nakajima on 7月 25th, 2021

マタイによる福音書5:38-42

主イエスの山上の説教に続けて聴いています。本日は「復讐してはならない」との教えです。これまでの教えも厳しさを感じましたが、今日の箇所は、とてもそんなことはできないと感じる箇所でしょう。

復讐どころの話ではなく、自分に対して悪を行う者に対しても施しをしなさい、とさえ読めます。そんなことをしていたら私たちの生活は成り立ちません。悪人のいいように使われ、搾取され、大変弱い立場に立たされると危惧してしまいます。

報復について、『目には目を、歯には歯を』と言われています。ハムラビ法典として知られているこの言葉は、聖書では出エジプト21:24やレビ24:20に出てきます。この原則は実に明確で、誰かに損害を負わせた者は、それと同じ損害を持って償いとする、と言うことです。

この掟は、残酷さも感じるところがありますが、実際の所は大きく復讐を制限する憐れみの掟です。復讐についてさらに遡れば、創世記のカインの出来事を思い起こします。そこでは「七倍の復讐」、その子孫レメクに至っては「七十七倍の復讐」とあります。罪に支配された私たちの心は、「やられたらやり返す、倍返し、七倍返し、七十七倍返し」なのです。

そのような際限のない復讐の応酬を断ち切るための教えを、主イエスは示されました。報復するどころか、善を行え、施しをせよ、と語られました。しかしこれも、律法によって既に語られていることです。レビ記19:18にはこうあります。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」

あるいは箴言25:21-22にも「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」とあります。さすが律法の成就者、一点一画をも消え去らないと語られる主イエスです。律法の本質、その真髄を示してくださいました。

そして忘れてはならないのが、主イエスこそその教えを完全に実行された、と言うことです。1ペテロ2:23がよく表しています。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」

全てを父なる神さまにお任せし、十字架に至るまでへりくだられて私たちの救いを実現してくださいました。私たちは罪人であり、過ちに陥りやすい弱い存在ではありますが、主イエスが我が内に住んでくださる事を信じ、主イエスの偉大なアガペの愛に生きる者となりましょう。ハレルヤ! 片平 貴宣牧師

nakajima on 7月 18th, 2021

マタイによる福音書5:21-26

「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」

汝、殺すなかれ。モーセの時代、十戒の第六戒が定められた(出エ20:13、申命記5:17)。遡り、ノアの箱船によって救済された人類に対して、神は「あなたたちの命である血が流された場合、…人間の命を賠償として要求する。…人は神にかたどって造られたからだ」と言われた(創世記9:5-6)。さらに遡り、カインが弟アベルを怒りにまかせて殺めた時、「お前(カイン)は呪われる者となった。…お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(創世記4:11-12)と流刑を宣せられた。

神が一人の命も奪われることを望んでおられないことは明白である。さらに、イエス様は人の命に手をかけずとも「兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける」と“新法”を追加され、さらにさらに、「『馬鹿』と言う者は最高法院」、「『愚か者』と言う者は火の地獄に投げ込まれる」と“極刑”を宣せられた。

命の大切さと矛盾すると思われるが、この教えの本旨は後半、怒り、不和は人の命に関わってくる危険性を孕んでいるので徹底して和解に努めなさい、ということである。

ここで信仰、祈り、キリストの助け、弁護、仲介が必要になるのである。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、…両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:14-16)、「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(ヘブライ12:24)。救い主キリストが、兄弟姉妹だけではなく、神と人までをも十字架によって和解させて下さるのである。礼拝で「ハレルヤ!」と感謝するのみ。中島 聡主任牧師

「地の塩、世の光」はよくミッションスクールの建学の精神、学園訓に掲げられる“名句”である。その意味について幾つかみてみる。

「『あなたはかけがえのない存在だ』との宣言のもとに青山学院は立つのです。…地も世も、神なき現実、人間の尊厳を失わしめるような状況です。そうした中で私たちは、神の恵みにより『塩』であり『光』とされているのですから、青山学院に集う者はオンリー・ワンとしての存在感を発揮していくのです。」

「これはイエス・キリストの宣言の言葉です。勧めの言葉ではありません。命令でもありません。『あなたがたは地の塩になりなさい。あなたがたは世の光になりなさい』と言っておられるのではありません。イエス・キリストが私たちに対して宣言されるのです。

『あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である』と。」(ヴォーリス学園・近江兄弟社学園)

この聖句は、山上の説教の続きとして語られている。塩に求められるのは塩味、光に求められるのは輝き・同じくキリストの弟子に求められるのは「八福の教え」。それぐらい自明、当たり前ということ。

塩も光も、人が生きていくにあたって無くてはならない大切な存在。しかし、それらを隠していては(自分だけのものにしていては)何にもならない。「何の役にも立たない」。塩味として、輝きとして提供することによって初めて信仰は意味あるものとなる。

救い主キリストの十字架によって贖われ、癒され、平安を与えられ、「地の塩・世の光」としていただいている恵みに感謝して、なかなか「立派な行い」とはいかないが、それでも示された信仰の業、今できる奉仕に仕えて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 7月 4th, 2021

マタイによる福音書5:1-12

イエス・キリストによる最初の説教。「山上の垂訓」、「八福の教え」とも呼ばれ、キリスト教信仰、福音の根源がここに記されている。

刮目すべき第一は、この信仰、この福音が「あらゆる病気、患いや苦しみに悩む人々」のために語られているということである。故に、イエス様の第一声が「心の貧しい人々は、幸いである」(ルカ福音書では、ずばり「貧しい人は、幸いである」)であり、次に「悲しむ人々は、幸いである」なのだ。

普通、世間では幸せとは、無病息災、健康で、患い、災い、あらゆる点で苦しみ悩むことのない状態を言う。しかし、イエス様は、病気、患い、あらゆる苦しみ悩みによって心が満たされていない人、悲しい人は幸いである、と言われたのである!

これは、あらゆる艱難苦難を甘んじて受け入れろ、一切の不平不満を言うな、ということではない。イエス様は、ガリラヤ、デカポリス(異邦人都市の総称)、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側(異邦)からやって来た大勢の群衆、すなわち、病や患い、苦しみに悩み悲しむ人々を見て、山に登り、弟子たちに向かって「口を開き、教えられた」とあるように、信仰とは、福音とは、苦しみ悲しんでいる人を幸せにすることなのだ、という教えである。しかも、当時は差別、分け隔てをしていた、ユダヤ人と異邦人が隔て無く、幸せなることが信仰、福音だと説かれたのである。

そして、信仰によって生きるとは、福音を説くとは、「柔和であり、義に飢え渇き、憐れみ深く、心清く、平和を実現し、義のために迫害されても喜ぶ」ということだ、と誠に耳の痛い教えを顕されたのである。

誰がこれらを完全に実践、実現できるだろうか?無論、祈り求めていくことが肝要であるが、刮目すべき第二は、最後の「義のために迫害されても喜ぶ者」の報いと、最初の「心貧しくなってしまっている者」の報いが、等しく、「天の国はその人たちのものである」と説かれていることである。

人に、信仰に、優劣無し。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1:45)。 救い主がこの世にお生まれになってくださり、イエス・キリストが御身を十字架に磔られてでも私たちを救ってくださったアガペの愛を信じ、今、何か一つ、できることに仕えるのみである。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 6月 27th, 2021

ヨシュア記14:6-12

カレブは主の約束に生きた人でした。彼がこれから得ようとしているヘブロンは、アナク人が住んでおり城壁で囲まれた大きな町が立てられていました。しかし、「主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます」(ヨシュア14:12)と彼は告白しています。カレブは確かに主に信頼し、「神様はわたしにも約束の地を与えてくださる」との信仰に立って歩むのです。

そしてその根拠や勇気は、「主がわたしと共にいてくださるなら」と言う信仰に基づきます。ただ向こう見ずなだけ、勇ましいだけではありません。いかに困難なところを通ろうとも、主が共にいてくださるという信仰に立つとき、恐れは取り除かれ、主の約束に拠り頼んで歩むことができるのです。

カレブは主の約束の通り、ヘブロンを嗣業の土地として得ることができました。これは彼の信仰による勝利の証しです。14節にはまさにそのことが証しされています。「ヘブロンはケナズ人エフネの子カレブの嗣業の土地となって、今日に至っている。彼がイスラエルの神、主に従いとおしたからである」とあります。

これらの出来事は「この地方の戦いはこうして収まった」(ヨシュア14:15)と結ばれており、戦いによって土地を得るのはこれで終わり、今後は境界線を定め、各部族が町を築いていく事になります。約束の地を与えるという神様の約束がなされ、いよいよ彼らはその地を自分たちの安住の地として整えていくのです。

私たちにも同じく嗣業の土地を得るという約束が与えられています。それは主イエスをとおして語られた、天の国を受け継ぐという恵みです。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:2-3)と主イエスは約束してくださいました。神様の約束に希望を置いて歩みましょう。ハレルヤ!  片平貴宣牧師

ヨシュア記6:1-11

ヨルダン川を渡り、いよいよ約束の地に入らんとする時が来たが、立ちはだかるエリコの城壁を前にして下された命令は理不尽極まりないものであった。

①6日の間、兵士たちに城壁の周りを1日毎に一周させなさい。七人の祭司に神の箱・契約の箱を先導させなさい。②その間、ずっと沈黙を守りなさい。③7日目には7周し、祭司たちは角笛を吹きなさい。角笛の音を聞いたら、民全員で鬨の声を上げなさい。そうすれば城壁は崩れ落ちるであろう。

全くもって理解できない命令である。特に沈黙の命令は、「こんなことをして何になるのか」、「もうやめたい」、一切の不平不満すら言えないことを意味している。しかし、ヨシュアをはじめ、兵士、祭司、民の全てが聞き従い、見事、エリコを陥落させることができた。

このエリコにおける理不尽な命令に先立って、各部族から選抜された十二人の従順さも覚えておきたい。ヨルダン川渡航は神の恩寵を忘れないために、十二人の者が選び出され、いまだ川の真ん中にいる祭司たちの足下から肩に担ぐほどの大きな石を一人一つずつ持ってきて、祈念碑を建立するように命じられた。 それが完成するとようやく祭司たちは川から上がった。すると川の水が堰を切って流れ始めた。これらは夜通しのことであり、祭司たち、十二人の選ばれた人たちの労苦はいかばかりであったろうか。

いやはや旧約の時代は大変だ、否、十二弟子の初穂、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネが召し出されたのは、夜通し漁をしたのに何も獲れなかった時であった。徒労、無報酬、それでも次の漁のために網を洗い直しておかねばならない疲労の限界において、「もう一度、網を降ろしなさい」とは何と理不尽な命令であろう。しかし、主に従った弟子たちは大量の祝福が与えられたのであった。

さて、エリコ陥落の後、神は“聖絶”を命じられたが、イスラエルの斥候を匿ったラハブは、その家族、親族までもが助け出された。このラハブはボアズの母であり、ボアズはルツ(モアブ人)と結婚し、その曾孫はダビデであり(ルツ記4:17)、イエス・キリストの系図にその名が記されている(マタイ1:5)。ここに、聖絶が完全に覆されていることが明確に記されている。

弟子達も大量の魚、網、舟を捨てて、イエス・キリストに従い、「人間をとる漁師」となったように、

私たちが「約束の地」、「永遠の御国」を目指して福音宣教に仕えていくとは、私たちだけが救われれば良いというメッセージではなく、主の契約の箱を担ぎつつ(神の御言葉と共に生きつつ)、時には理不尽と思える(城壁の周りをぐるぐる回れとの)主の命令に従い、永遠の御国に入ることができる人を増し加えていくことであると示される。

祝福とは、人様に自慢できるようなものが与えられることではなく(それもおまけとして与えられることもあるが)、むしろ、人の痛み、苦しみ、理不尽と思えるところ歩いてこられた痛み、苦しみ、悲しみに寄り添うことができる、真の人の器であると思わされる。

ラハブは、イスラエルに攻め込まれるかもしれないという理不尽の中にあって、斥候を助けたが故に、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセの信仰の列に並ぶ者とされ、その信仰が義とされた(ヘブライ11章、ヤコブ2:25)。ノアも「なぜ、こんな山の上に箱船を作らねばならないか」という理不尽に、アブラハムも「なぜこんな年になってまで旅立たねばならないのか、なぜ一人息子のイサクを献げねばならないのか」、理不尽の中、それでも主に従って、信仰の模範となった。

頷けるところであるが、宗教改革者ジャン・カルヴァンは、最もなる信仰の模範は、「キリストの十字架の隣にいた強盗だ」と言った。イザヤ書53章、「みるべき面影もない」最も惨めな姿のキリスト、鞭によって背中の皮は剥がれ、殴られ、唾を吐きつけられ、茨の冠を被せられ、これ以上無い理不尽の中にあって、キリストを信じ、「わたしを覚えていてください」と永遠の御国への信仰を現したからだ。

そう、最も理不尽な命令は、「十字架を背負いなさい」である。神の子イエス・キリスト御自身こそが、最も理不尽な命令に従い、「屠り場に牽かれる子羊のように黙して」ゴルゴダの丘まで歩かれたのである。

確かにコロナ禍にあって、理不尽さを感じることがある。しかし、キリストが味わわれた理不尽に比べれば、である。イスラエルの民はエリコを与えられ、弟子たちは「人間をとる漁師」とされ、キリストの十字架によって、すべての人が信じるだけ救われるという祝福が与えられた。

今朝、この丘で、子どもの教会の子どもたち50人が、オリンピック選手、大会関係者の礼拝のために讃美奉仕を行っている。なんという奇跡であり、今、この教会に何がおこっているのかと思わされる。理不尽と思えるこの日々の中でも、今、出来ることに仕えていくならば、必ず主は祝福を与えてくださるのだ。次主日は、関東学院高校インターアクト部による讃美、手話奉仕がある。チャリティコンサートによってCOVAXにチャリティをお届けする業が備えられている。

どれほど困難な壁が立ちはだかっていようとも、主のため、主の用に仕える人のために祈り、共に福音宣教に仕えて参りましょう。主の大いなる祝福があるのです。ハレルヤ!中島 聡牧師

nakajima on 6月 13th, 2021

ヨシュア記3:9-17

神を「十度も試み、聞き従わなかった者」、「土地の偵察に行って悪い情報を流した者」、「神に不平を言った二十歳以上の者は誰一人、約束の土地に入ることはできない」という裁きが下ったが、モーセの執り成しの祈りによって、ヨシュアとカレブを中心とする新たな民が「約束の地」に進み行くことができた。

出エジプト最大の功労者、貢献者であるモーセが、「メリバの水」において、ただ岩を杖で打っただけで約束の地に入れないことには理不尽さを覚えるが、本来は、たった一つの罪でも永遠の御国に入ることができないことを教えるためであることを知る。

ただし、モーセがこの世を去る時の描写を見れば、「百二十歳であったが、目もかすまず、活力も失せていなかった」とあり、後代のエリヤのごとく“天に召し上げられた”というのが相応しいだろう。

新たな指導者としてモーセの従者であったヨシュアが選ばれた。その際、「強く、雄々しくあれ」と三度も繰り返されているということは、ヨシュアが決して勇ましい人物ではなかったこと、またこれからの道程が非常に厳しいものであることを表している。

さらに神は、「あなたは、わたしが、先祖たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)に与えると誓った土地を、この民に継がせる」ために、「モーセが命じた律法(十戒をはじめ、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に記されている)をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。…律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい」と命じ、律法、神の言に忠実でなければ、約束の地に入ることはできないことを戒められた。数え切れない律法を全てとは厳しいにもほどがあるとしか思えないが、神様が最も伝えたかったことは、「わたしはあなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。…あなたがどこに行ってもあなたの神は共にいる」である。

「わたしはあなたと共にいる。」=インマヌエル。実に神様はアブラハムを通して祝福を約束された時から、私達と共におられることをずっと守り抜いて下さっているのである。この信仰に立つ時、新たなイスラエルの民は、大量の雪解け水で溢れんばかりのヨルダン川に自ら足を踏み入れ、約束の地に進み行くことができた。「主の契約の箱」を担いで最初に足を踏み入れた十二人の信仰によって、全ての民が信じて渡り切ることができた。初穂となる信仰の大切さを痛感させられる。祝福への渡航には困難、試練がある。しかし、主が共におられるのだから、恐れ慄くことはない。主が「栄え、成功する」と言われたことを信じ、伝道に仕えて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡牧師

民数記14:1-10

過越の庇護を受け、昼は雲の柱・夜は火の柱に導かれ、紅海の奇跡を経て、十二の泉も、なつめやし七十本もメリバの水も与えられ、荒野の四十年間、毎日(第七の日以外)、マナと鶉を与えられて、神の偉大な全能の力を何度も目の当たりにして守られてきたにもかかわらず、いざ「約束の地」を目前にして、敵が強そうだというだけで、「共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った」(14:1)とは、いやはや言葉も出ない。

さらに、モーセとアロンに詰め寄って、「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死んだ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。」と不平不満をぶちまけ、あれだけ「奴隷の苦しみから解放して下さい」と叫んでいたのに、「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう」とまで宣うのであった。

お話にならないが、しかし、ヨシュアとカレブは、「約束の地」は「とてもすばらしい土地だった、主が我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。…主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」と勇敢に信仰を表明したのであった。

ところが、民は、ヨシュアとカレブを「石で打ち殺せと言った」とあり、遂に神の逆鱗に触れることになってしまった。神は「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるし(奇跡、マナ等々)を無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなた(モーセ)を彼らよりも強大な国民としよう」と言われた。

この神の怒りに対し、あまりの民の不甲斐なさには腹に据えかねていたモーセも同調するかと思ったら、せっかくこれまで「昼は雲の柱、夜は火の柱」をもって導いてこられたのですから、「どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください」と、民の赦しを嘆願し、執り成したのであった。あっぱれ!

神はモーセの赦しの願いを聞き入れられ、民を赦すことにされた。ただし、神を「十度も試み、聞き従わなかった者」、「土地の偵察に行って悪い情報を流した者」、「神に不平を言った二十歳以上の者は誰一人、約束の土地に入ることはできない」という裁きが下り、この裁きが過ぎ越されることは無かった。

「聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証」(エフェソ1:14)です。私達も到底、約束の御国に入ることができない者である。しかし、神はキリストの十字架の執り成しによって、信じるだけで全ての裁きを過ぎ越させ、永遠の命を与えるという祝福を約束して下さった。この恵みに感謝し主に仕えて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡牧師

nakajima on 5月 30th, 2021

出エジプト記20:1-17

本日は「十戒」の箇所が開かれました。おそらく教会に行っていない人でも、「十戒」という言葉ぐらいは耳にしたことがあると思います。

私自身、「十戒」についてちゃんと学んだのは、東京聖書学校に入ってからですが、それでも、教会に行く以前から「十戒」という言葉は知っていました。

私が「十戒」という言葉を初めて知ったのは、おそらく小学生のころで、「ドラえもん」を通してでした。「ひみつ道具」に「十戒石板」という道具があり、自分で考えた戒めを十個まで書くことができ、その戒めを破ると雷に打たれてしまう、と言うものでした。

けれども聖書の「十戒」は、破ったものに罰を与えるために作られたのでしょうか? 十戒はそんなに恐ろしいものなのでしょうか?

私たちは迷いやすく、すぐに正しい道から外れてしまう存在です。ですから、正しく生きるために基準が必要になります。戒めはわたしたちの歩むべき道を示す道しるべだということができるでしょう。

神様は、わたしたちの生活における基本的な十の戒めを与えられました。しかし、この十戒を完全に守ることのできるものは、実は一人もいません。モーセ自身はもちろん、イスラエルの民もたびたびこの十戒を破りました。それは、すべての人が罪人だからです。

神様が十戒を与えられたひとつの目的は、わたしたちが律法を守れない罪人だと示すためでした。「罪」の力は巧妙で、自らが罪人であることを忘れさせ、神様なんて必要ない、と思いこんでしまうのです。

そのような私たちが神様を求めるために必要なのは、まず自らが罪人である、と自覚することです。自分の歩みが間違った方向に進んでいたことを気づかせるため、基準である律法、「十戒」が必要なのです。「十戒」にわたしたちの歩みを照らし合わせると、どうしてもすべてを守りきることはできない、と思わされます。律法を通して救いは得られないのです。だからこそわたしたちには、救い主が必要なのです。

主イエス・キリストは、この律法を完全に守ったただ一人の方であり、律法を成就されたお方です。そしてこの完全な人、神の御子が、我々の罪を背負って十字架の上で死に、贖いのみ業を成し遂げてくださいました。この主イエス・キリストこそが、真の救い主なのです。

十戒を通して自らの不完全さを知り、罪を持った存在であることを自覚しましょう。罪人のために主イエス・キリストが命を献げて罪を贖ってくださったことを知りましょう。その恵みへの応答を、信仰を通してお献げしましょう。ハレルヤ!  片平貴宣牧師

出エジプト記17:1-7

紅海の奇跡によって九死に一生を得て、見事に奴隷から解放されたイスラエルの民は、主に感謝の讃美を捧げた。「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神…、あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた」(出エ15:2-13)。無上極上の喜びと感謝が歌いあげられている。

しかし、そのわずか三日後、荒れ野を歩き、飲み水が無くなると、「民はモーセに向かって『何を飲んだらよいのか』と不平を言った」(同15:24)とある。なんともはや、であるがこれが人の現実である。

しかし!神は、民と神の間に立って執り成すモーセのために、「十二の泉と、七十本のなつめやし(の実デーツの栄養素はプルーンに匹敵する)」を与えてくださった。「ハレルヤ!」であるが、旅路が進み、飢えと渇きが襲ってくると、またしても民は「エジプトの国で死んだ方がましだった。奴隷だったが肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べることができた。我々を荒れ野に連れ出し、全会衆を飢え死にさせようとしている」と不平不満を訴えた。

しかし!神は、イスラエルの民全員に天から「マナと鶉」を与えてくださるのであった。ただし、一つだけ約束を与えられた。六日の間は一日分だけを集め、六日目だけ七日目の分と合わせて二日分を集め、七日目は「安息日」として唯一の神、主を礼拝する時とするように命じられた。何と言う恵みであろうか。しかし、これだけ恵まれてもなお、心無い者は七日目にもマナと鶉を集めに行ったとある。

しかし!神はもう一度、約束を守るように命じられた後、民にマナと鶉を与えてくださった。実に四十年間に及んで!しかし、それでも道中、水が無くなると、民はモーセと“争って”「我々に飲み水を与えよ」と迫ったとある。いやはや、であるがこれが人の現実である。

しかし!それでも神は民に水を与えて下さった。もはや理解し難い状況である。さらに『民数記』の伝承によれば、この時、「神はモーセに岩に向かって『水よ、出よ』と言えと命じたのに、モーセが岩を打ったので、モーセまでもが《約束の地》に入れないことになってしまった」とあり、神の愛の大きさにはもはやお手上げの状況である。

『エゼキエル』47章「命の水」預言然り、そしてイエス様が何度も「わたしが命のパン、命の水である」と言われ、御身をわたしたちに与えられた通り、神の愛は決して尽きることが無い。

「聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための《保証》である。」(エフェソ1:14)とある。保証という言葉は二通りの用い方がある。一つは、「彼が仕事ができることは、私が保証します。」推薦する、太鼓判を押すの類で、保証する側も誇らしいことであろう。もう一つは、「もし彼に何かあったら、私が保証します。」、「彼が損失をもたらしたら、私が必ず償います。」いわゆる保証人の保証。神様の保証は勿論、後者である。たとえ私たちが弱くとも力を与え、罪あろうとも全てを贖い取って、御国に導き上ると仰ってくださっている。神様は「あなたはわたしの子だから、私が守る」と旧約の古からずっとアガペの愛でわたしたちを守っていてくださるのである。今日は聖霊降臨日。1名の受洗者、4名の転入会者、新たな兄姉と共に、主の愛と恵みに満たされ、福音伝道に仕えて参りましょう。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師