ヨハネによる福音書14:1~14
イエス・キリストによる天の国、永遠の命の約束。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」
受難節の中、イエス様は鞭打たれ、十字架を背負い、ゴルゴダの丘へと歩まれました。すべては、私たちの罪を贖い、私たちを天の国に住まわせるためです。
かつて、イエス様はペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言われました(マタイ16:19)。ペトロは「この私が一番弟子に選ばれた!」と有頂天になり、思い上がってしまいました。また他の弟子たちも、イエス様に従ってきた人たちも激しく嫉妬し、“出世”を焦りました(同20:21)。
彼らは分かっていませんでした。「天の国の鍵」とはこの世の権威でも名誉でもありません。それは「十字架」のこと、すなわち、隣人の救いのためならば自らの命を献げる信仰のことなのです。
ですから、天の国の鍵を一言で言うならば、「神の愛」です。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12-13)
この後、天国の鍵は十二弟子に授けられることになりましたが(同20:23)、イエス様は、その意味をペトロに悟らせるために、三度「わたしを愛するか?」と問い掛け、「わたしの羊を飼いなさい(一度目は“子羊”)」とお教えになりました。
天の国の鍵を授かるとは、羊飼いになることです(「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」同10:11)。「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)
良い羊飼いは、「神愛・自愛・隣人愛」の信仰に立っています。羊飼いの最大の働きは愛すること、すなわち「赦す」ことです(ヨハネ20:23)。イエス様によって全ての罪を赦され、永遠の命を与えられた恵みに感謝し、福音を宣べ伝えて参りますしょう。ハレルヤ!中島 聡牧師
ヨハネによる福音書11:17~27
ラザロの甦りの奇跡。マルタとマリアの兄弟ラザロは病気によって死んでしまいました。ラザロの病が重い皮膚病であったと伝えられるのは、「四日もたっていますから、もうにおいます」というマルタの言葉に拠ります。埋葬にあたっては、香料(没薬と沈香を混ぜたもの)を添えて亜麻布に包むのがユダヤの慣習であり(ヨハネ19:39-40)、「におう」という表現は、香油でも覆うことのできない状態を表しています。マリアはこの後、イエス様が甦ったラザロと共に食事をされる席においてイエス様に非常に高価なナルドの香油を注ぎます。そのマリアが愛する弟の埋葬のために香油を注がないわけがありません。
ユダヤにおいてこの病は、モーセの時代から「隔離する」こと、「独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ記13:46)、「必ず宿営から出しなさい」(民数記5:2-3)と定められており、ルカ16:19-31に登場する「金持ちとラザロ」からも非常に辛い境遇に置かれていたことが分かります。
しかし、イエス様はラザロのことを愛しておられました(ヨハネ11:5)。また周囲の者もそのことをよく知っていました。イエス様はラザロの死にあって、涙を流されました。この出来事は聖書中、最も短い聖句として示されています。「イエスは涙を流された」(11:35“Jesus wept”)。
聖書中、イエス様が涙を流されたのは、エルサレム入城に際して、やがてエルサレム神殿がローマ帝国によって破壊されることを預言された時(ルカ19:41)と、ラザロの死に際しての二回だけです。
もちろん、愛するラザロの死への悲しみもありますが、エルサレムの人々が救いの真理、御子による福音に気づかず滅びゆくことに涙されたように、何度奇跡をもってしてもイエス様が神の御子であることを悟ることができないマリアとユダヤ人たちをご覧になって、「心に憤りを覚え、興奮して」涙を流されたのです。
福音を宣べ伝えるにあたって一度や二度、義憤による涙を流すことがあります。しかし、最も大切なことは、それでもイエス様はラザロのみならず全ての人を愛し、十字架に架かられ、命を献げられたことです。この愛によって私たちは永遠の命に入れられるのです。受難節の中、このイエス様の愛と福音を伝えて参りましょう。ハレルヤ! 中島 聡牧師
ルカによる福音書5章1~11節
イエス様がシモン=ペトロに向かって「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)と言われましたが、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5節前半)という返答でした。ペトロは今更期待できない苦労はもう懲り懲りだ、と訴えるようなニュアンスですが、「しかし」という言葉が続きます。「しかしお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節後半)と、イエス様の御言葉に従おうとする決断が記されています。その結果、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」(6節)と記されています。
これらのやりとりから、私たちは「しかし、お言葉ですから」と、主の御言葉に従うことができるのか、若しくは「しかし、お言葉ですが・・・」と、自分の経験や自分の思いに引っ張られ、主の呼びかけに対して「従いたくない」、「従えない」のかと、問われているような気がします。
ペトロのように葛藤しながらも主に信頼して決断するということは具体的にどのような事なのでしょうか。それは、今迄見ることができなかった神の世界に足を一歩入れた状態だといって良いと思います。人の思いや考えでは決して得られないもの、それが神の世界の光景です。そこでは、絶望から希望へと導かれ、神への信頼度が増し加えられてゆく場でもあります。ペトロはこのガリラヤ湖での出来事が出発点となり、やがて初代教会の中心的な指導者となり、イエス様のために大きな働きをなす人へと変えられていきました。
ペトロのみならず、私たちはいくら労苦しても実りなく、虚しさしか残らないような経験をします。私はドイツ・ケルンの地に赴任してから一年後に若いママのたちの会を立ち上げる機会が与えられて、子育ての学びと共に聖書の御言葉に耳を傾け、教会学校が何十年振りに再開しました。クリスマスには教会員の方々と共にページェント礼拝をお捧げできるようになり、主に感謝を捧げました。教会の活力となったものです。しかし、次々と日本へ本帰国されて、今月で設立時のメンバーは皆無となりました。六年間で九家族を見送ったことになります。私たち十数名の小さな群れにとっては大打撃で、虚無感に浸ったことも否めません。
しかしそのような時に、今年の教会に与えられた年間聖句、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です。」(創世記16章13節)の御言葉が思い出されました。私たちの全てをご存知で顧みてくださる神ですから、どのような状況であれ、声をかけてくださったその場に命の道が開かれていることを改めて教えられました。期待できないことの苦労は懲り懲り、という情けない思いが過るような者でも神は軽蔑することなく諦めずにお声かけてくださるお方です。自分の経験や思いを捨てさり、「しかし、お言葉ですから」と、ひたすら従うことができるようにと祈るばかりです。
佐々木良子宣教師(ドイツ、ケルン・ボン日語教会)
詩篇139:1〜10、マタイによる福音書23:37
人は様々なものを枠でくくる。枠におさめることで対象を把握しやすくなり、安堵できるからなのかもしれない。それは対人、対物にとどまらず、目には見えないもの、対神関係にも及ぶことである。
日本の社会においては八百万とも言われる神々が作り出され、地域に散在し、祠・社・御札・御守等に安置もしくは封じられている。そこにある関わりは、願掛けであり、永続する信心というよりは、適度な時間的・空間的距離感のもと、利用し合う関係になっているのではないだろうか。
イエス・キリストへの信仰においても、こうした神々や神仏との関わりのイメージを持ち込んでしまうことはないだろうか。
私たちの救い主である神はインマヌエル(神は我らと共にいます)であるのに。神との交わりの場所を日曜礼拝や教会での諸集会、日毎の祈りの時などに限定してはいないだろうか。
この様に人は、目には見えない存在も枠を設けて特定の「狭い場所」に安置・封印して安堵してしまうような存在なのである。そして、時に自らが設定した枠から対象が出てしまうと「意外」「驚きだ」と評するのだが、ちっぽけなのは神の側ではなく、人の側なのだ。
現在、宇宙には2兆個もの銀河系が発見されており、潜在的に未確認のものも想定すると8兆個の銀河系が存在する可能性があると言われている。こうした宇宙を創られた神が、現在のこの私と深く繋がってくださっている、ということは何という驚き、何という恵みなのだろうか。
私たちは全知全能の全てのものの創り主、死と生、正しい裁きと永遠の命の授与をなされる神を見上げつつ、この神との豊かな交わりを重ねる者でありたい。初代教会の最初の殉教者ステファノのように。何故なら目にうつる世界は一時的なものに過ぎず、見えないものが永続するからだ(コリントの信徒への手紙二 4:18)。 杉本 泉牧師
ネヘミヤ記 2:16-20
エズラ記において、キュロス王、ダレイオス王の庇護のもと、神殿の再建が行われました。そして、ネヘミヤ記は、アルタクセルクセス王の「好意」によってエルサレムの城壁、城門、さらに町の再建が進められます。すべては主がペルシアの諸王の心を動かされたからです。この主の御心は、キリストの降誕時における窮地を救うために“三人の博士”が黄金、乳香、没薬を献上することにまで続きます。イエス様が自らを神殿になぞらえられたことを思うと、ペルシアの主の神殿への献身がいかに忠実であったかが分かります。
ネヘミヤはペルシアの首都スサにおいてアルタクセルクセス王の献酌官として仕えていました。そのネヘミヤのもとにユダから来訪者があり、ネヘミヤがエルサレムの状況を尋ねると、「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」(ネヘミヤ記1:3)という返答でありました。
ネヘミヤは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りを捧げました。その祈りには、主がモーセに誓われたイスラエルへの憐れみが祈られていました。
ネヘミヤが「暗い顔」で王に仕えていたところ(本来なら許されないことですが)、王はネヘミヤを案じ、悩めることを申し出るように声を掛けられました。
望外の好意を得たネヘミヤは、エルサレムの城壁、城門、町の再建を願い、関所を通過するための各長官への書状、再建に必要な材木を伐採し入手するための森林管理者への書状を所望しました。王はこれらすべての願いを聞き届け、さらに護送のために「将校と騎兵」を派遣したのでした。
エルサレムに着いたネヘミヤはさっそく現況の視察に出たところ、そこは報告のとおり、焼け落ちた城壁、城門の瓦礫によって通行にも困難を覚えるほどに荒れ果てていました。
エルサレムの復興は幻のごとくに思えたでありましょうが、ネヘミヤがユダの人々、祭司、貴族、役人に檄を飛ばすと、「彼らは『早速、建築に取りかかろう』と応じ、この良い企てに奮い立った」(ネヘミヤ記2:18)とあります。
彼らも好きでエルサレムの荒廃を放置していたのではなかったのです。ただ余りに途方もない現実に手も足も出なかったのです。しかし、ネヘミヤを通しての「主の御声」によって彼らは奮い立つことができました。
全能の主は、信仰によるならば山も動くと言われました。2022年度もあとわずかとなり、はや新年度の宣教に向かって備えを為す時となりました。主の御声に聞き従い、救いの計画に奮い立つ者とさせていただきましょう。ハレルヤ! 中島 聡牧師
みことばの糧 1134 『荒野から主の宮へ』
エズラ記 9:6-9
エズラ記、主の神殿、城壁の再建に学んでいます。イスラエルの民は、バビロンの地において、捕囚の身に置かれていました。しかし、時は満ち、神様は70年前にエレミヤに託しておられた預言を成就されました。中近東、インド、エジプトのクシュまでを支配していたペルシア帝国の王キュロスの心を動かし、イスラエルの民を捕囚から解放し、エルサレムに戻してあげたのです。
さらに金銀、財宝、神殿における献げ物まで持たせ、さらには、バビロンが奪っていたイスラエルの宝物、祭具類もすべて、バビロンの宝物庫から取り出させ、すべてイスラエルに返還させました。神様はイスラエルに信じられない幾重もの庇護と祝福をお与えになりました。その恵みに感謝し、民は力を合わせて神殿を再建し、「一人の人のように」なって礼拝を捧げました。
当然と言えば当然なのですが、しかし、しかしですね、イスラエルの民はエルサレムの地において生きていくにあたって、また、偶像崇拝に陥ってしまうのです。しかもそんなに時が経たない間にです。
聖書にこうあります、9章1~2節、「ほんの少しの」間に、イスラエルの民は、その地に住んでいた「カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人と同様に行うその住民の忌まわしい行いに従って」しまった。祭司もレビ人も、長たる者、官職にある者も皆、再び偶像崇拝に陥ってしまったのです(エズラ記9:1-2)。
ここで聖書を学ぶ上において大事なことは、「住民の行う忌まわしい行い」であって、決して「○○人は忌むべき存在」という偏見の罪に陥っていけない、ということです。学ぶべきは、人の罪(悪魔の誘惑)に対する弱さと、それでも人を赦し愛してくださる神様の愛の深さです。ここを履き違えますと、人は信仰から離れてしまいます。
人が人を裁くことになってします。ローマへの信徒の手紙2:1「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」
第1コリント4:5「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。」
偶像崇拝は行ってはならないことですが、人を、まして○○人は、という裁きを行ってはならないのです。
聖書講読祈祷会で何度も何度も学んでいることですが、ちなみにモアブ人、アンモン人はアブラハムの甥ロトの子の末裔です(創世記19:37-38)。ルツ記のルツもモアブ人であり、ルツとボアズの曾孫がダビデ王なのですから、聖書によって人種、民族の優劣を論じることはあり得ないことです。もし、モアブ人であるルツが義理の母ナオミのために恥を忍んで落ち穂拾いをしなければダビデ王は存在しないのです。
そのことはマタイ福音書のキリストの系図にも明らかに記されています。新約聖書は、その冒頭において、救いの本質、全ての民が救いに至るということを明確に語っているのです。
さきほどのローマ書の続きにはこうあります。2:4「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」
さて、エズラは神様の恩寵をよく覚えていました。かつて、イスラエルこそは「先祖の時代から天に達する大きな罪科の故に」すなわち、偶像崇拝の故に、この地の王、バビロンの支配下に置かれ、剣にかけられ、捕らわれ人となりました。人も物も略奪されました。しかし、まさに主の「豊かな慈愛と寛容と忍耐によって、憐れみによって、奴隷の身にありながらも生きる力を与えられ、遂には捕囚から解放され、
ペルシアの諸王、キュロス王、アルタクセルクセス王、ダレイオス王の心を動かして、廃墟となったエルサレムを復興させ、神殿を再建さえ、城壁を再建させてられました。エズラは続けます、この「御恩」を、「ほんの少しの」間に忘れてしまったイスラエルをどうかお赦しください。
そして、エズラは、唯一の神のみを礼拝する「御命令に背いてしまった」ことに対して執り為しの祈りを捧げます。先週、人知では計り知ることの出来ない、神様の愛、アガペの愛、いったい神様はどこまで私たちをお赦しになってくださることか、そのことをイエス様が放蕩息子の譬えでお話しになった、と申しましたが、エズラが、本来ならば、赦されるはずのない、イスラエルの偶像崇拝に対して、主よ、お赦しください、と執り為しの祈りを捧げました。
そして、イエス様は、十字架の上において、絶対赦されるはずのない、偽証をもって民を扇動し、神の御子を鞭打ち、罵詈雑言を浴びせ、殴りつけ、唾をはきかけ、もう一度言います、神の御子に対して暴虐の限り尽くして、釘を打ち込み、十字架につけたイスラエルの民に対して、「父よ、どうか、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです。」と取り為しの祈りを捧げられたのですね。
この神の愛を学ぶのが聖書であり、信仰です。この信仰に生きた人たちが私たちの先達なのですね。
遠藤靖行兄は、教会内におけるぶどうの会、青年会への奉仕は勿論のこと、「正直、う~ん、ちょっと教会は行きづらいな」という人たちにもずっと、便りを出し、集まる時を備え、私も参加させていただきましたが、そっと祈る時を備えてくださいました。
内野康久兄は、戦後、すぐに主の御手に導かれて、横浜ミッション教会の一期生となり、生涯をかけて信仰の導き手となってくださいました。こういう積み重ねによって今の教会があるわけですね。
2月26日、第2回教会協議会が開かれますが、この神様の愛をいかにして伝え続けていくことができるか、皆で話し合い、また祈りを合わせるのです。有意義な時となりますように今から祈って参りましょう。次主日には、自らもALSを発症されながら、ALSに苦しみを覚える方々のための支援活動を行っている、逗子教会の畠中一郎兄の証を聞く機会があります。これも祈って参りましょう。
また、2月26日は、ギデオン協会の活動と証を聞き、聖書を配布するという、告別式の時にも本当によく御奉仕くださっていますが、伝道の働きを共有させていただける恵みの機会があります。祈って、聖書配布のための献金を献げて参りましょう。
礼拝を守り、聖書に学び、また、先達方の信仰に倣い、私たちはアガペの愛に満たされた信仰を現していくのです。聖書は、神様の愛、御子の愛を描き続けます。たとえ私たちが荒野を行くことになっても、神様はわたしたちが祈り求めるならば(エレミヤ書29:12-13)、必ずその祈りに応えてくださいます。
神様は私たちを主の宮、教会に、そして、必ずや新しいエルサレムに導いて下さるのです。ハレルヤ! 中島 聡牧師
エズラ記 3:8-13
エズラ記、ネヘミヤ記よりエルサレム神殿、城壁の再建に学ぶ。
北イスラエル王国、南ユダ王国がアッシリア、バビロンによって滅ぼされ、エルサレム神殿、王宮、城壁、家屋、すべて破壊され、焼き払われてしまいました。王族、民、皆、捕囚となり、バビロンの地に連行されてしまいました。すべてはアブラハム、イサク、ヤコブの主の祝福、出エジプトの主の恩寵を忘れ、すなわち十戒、過越祭をないがしろにして偶像崇拝に陥った結果でした。
しかし、それでも「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」(エレミヤ書29:10)との預言の通り、ペルシア王キュロスの心を動かして、エルサレム帰還と神殿再建の勅令を出されたのです。
かつてエジプトの地から脱出する時は、大軍勢に追われ、命からがら逃げおおせました。荒野の四十年は飢え渇きと、敵対者に苦しみ続ける日々でした。しかし、今、帰還を決意したイスラエルの「人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ」との命によって、手厚い支援を受けたのでした。さらに、キュロス王は「ネブカドネツァルがエルサレムの主の神殿から出させて、自分の神々の宮に納めた祭具類を取り出させ」、それら全ての返還を命じたのです(エズラ記1:4-9)。
旧約聖書は厳しい裁きの書というイメージがありますが、読み通すと神様の愛の深さに驚かされます。誰もがイエス様の放蕩息子の譬え話に驚かされますが、決して突拍子もない話ではなく、ずっと旧約の時代から示されてきた神様の愛を言い表しているだけなのです。
「神に心動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って」行きました (同1:5)。帰還した者たち4万2,360人は力を合わせて先ず神殿の基礎を据え、「一人の人のように」なって礼拝を捧げました。「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と唱和して主を賛美しました。昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは皆、大声をあげて泣き、喜びの叫び声をあげました(同3:11-12)。 そして、私たちもまた、キリストの自らの命を犠牲にするまでの愛によって全ての罪を贖いとっていただき、「聖なる都、新しいエルサレム」(黙示録21:2)を見ることができる主の民なのです。なんという幸いでしょうか。ハレルヤ! 中島 聡牧師
エステル記 8:3-8
エステル記からは神さまの摂理の業を感じずにはいられません。けれどもエステル記のどこにも「神さま」という言葉は出てきません。それどころか、「祈り」、「信仰」という言葉も出てこないのです。しかし、全ての出来事の背後に神さまの御手が見えます。
ハマンの企みはもはや食い止めることができないかと思いきや、一つの綻びがだんだんと大きくなり、哀れな末路をたどります。ハマンの姿からは、真の神さまを我が神として認めないものの愚かさを示されます。
ハマンは打たれましたが、法律はまだ有効でした。王の名によって書き記され、印が押された文章は取り消すことができなかったからです。そこで、新しい法律が作られました。ユダヤ人たちは自分たちの命を守るために集合し、襲いかかる相手を倒して良いとされたのです。
これはエステルが命の危機を覚悟して王に働きかけた結果でした。さらにその背後には、神さまの御計画があった事は当然です。神さまがエステルの献身に応えて、最善の御業を成し遂げてくださったのです。
私達はどうしても、今の自分の目の前の事柄しか見ることができません。将来を見通すことはできません。明日何があるのかもわかりません。しかし信仰生涯を十年、二十年、五十年と振り返れば、神の御手になる絵模様が見えてくるはずです。あるいは、私達が信仰を持つ以前から既に神さまは導いていてくださったのだ、と知ることができるでしょう。
モルデカイやエステルが時代の奔流の中で神の御手に導かれたように、私たちも日々のささやかな出来事のそこここに神さまの御手を見ることができるはずです。私達が気付かないような事柄、気にも留めないような事柄にも神さまはご計画を持って導きを与えてくださっています。聖書全体を通して貫かれているテーマの一つは「神さまが最善に導いてくださる」ということです。
日々の生活の中に、また人生や時代の流れの中に神の御手を発見し、喜んで歩んでいきたいと思います。今はたとえ苦難の最中にいるとしても、神さまの時が来れば最善のご計画が明らかにされるでしょう。神さまの業が万事を益として導いて下さる事を信じ、従って行きましょう。 ハレルヤ! 片平貴宣牧師
エステル記4:10-17
ペルシア帝国クセルクセス王(B.C486-465)の王妃としてユダヤ人のエステルが選ばれた。王は「インドからクシュに至るまで百二十七州の支配者」であり絶対の権力を有していた。王の即位を祝うために半年間に及ぶ披露宴が開かれ、その権勢は帝国中に知れ渡ることとなった。
時に王は、ハマンという官僚を大臣の最高位に就け、他の家来にハマンに跪き敬礼するように命じていたが、モルデカイ(エステルの養父)はハマンに不敬を貫いた。ハマンはモルデカイがユダヤ人であることを突き止めると、ユダヤ民族全体の殲滅を画策した。人の傲慢、名誉欲、罪の恐ろしさが浮き彫りにされる。
事の次第を知ったモルデカイは、大臣の衣服を引き裂いて粗布をまとい、灰をかぶり、叫び声をあげ、苦しみ抜き、エステルに王に直訴するように告げた。エステルは、直訴は死罪であることから一度は不可能であると判断するが、再度の懇請に対して、「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります」と“苦しみの杯”を受けるのであった。
神格化された人を頂点に立てる統治はその体制維持のための死罪を定める。なぜなら神ではなく人であり、刃、凶弾に倒れる存在であることは分かっているので、法によって不可侵を定めるのである。バビロンのネブカドネツァル王の金の像を拝むか否か、ローマ帝国、ナチス帝国、大日本帝国…、歴史は繰り返されるが、それでも人類は学ぶことができない。帝とは「最高の神」という意味であり、傲慢の罪を招いてしまう。
ペルシアの国法の第一条は許可無く王に近づく者は死刑であったが、エステルは同胞を助けるために王への直訴を決意した。そのために三日三晩の断食、当然、その間、祈りに祈る時を送った。信仰が祈りによって守られ、強められることを教えられる。
「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11:24)
エルサレム入城を果たされたイエス様は、近づく十字架を前に、弟子達に祈りの力を説かれた。そして最後の晩餐においても「賛美の祈り」、「感謝の祈り」を唱えられ、ゲッセマネの園において祈りに祈られた(同14:22-23、32)。願うことがあるならば、祈りに祈り、信じて感謝を献げて参りましょう。ハレルヤ! 中島 聡牧師
ダニエル書6章19~25節
「ダレイオス王しか拝んではならない」という勅令が出た後も、ダニエルは日に三度エルサレムに向かって祈りました(11節)。聖書はダニエルのように生活、生きる上での中心を持つことの重要性を語っています。
ここで語られるエルサレムは象徴でしかありません。ダニエルは聖なる都、神殿に目を留めることで、神の存在を可視化しているのです。特にダニエルの時代はユダヤ人にとって国が奪われ異国での地で生き続けなければならなかった現状があります。そのような時に、自分たちが属す真の家を視覚化することで、自分たちは神様に属しているということを明確にしたのです。それは、私たち信仰者への教えでもあります。
私たちは眼に見える属性を気にします。何人であるのか、どこに住んでいるのか、どんな仕事をしているのか、どんな社会的地位があるのか、優秀なのか、どうかなど、あらゆるものに目を配り、気にします。しかし、私たちは毎週日曜日教会に集うことで、私たちが本当はどこに属する者か、そして何を一番大切にしているのかを確認します。それは、万物を造られ、支配されておられる神様に属するものだということです。私たちは荒野の中に生きていますが、そのような中でも私たちは主に属すもの、主のものなのです。
私たちも軍事力と経済力に翻弄される社会、獣に象徴されるような世界の中に生きています。強い国、豊かな国こそ素晴らしいのだと思ってしまいます。しかし、そのような国々はいつか終わりを告げ、また新たに支配する国々が登場していきます。そのような社会に対し、聖書は武器を持って敵を殺して勝利せよとは言っていません。むしろ、ヨハネの黙示録で示されているように屠られた子羊に従うようにと聖書は教えています。ダニエルがライオンの洞くつに入れられたように、また彼の3人の友人が火の炉の中に投げ込まれるようなことがあっても、屠られた子羊、つまり十字架で苦しみを味わったイエス様のように、その苦しみを受けながら神様を証し続けるようにと私たちキリスト者は召されているのです。なぜなら、どんな迫害もどんな闇の力も子羊の勝利を奪うことはできないからです。その信仰に立つ私たちはあらゆる試練にも打ち勝つことができるのです。 ハレルヤ! 田中尚美牧師