのではなく、私たちが本当に目を向け、心を向けるべきものがあると受け留める日です。神さまの与えて下さる回復の日、家族と共に過ごし、神と共に過ごす、神さまが与えられる自由の賜物を満喫する日なのです。

ユダヤの格言に「ユダヤ人が安息日を守る以上に、安息日がユダヤ人を守った」という言葉があります。これは私たちにも当てはまるでしょう。私たちのために安息日は定められました。私たちは安息日によって守られているのです。

この日、心を静めて神さまが造られた天地を見、神さまが語られた御言葉に耳を傾け、養われましょう。この一週間も神さまを覚え、神さまの守りの内を歩むために、週の初めの日に御言葉に聞くことは大切なことです。またこの日曜日になされた主イエスの復活を覚え、聖霊による新しい命を受けて歩みましょう。ハレルヤ! 片平貴宣牧師

nakajima on 2月 21st, 2021

ヨハネによる福音書5:1-9

ベトザタの池における癒し。エルサレム神殿の羊の門の傍らにベトザタ(「憐れみの家」という説が有力)と名付けられた池があった。池は二つあり、池を囲んで「五つの回廊」があり、そこには「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」。池の水が動いた時、一番に入水した者は癒やされるという奇跡の伝承に多くの病人がすがっていたからである。

「そこに三十八年病気で苦しんでいる人がいた」。「も」が表したいことは最長期間と思われるが、イエス様は、おそらく大勢の中でも一番苦しみ続けている人に声を掛けられたのであろう。

「良くなりたいか。」当たり前すぎる不躾な問い掛けと思えるが、この物語は、人は苦しみ、痛みが重なると、また人生の大部分が苦しみの内にあると、そもそも何に苦しみ、自分が求めていたことは何であったのかさえ分からなくなってしまうことを示している。

「良くなりたいか?」これは弟子達、サマリヤの女性に対して問い掛けられたように、この人にとって核心の問いかけであったのだ。事実、この人はイエス様の問い掛けに対して、当然答えるべき「良くなりたいです!」ではなく、「主よ、水が動く時、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と、病の癒しではなく、自分が周囲から捨て置かれていることへの不満、悲しみ、怒りを吐露した。しかし、その心情こそ、その人の本心であったのだ。この人は病ももちろんであるが、その孤独感、悲しみから解き放たれねばならなかったのである。

「誰もわたしを助けてはくれないのです。」イエス様はその答えを聞いて、「何を愚痴を言っているのだ」と指摘するのではなく、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と本当に必要な救いを与え、その人がなすべきことを示してくださった。

「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。」今回、この物語において私の心に一番突き刺さったのは、この「歩き出した」という言葉である。勿論、寝たきりの人が歩き出したのだから、その奇跡に驚きを覚えてきたが、歩き出した… … 。一体、どこに向かって歩き出すというのだろうか。

この人は三十八年間、寝たきりだったのだ。誰も水に入れてくれる人がいなかったということは、家族も友人も誰も気に掛けてくれる人がいなかったということだ。一体いつからここで一人苦しい時を過ごしていたのだろうか。子どもの頃からか。親に見捨てられたのか。この人は歩けるようになっても、帰る場所などない。歩けるようになっても、歩き出して向かうべき場所などないのだ。だから、後日、イエス様が神殿の境内に来られるとその人がいたとある。

この人は三十八年間、寝たきりであったが、食事を取ることはできていた。誰かが施しをしてくれていたのであろう。その施しに頼って三十八年間。この人はここ以外に自分の居場所は無いと思っていた、心理的にここを離れることができなくなっていたと思われる。

しかし、イエス様が再度、この人に「あなたは良くなったのだ」と言われると、彼は「(神殿から)立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた」と、救いの到来を告げ知らせる者となったと記されている。足が動くようになったことも奇跡だが、一人の人が、自分の人生に向かって、福音宣教に向かって歩き出すことこそが奇跡である。弟子達、サマリヤの女性、三十八年間寝たきりであった人、聖書はイエス様が実に一人一人の人生の核心に迫り、そこからの回復、癒しをお与えになり、私たちはそれぞれの人生に、福音宣教に向かっていくことができる幸いを記している。

人々はベトザタの池を奇跡の水と思っていた。今日的にも、そのような人生の捉え方があるだろう。誰が一番になれるか。そこにいる人は皆、弱く、皆、何かしらに苦しみ、傷ついているのに、それでもその中で誰が一番か、競争の渦から抜け出せないでいる。彼が神殿から立ち去ったとは実に意義深い言葉である。それは形式主義、権威主義に陥り、形骸化してしまった信仰からの脱却であろう。そもそも唯一の神への信仰以外に、池の水を信仰化して頼ることがおかしい。

真の奇跡は、私たちのために、救いのために、自分が一番になることではなく、御自身を最下位に捨て置いて、十字架に架かってくださった主イエス・キリスト御自身のことである。

イザヤ書53:4~「彼、キリストが担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのだ。彼、キリストが打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた傷によって、わたしたちは癒やされた。」

真の奇跡は、私たちの傷ついた傷を癒やすために鞭打たれ、私たちに心の奥底から解き放たれ、自分の歩むべき人生を歩み出すことが出来るように、自らは傷つくことをいとわれずに、命まで献げてくださった主イエス・キリストである。

一昨日、この礼拝堂で、白百合光の子幼稚園の「こひつじ会」(発表会)が行われた。最後の通し練習の時、2月の暗証聖句コロサイ3:14「『愛は、すべてを完成させる絆です』のきずなって何?どういうこと?」と質問したら、年長の一人が、たどたどしくも、「きずなおす、きずをなおしてあげること」と答えた。私は心底、驚かされた。これほど的を得た答えがあるだろうか。辞書には、断とうにも断ち切れない人の結びつき。決して切れることのない深い結びつきとあるが、何のためにが重要なのだ。好きな人だから別れがたい、愛する人だから大事にするではない。神の愛による絆は、まさに、私たちの傷を癒やすために、決して切れることのない結びつきを言い表している。

「誰でも幼な子のようでなければ神の国に入ることはできない。」(マルコ10:15)「神はこれらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼な子のような者にお示しになりました。」(ルカ10:21)今一度、神の御前にへりくだり、幼な子のごとく素直になって、私たちのために十字架に架かってくださったイエス様が私と共にいて下さるという真の奇跡と恵みに生きて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

 

nakajima on 2月 14th, 2021

ヨハネによる福音書4:7-15

「水」は、信仰理解において非常に重要な鍵語である。天地創造においても、「神の霊が“水”の面を動いていた」と一番最初に水が出てくる。

従って、元素記号1番は「H(水素)」となっている。水素は文字通り「水の素」であり、すべての命を生み出した元素とも言われている。水素は陽子1個、電子1個で構成される最も小さな元素であるが、宇宙全体の元素の90%、宇宙全体の質量の70%を占めており、太陽も水素の塊のようなものであり、地球が生命と緑に溢れているのも水素⇒水による。この科学的事実も、「神は(水素に満ちた)大空を造り、大空の下(大気)と大空の上(宇宙)に水を分けさせられた」(創世記1:1-10)と、聖書に記されている。

私たちは、神の創造によって命ある者とされた。その肉体は水を必要とするので、神は出エジプトの時のように、渇く民に水をお与えになってくださった。信仰において水は2021年の年間聖句のごとく、神の恩寵の象徴である。

また、バプテスマのヨハネによる洗礼、イエス・キリストご自身の洗礼に示されるように、水は私たちの罪を贖い、赦してくださる神の愛の象徴でもある。

サマリアの村の中で、おそらく最もさびしい思いをしていたであろう一人の女性に対して、イエス様は、永遠の命に至る水、最も価高い水を与えられた。

ここで、イエス様が弟子を選ばれた時(「岸に少し漕ぎ出すようにお頼みになった」ルカ5:3)と同様に、最初に声を掛けられた時、「イエスは『わたしに水を飲ませてください』と言われた」とあるように、「お願い」であること、すなわち、“漁をしている人たち”、“井戸で水を汲んでいる人”、その人を尊重しておられることを忘れてはならない。救い、福音を与えてやろうではない。謙遜にその人に接している。

しかし、決しておもねっているのではない。イエス様は、次にその人の本質、一番突いてほしくないところに迫られる。弟子達の場合は、漁が不発、失敗に終わったことであったが(漁師としてのプライドが傷ついていることであろうが)、「沖へ漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と命じられたように、

サマリヤの女性に対しては「あなたの夫をここへ呼んで来なさい」と、なぜ彼女が暑い昼の日中に、たった一人で水汲みをしなければならないのか、触れて欲しくないであろう彼女の苦しみの一番の底に介入してこられるのである。

それは決して傷口に塩をぬるためではない。そこからの真の解放、回復を願っておられるからである。弟子達には漁の失敗に対して、大漁を与えられたように、彼女に対しては、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と、真の水をお与えになった。

そして、真理に気付いた弟子たちに、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われたように、彼女に対しては、「婦人よ、わたしを信じなさい」、「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」、「それは(『キリストと呼ばれるメシアが来られる』とは)、あなたと話をしているこのわたしのことである」と、《あなたはすでに救い主に会っている、あなたはすでに救われている》と、救いの成就を与えられた。

弟子たちが、大漁の魚も網も捨てて、主の弟子になって福音を宣べ伝える者となったように、彼女は自ら出掛け、村中に救い主の到来を告げ知らせる者となったのである。

物語の冒頭に戻るが、舞台はサマリヤである。救いの対象外と言われていた異邦人。これはすなわち、すべての人が、それぞれの一番の痛み、誰にも触れて欲しくない苦しみから解き放たれて、「あなたはすでに救い主に会っている、わたしはすでにあなたのために十字架に架かったのだ」という御声をこの礼拝を通してその心に聴き、永遠の命の水という最大最高の祝福に与っていることを思い、福音を宣べ伝えへに向かっていくのである。

創造主、イエス・キリストは必ず私たちに寄り添い、私たちに必要な恵みを与えてくださる。聖書の最終章の呼び掛けは、「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(黙示録22:17)である。今、渇きを、今、苦しみを、今、胸の痛みを覚えている人よ、ここへ来て、命の水を飲みなさいと主は呼び掛けておられる。この恵みに与っていることを忘れずに、今できる福音伝道に仕えて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

 

ルカによる福音書5:1-11

イエス様はバプテスマを受け、荒野の誘惑に勝利し、多くの病人を癒やし、悪霊を追放しながら、巡回して福音を宣教された。そして、弟子を選ばれたわけであるが、「イエスは霊の力に満ちて、諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」、「その評判が周りの地方一帯に広まった」(ルカ4:14-15)とあるので、その“人気ぶり”は白熱したものとなっていた。今朝の場面でも、「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」という書き出しがその様子を物語っている。つまり“引く手余多”の状態だったわけである。その中には、今日的に言えば神学的素養のある者や、祭司家系の者もいたはずである。

しかし、イエス様はシモンの舟に乗り込み、群衆に向かって教えを説き終えられると、教えを聴きに集まってきた人達ではなく、「シモンに沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じ、大漁の奇跡を与え、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネが弟子となったのであった。

彼らはイエス様の教えを聴きに来たわけではなく、聴きたかったのかもしれないが、職業柄、会堂にも行けず、特にこの日は、夜通し漁をしたが何も取れなかったという最悪の状態であった。イエス様もよく声を掛けることができたものだと思えるが、「主による選び」は人間的な時や都合を凌駕するものであることを示される。

およそ弟子からはほど遠いと思われる彼らであったが、ただ一つ言えることは、イエス様の召命に対して素直だったということである。繰り返すが徹夜明けである。しかも不漁、無収入、でも明日のために網の手入れはしなければならない、徒労…、そんな時に「舟に乗せてほしい」と頼まれたが、シモンは従った。イエス様の説教の長さは分からないが、白熱した群衆が散会するぐらい教えられ、その後、「沖へ漕ぎ出して漁をしなさい」(さっきは依頼だったが、今度は命令!)と言われたが、素直に従った。群衆に向けての説教にシモンも耳を傾け、そこに「権威と力」をひしと感じ取ったのであろう。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と従った。

確かに大漁の奇跡のインパクトは大であったろうが、彼らが弟子となったのは、まずもって第一に主の選びであり、シモンの「わたしは罪深い者なのです」に代表される悔い改め、罪の赦しの必要を感じた心根である。主は選ばれた者を、その足を洗ってでも、十字架に掛かってでも選び続けて下さる御方である。もうハレルヤ!しかない。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

ルカによる福音書5:1-11

イエス様はバプテスマを受け、荒野の誘惑に勝利し、多くの病人を癒やし、悪霊を追放しながら、巡回して福音を宣教された。そして、弟子を選ばれたわけであるが、「イエスは霊の力に満ちて、諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」、「その評判が周りの地方一帯に広まった」(ルカ4:14-15)とあるので、その“人気ぶり”は白熱したものとなっていた。今朝の場面でも、「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」という書き出しがその様子を物語っている。つまり“引く手余多”の状態だったわけである。その中には、今日的に言えば神学的素養のある者や、祭司家系の者もいたはずである。

しかし、イエス様はシモンの舟に乗り込み、群衆に向かって教えを説き終えられると、教えを聴きに集まってきた人達ではなく、「シモンに沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じ、大漁の奇跡を与え、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネが弟子となったのであった。

彼らはイエス様の教えを聴きに来たわけではなく、聴きたかったのかもしれないが、職業柄、会堂にも行けず、特にこの日は、夜通し漁をしたが何も取れなかったという最悪の状態であった。イエス様もよく声を掛けることができたものだと思えるが、「主による選び」は人間的な時や都合を凌駕するものであることを示される。

およそ弟子からはほど遠いと思われる彼らであったが、ただ一つ言えることは、イエス様の召命に対して素直だったということである。繰り返すが徹夜明けである。しかも不漁、無収入、でも明日のために網の手入れはしなければならない、徒労…、そんな時に「舟に乗せてほしい」と頼まれたが、シモンは従った。イエス様の説教の長さは分からないが、白熱した群衆が散会するぐらい教えられ、その後、「沖へ漕ぎ出して漁をしなさい」(さっきは依頼だったが、今度は命令!)と言われたが、素直に従った。群衆に向けての説教にシモンも耳を傾け、そこに「権威と力」をひしと感じ取ったのであろう。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と従った。

確かに大漁の奇跡のインパクトは大であったろうが、彼らが弟子となったのは、まずもって第一に主の選びであり、シモンの「わたしは罪深い者なのです」に代表される悔い改め、罪の赦しの必要を感じた心根である。主は選ばれた者を、その足を洗ってでも、十字架に掛かってでも選び続けて下さる御方である。もうハレルヤ!しかない。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

nakajima on 1月 31st, 2021

ヨハネによる福音書2:1-11

婚礼の席でイエス様の母マリアは葡萄酒が足りなくなったことに気づきます。彼女はイエス様にそのことを告げますが、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と返事が返ってきました。一見、この箇所を読みますと、イエス様の発言は冷たく感じます。しかし、原文から読み解いていきますと「気にしないで、何も心配はいらない。私は正しい時を待っている。」と解釈ができます。すなわち、イエス様は些細なことで焦ってしまう人間に対し、神の時を待ち望みなさいと語られているのです。

ヨハネによる福音書には「わたしの時」というキーワードがいくつも登場します。「時」にはクロノスとカイロスという二種類があります。クロノスは英語のクロックの語源になっている通り、時間を表します。一方、ここで言うイエス様の時はカイロスを指します。これは神の時を表します。神の時とは横への流れではなく、その瞬間、瞬間に神様が介入する時、内面的な時間、神様の主観的な時間を指します。神の時、カイロスは人間である私たちが定めることも、見極めることもできません。

ですが、マリアは召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」と告げに行きます。この時、マリアは、「心配するな、私の時は来ていない」と言われたにも関わらず、この行動をとるわけです。マリアは自分の意思で判断しつつ、今自分ができる精一杯のことをして、イエス様の時を待ちました。ここに、キリスト者の手本があるのかもしれません。神様の沈黙を待つ間、私たちが与えられていることを、できることを精一杯することです。私たちは神様のロボットではありません。それぞれに自由意志が与えられています。なすべきことを果たし、見極めるよう神様はあえて、沈黙なさっているのかもしれません。沈黙こそ神様の恵みなのです。 田中 尚美 伝道師

nakajima on 1月 24th, 2021

ヨハネによる福音書1:35-42

今日開かれた箇所で、とても大切な人物として出てくるのが、「アンデレ」です。アンデレはもともと洗礼者ヨハネの弟子であり、シモン・ペトロの兄弟でした。

聖書を通して見てみますと、それほど目立つ人物ではないかも知れません。十二使徒の一人として選ばれていますけれども、どのような働きをしたのか、あまり詳しくは書かれていません。

このアンデレの注目すべき行いは、「シモンをイエスのところに連れて行った」(ヨハネ1:42)と言うところです。主イエスの元に自分の兄弟であるシモンを連れていった、導いたのです。

ここから、教会によっては求道者をフォローする奉仕をするグループを「アンデレ会」と言ったり、新来者カードを「アンデレカード」と呼んだりしています。

私たちができうる働きは、このアンデレと同じ働きです。「わたしはメシアに出会った、本当の救い主と出会った」と言う、出会いの体験を人々に伝え、そして主イエスの元に連れてくるのです。

教会に集っておられる方でしたら、誰にでもきっかけがあるでしょうし、そこでわたしをこの方が導いてくださったのだ、という、「自分にとってのアンデレ」がいらっしゃることと思います。

それは信仰の導きをしてくださる方であったり、同じく信仰を持った友であったり、色々な方が神さまによって遣わされ、主イエスとの出会いのチャンスを与えてくださいました。

わたしにとってのアンデレともいうべき方は、信仰の先生であります母教会の牧師先生であり、ミッションスクールであった高校のクリスチャンの先生方です。

その他様々な出来事を通して、あるいは様々な人を通して、信仰の導きと養いを受けたことを思います。私たちにもそのような、信仰の先生がおり、信仰の友がいるでしょう。

私たちも、そのような信仰の導き手や、信仰の友となるように遣わされております。私たちは、主に招かれた恵みを受け取った者です。その恵みをまずは感謝して受け止めましょう。

そしてそうであるならば、主イエスから招かれたという幸いを、多くの方に証ししていくべきでしょう。主イエスの元にシモン・ペトロを連れていったアンデレの如く、真の救い主との出会いを造り出すものとして歩んでまいりましょう。ハレルヤ!  片平貴宣牧師

nakajima on 1月 17th, 2021

マタイによる福音書4:1-11

主キリストの公生涯は洗礼を受けることから始められた。洗礼は罪の赦しの授与であって、神の御子、救い主には全く不要である。にも関わらず、受洗された。これは神の御子がどこまでも徹底して人になられたことの証であり、救いを下賜するのではなく、御名インマヌエルのとおり、私たちと共にあって私たちを救いに導くことの証であった。

永遠の命は、神の全能の力によって与えられるものであるが、その全能の力とは「神の愛」を根源としているので、洗礼を受けねば救われない私たちの弱さも失敗も、罪すらも愛し、その贖いのために御自身の命を献げて救いの御業を成就されるのである。

神の御子にとって受洗とは、神の愛に裏打ちされた究極の謙遜であり、その姿勢は十字架の死に至るまで貫かれた。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)

次に主キリストは荒野において悪魔の誘惑に遭われた。荒野は、イスラエルが奴隷の民から、荒野の四十年を彷徨する流浪の民であった最もみじめな状態に身を置かれたことを象徴している。民は誘惑に負けて荒野にて金の仔牛像を鋳て拝み、罪に陥ってしまった。しかし、主キリストは神の御子としての超越的、奇跡的な力によらず、すべてを御言葉によって退け、悪魔に勝利された。

私たちにも常に悪魔の誘惑、試練があることをわすれてはならない。出来る人には、「お前はすごいな、何でもできるぞ、もっとできるぞ、お前はえらいんだ、そうだ、できないやつを裁きまくれ」と。失望、失意にある人には、「そうだそうだ、何もしなくていいんだ、神はお前を助けてくれやしない。良かれとやっても文句を言われて傷つくだけだ、何もしないで、あきらめてしまうのが一番だ」と。

日野原重明医師が出版した『百歳が聞く百歳の話し』「月刊美術」という雑誌に連載されていたもので、日野原医師が100歳前後の芸術家たちに、創作活動の原点や、生き方をインタビューした内容がまとめられたものがある。健康的な食事のメニューとか興味がひかれることがらもある。篠田桃紅(しのだとうこう)1966年カナダモントリオール万国博覧会で日本館の壁画を製作された方。100歳にして創作活動ができるその信念、心に湧き上がってくるエネルギーを、「人間の存在そのものが光なんです」と表現された。

わたしたちは、つい、年をとったり、病気になったりすると、ああ自分は弱いな、とてもでないが、自分が光だとは思えない、もうダメかも知れないと思いがち。それは、スターや著名人のように、スポットライトを浴びて輝いていることを想像するからでしょう。聖書によれば、「全ての人を照らすまことの光があって世に来た。」私たちは救い主によって光り輝く存在なんです。私たちは、時にはからっぽのようになるかもしれない、もはや私には賜物が無い、何もできないと思える時がある。

しかし、ヤコブの手紙1:16-17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、「光の源である御父」から来るのです。良い贈り物、完全な賜物は全部、天から、光の源である御神から来るのです。私たちには、嘆きの日々もあります。うちひしがれる時もあります。しかし、信仰の盾を取ることをせず、神の言葉、救いの剣を掴もうとせずに、「ああ、こんな状況じゃ、もうダメだ、何も出来ない」というのは駄目です。 フィリピ4;19「神は御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによってあなたがたに必要なものをすべて満たしてくださる。」

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げる履物、信仰の盾、救いの兜、霊の剣すなわち神の言葉を取りなさい、根気よく祈り続けなさい(エフェソ6:10-18)とあるとおり、いかなる試練にあっても愛なる神は共におられる恵みを信じ祈って参りましょう。私たちのために、十字架まで背負ってくださった愛の主イエス・キリストが共におられて、良い贈り物、完全な賜物で私たちの必要の全てを満たしてくださるのです。信仰の盾を取って、神の言葉、御霊の剣を掴んで、新しい1週間の歩みを祈り求めて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 1月 10th, 2021

マタイによる福音書3:1-6

バプテスマのヨハネとイエス・キリストが誕生した時、それはイスラエル王国が滅亡して400年が経過し、人々はローマ帝国の圧制に苦しめられ、さらにザアカイの物語のように経済的にも精神的にも隷属状態におかれた惨めな生活を余儀なくされている時であった。この世的に見て、当時世界最強の帝国の植民地状態にあって、誰が救い主の到来を信じることができたであろうか。しかし、神様は祝福と救いの御計画を、神の時に成就されたのである。

神様の祝福の契約は誠に有り難いことであるが、その使命を背負って生まれてきたヨハネの生涯はなんと大変なものであったことかと思わされる。彼は、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証をするために来た。光について証をするするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」(ヨハネ1:6-7)とあるとおり、イエス様について証をするために神から遣わされた人であった。おそらくナジル人として育てられ、荒野で荒布をまとっての隠遁生活、ヨルダン川において数え切れない人々にバプテスマを授けて救いに導き、祭司長、長老であろうがヘロデ王であろうが、是々非々で救いの道を説き続け、なによりもナザレのイエスこそは、「世の罪を取り除く『神の子羊』」と証を立てた。

彼は生涯をかけて伝道し、救い主の到来を宣べ伝えたが、その結果、牢獄に入れられ、挙句にはサロメ母娘の我儘極まりない願いによって斬首によって命を絶たれてしまった。そして、イエス・キリストもまた、裏切られ、鞭打たれ、殴られ、茨の冠を被せられ、罵詈雑言を浴びせられて、十字架で命を絶たれた。すべては私たちの罪を贖い、永遠の命を与えるために。私たちに求められることはただ信じることだけである。それだけで良しとしてくださった御子イエス・キリストの愛、命を投げ打ってこの福音を宣べ伝えてきてくださった数え切れない殉教者、宣教師、牧師、信徒の方々があって、今日の私たちがある。せめて礼拝を守り続け、祈り続け、讃美し続けたい。洗礼を授けるということは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、新生の命を生み出すことに他ならない。教会はそのためにある。福音のため祈り続けて参りましょう!ハレルヤ! 中島聡主任牧師

nakajima on 1月 9th, 2021

ルカによる福音書2:41-52

主の年2021年。私たちは、救い主を基点とする時間軸に生きることができる喜びに感謝すると共に、その喜びを伝えていく「ミッション370」を掲げていることを覚える。

救い主を信じる時の流れとは、創造主による天地創造、アブラハムの選び、モーセによる出エジプト、イスラエル王国の栄枯盛衰、救い主の預言、キリストの降誕、使徒たちの伝道等々を事実として聖書に確認し、注がれ続けた神の愛と恩寵を語り伝えることにある。

飼い葉桶に寝かせられ、ヘロデに命狙われたイエス様も無事に十二歳になるまで成長を遂げられた。過越祭の時が来たので、家族共々、エルサレムの神殿に参ったが、帰路イエスのいないことに気づいた両親は同行の親戚、知人に所在を確認して回ったが誰も知らない。来た道を引き返しながら探し続け、とうとう三日後に神殿まで戻ったところ、なんと少年イエスは、神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、問答をしていたのであった。学者たちをはじめ、問答の様を見ていた参拝者たちは「皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」とある。

母マリアは、「迷子になってしまった!」とどれほど心配したか知れず、何も言わずに神殿に居残っていたイエスを、「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」ととがめた。ところが、イエスは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と答えた。おそらく、12年の歳月の中で、マリアもヨセフも天使の御告げの記憶がすっかり薄れてしまっていたのであろう。「両親はイエスの言葉の意味が分からなかった」。

2020年、かなり苦しい時を過ごした。私たちは、今、さやかに聖書の御言葉を覚えているだろうか。聖書は最終章において「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」(黙示録22:16)と語る。聖書信仰とは“ひこばえ信仰”と言える。切り倒されて「もう駄目だ」と思っても、若枝が生え出て新たな息吹を上げることができるのである。救い主の降誕を信じる者は、栄光の主の再臨を信じる。我らの行く末は勝利と聖書にある。2021年もハレルヤ!  中島聡主任牧師