使徒言行録8:26~40

「フィリポとエチオピアの高官」の箇所が開かれました。これを転機に、遠くエチオピアの宮廷にまで福音が実っていきます。異邦人が初めて洗礼に至った経過が記され、まさに神様の導きです。その過程は誰もが経験する、3つの段階に分かれています。

第一は、聖霊による導きです。フィリポは「エルサレムからガザへ下る道に行け」(8:26)と天使に命じられます。すぐ出かけていくと福音を必要とする、一人のエチオピア人がいたのです。彼はエルサレムで礼拝をしに来た帰りでした。

全くの偶然とも思える出会いでしたが、全能の神様は、二人がここで出会うように導かれました。神様の不思議な導きがここにあります。自分が導かれているだけでなく、自分が救われるために、誰かがまた導かれているのです。

第二は、聖書による導きです。高官は馬車に乗りながら預言者イザヤの書を朗読していました。彼は異邦人でしたがユダヤ教への改宗者であり、エルサレムへの千数百キロ以上の道のりを経て礼拝に来た、非常に熱心な求道者でした。

高官は「預言者イザヤの書」を真剣に読んでいました。当時は印刷技術もないので、簡単に入手できるものではなかったでしょう。高官は深く学んでおり、フィリポへの質問も核心をついていました。その質問に、フィリポは福音を解き明かしていきました。

第三は、教える人による導きです。エチオピアの高官が朗読していた箇所はイザヤ書53章、「苦難の僕の預言」でした。しかし高官はそこで言われている「僕」が誰か分かりませんでした。

近年、聖書を人々に何とかして伝えようと、わかりやすい言葉に直した聖書が多く出版されています。リビングバイブル、小説『聖書』、大阪弁の聖書、ケセン語等々。

その一方で、言葉がわかれば聖書が理解できるか、と言うとそうでもありません。福音の真髄がわからないと、どこまで行っても聖書はわかりません。そのために「導く人」が必要になってきます。フィリポは、イザヤ書の解説をしたのではなく、「聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。」(8:35)のです。

信仰の確信に至った高官は、その場で洗礼を受けました。彼が水から上がると主の霊がフィリポを連れ去り、再び会うことはありませんでしたが、高官は喜びにあふれて旅を続けました。彼は故郷のエチオピアに帰って、その喜びを人々に証したでしょう。

彼らがいた道は「寂しい道」(8:26)でした。私たちも人生において寂しい道を通る時もあります。しかし、福音を知った時、その道は「寂しい道」ではなくなり、喜びに至る道となります。私たちの救い主であるイエス・キリストに続く道、救い主によって罪を許された事を知る唯一無二の喜びの道です。ハレルヤ!

片平貴宣牧師

使徒言行録7:54~60

今朝は、キリスト教会における最初の殉教者、自らの命と引き換えに福音を伝えたステファノを通して聖霊の力に学んで参りたいと願います。

イエス・キリストが十字架に架けられ、葬られ、弟子たちは壊滅状態になったと思われましたが、キリストの復活と聖霊なる神の力が与えられたことによって、弟子の群、すなわち初代キリスト教会は急速に拡大していきました。その姿は、最初、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と聖書にあります。

そして「皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」(使徒言行録2:42-47)とあるんですね。

完璧な信仰共同体であったわけです。

大変感謝なことでしたが、しかし、この後、余りに増え過ぎた結果、最初の信仰と隣人愛に根ざした共同体としての規範が保てなくなってしまったんです。そも最もたることとして、6:1「日々の分配のことで、仲間の寡婦たちが軽んじられていた」ことへの苦情が寄せられるようになってしまった。そこで、使徒たちは群を守るために「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選び」出し、ことの解決に当たらせようとしたわけですが、その筆頭がステファノなんです。

彼ら七人に委ねられた仕事は要するに「食事の世話」でありました。日々の食事が平等に行き渡るにように分配する給食係であるが、この業のために「使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」、すなわち「按手」したことに注目したい。今日、按手は、教会の聖礼典である洗礼式が執り行われる時、牧師が誕生する時に行われる最重要の儀式です。

ここに、教会における食事の重要性が明確に記されているわけです。教会は、食事を通して、また、パンを裂き、聖餐に与ることを通して、主にある一致、交わりを守ってきたのです。食を通して、元気にしてる? すこししんどそうね、大丈夫? こういうことがあったけれども、もう大丈夫。食事は、単に何か食べるということではなく、そういう互いの思いやりの場であり、教会はそこを重んじるわけです。

ステファノをはじめ、給仕役の賢明なる奉仕により、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」とあります。ユダヤ教からキリスト教への宗旨替えすら起こったわけですね。

ステファノは決して単なる給食係ではありませんでした。「信仰と聖霊に満ち」、「恵みと力に満ち」、「素晴らしい不思議な業としるしを民衆の間で行」い、「知恵と“霊”とによって語」って、主の福音を身をもって現していたんですね。すると「解放された奴隷の会堂」(ローマの奴隷から解放されたユダヤ人)という一派のメンバーの妬みによって、虚偽の証言に扇動された民衆、長老、律法学者たちがステファノを襲って捕らえ最高法院に連行してしまいました。

これはとても大変な状況なのですが、ステファノはペトロやヨハネと同様に聖霊に満たされ、堂々とアブラハム、モーセに遡ってイエス様の正統性とイエス様こそがメシア救い主であることを説き明かしました。彼は最後まで毅然と福音を説き明かしましたが、しかし、妬み、怒りに駆られた人たちによる投石によって彼は殉教してしまったのです。

せっかく一生懸命に教えを守ったのに、一巻の終わりと思うかもしれません。しかし!そこに、ステファノの処刑に立ち会っていたサウロが、後にキリスト教会、最大の福音宣教者パウロとなるわけです。

ヨハネ12:24「一粒の麦が死ねば多くの実を結ぶ」という言葉がありますが、義に生きる者の生き様は、死で終わらない。必ず次の新しい実を結ぶのです。

昨日、この御堂において敬愛する平田裕兄弟の告別式が営まれました。コロナ禍にあって、皆さん大勢と礼拝を守ることができないことが続く中、裕兄にお世話になった方々、教会員がお別れをするために礼拝堂が満たされました。

葬儀式、告別式は礼拝です。死という悲しみ、終わりと思えるその時が、しかして、盛大なる礼拝の時、主を賛美し、御言葉を読み、信仰の継承を祈り願う時となりました。そして、私たちは、「なによりもまず神の国と神の義を第一としなさい」という福音を宣べ伝える、伝道する決意を与えられました。一粒の麦が、多くの実を実らせることを信じます。

今朝の聖書箇所は、もし平田裕兄がその場におられたら、「美味しいものをみんなで食べないとは何事か!」と一喝されていたことでしょうね。信仰とは、良いものを分かち合うこと、なんなら、「幸せの王子」のように、自分の分を隣人にくれてあげることです。

ほんと、一言で言えばそれだけのことですが、今日の世界の解決不能と思える諸問題も、みんなで良いものを分かち合う心さえあればなんとかなるわけです。それを武力や核兵器でなんとかしようとするから泥沼に陥るわけです。

私たちは、先達から与えられた賜物、恵み、この立派な会堂をはじめ、一人一人に与えられた賜物を活かし、捧げ、神の国と神の義を宣べ伝え、信仰継承に努めて参りましょう。7月10日に行われる、白百合光の子幼稚園、子どもの教会との合同礼拝も然りです。午後に行われるウクライナ人道支援のチャリティコンサートもそうです。教会は良いもの、与えられているものを分かち合い、捧げる業を行わねばなりません。

創立75周年を迎える今年、横浜聖句書道展の開催を迎える今年、私たちは、共に祈りを合わせ、福音宣教に仕えて参りましょう。コロナ禍の継続、試練はあります。しかし、第1コリント10:13「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」とあります。

神様は、私たちが神の国と神の義、礼拝、伝道を第一とする時、必要なものはすべて添えて与えてくださるのです。主を信じ、福音宣教に仕えて参りましょう。ハレルヤ!

 

使徒言行録4:11-22

ペトロとヨハネがユダヤの議会、最高法院で取り調べを受ける中で、二人が「聖霊」に満たされて答えた言葉から、聖霊の力がいかに偉大なるものであるか学んで参ります。ペンテコステの日、弟子たちは聖霊の力を受け、「他の国々の言葉で」、「神の偉大な業を語」りはじめました。その結果、「その日に三千人ほどが洗礼を受け、(弟子たちの)仲間に加わった」とあります。

そして、彼らは「民衆全体から好意を寄せられ」る、全く新しい信仰共同体を形成するようになりました。そんな中、ペトロとヨハネによる「美しの門」における癒しの奇跡、生まれながらに足が不自由な人への癒しの奇跡は「民衆」に「非常な驚」きを与え、さらに彼らの信仰共同体が増し加えられていくことになりました。

そのような様を見ていたユダヤの宗教指導者たちはですね、イエスを十字架に磔て、「これで終わり」と思いきや、いつの間にか弟子たちが力を取り戻し、看過できない勢力となっている。成人男性だけで五千人ほど、と書いてありますね。さらに、弟子たちが、まるでイエス様のごとくに奇跡をおこし、堂々と自分たちの拠点である神殿において、アブラハムに遡ってまでイエス様の福音の“正統性”を説き明かしている。

モーセ、預言者サムエルも引用して本当に堂々と説教している。それはですね、旧約の巻物を持っている自分たちの為すべきことだ!と憤慨したことでしょうね。しかし、ペトロとヨハネは、イエス様の復活、イエス様こそ神の栄光を現す救い主であると民衆に説き明かすわけです。そして、民衆もそれを聞くわけです。そこで、ユダヤの指導者たちは「苛立ち」を露わにしてペトロとヨハネを捕らえ、牢に入れてしまったのです。

みなさん、かつてイエス様が捕らえられ、同じ様にユダヤの指導者たちに取り調べを受けた時、弟子たちは恐れをなして逃げ出してしまったんですね。ペトロは三度も「そんな人は知らない」と裏切ってしまったんです。ヨハネもそこにいたが彼もまた沈黙してしまった(ヨハネ福音書18:15「もう一人の弟子」)。大祭司の家の中庭にはペトロだけではなく、ヨハネも一緒にいたんです。ヨハネも恐ろしくて、沈黙によって、イエス様を見捨ててしまったのです。

しかし、しかし!今、ペトロとヨハネは牢に入れられ、取り調べを受けているにも関わらず、聖書に書いてありますが、「大胆な態度」で、イエス様こそ、「家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」だと、詩編118:22引用して答えている。

「神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名」、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない!」と、堂々と福音を告げる者、使徒となっているのです!それは、聖霊に満たされたから。

確かにそうですが、先週学んだ通り、聖霊は既に弟子たちと共にありました。彼らが「戸に鍵を掛けて閉じ籠もっている」時も聖霊は与えられていたんです。(ヨハネ20:22)。「イエスは彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』。」思えば、イエス様の公生涯の時、聖霊なる神ばかりか、子なる神が生きて共にいて下さったんです。しかし、あの時、彼らは逃げ出してしまった。

一体、何が違うのか。答えはただ一つ。(使徒言行録1:14)。弟子たちは「心を合わせて熱心に祈っていた」 弟子たちは心合わせて祈る者になっていたのです。

たったそれだけ? たったそれだけのことなんです。祈っていた、それだけなのですが、すでに学びました通り、これこそ、イエス様が天の国の鍵を授けるにあたって、わたしたちに願われたことなんですね。

「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:18-20)。心から一つになってイエスを救い主と信じ祈るなら聖霊の力が与えられ、福音を告げる使徒となる、そこが主の教会となるのです。

それまでの弟子たちは、残念ながら、そこに神の御子がいるにもかかわらず、心から信じてしなかったし、彼らが心から求めていたことは、「誰が一番偉いか」だったのです。ですから、聖霊の力が働くことができずに、彼らは不信心に陥り、逃げ出してしまったのです。ヨハネ福音書20章の段階では、彼らは集まっていたけれど、それは戸に鍵を掛けて恐れおののきながら閉じ籠もっているだけだった。

しかし、そんな弟子たちに、イエス様は、開口一番、「平和があるように」と言われ、愛によって赦され、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、愛をもって諭されました。そして、ついに彼らは心を合わせて祈る者となったのです。(使徒言行録1:14)。

弟子たちは「心を合わせて熱心に祈っていた」すると聖霊の力が働いて、弟子たちは使徒となり、全く新しい信仰共同体、すなわち教会は、祝福に祝福され、大いになるものとなっていったのです。

エフェソ1:13  あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。1:14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

私たちも聖霊によって「ナザレの人、イエス・キリスト、わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか与えられていません。」と、救いを告げ知らせる者となりましょう。

「神の栄光をたたえる」、私たちも主の栄光を賛美する者となるのです。一人一人が主の御救い、福音を宣べ伝える使徒となり、この教会がさらに祝福されるため、心を合わせて祈って参りましょう。

毎月の最終週の主日に持たれる創立75周年の一斉祈祷を重んじて参りましょう。ただ一つ。心を合わせて祈るならば、聖霊が働いて、福音を前進させてくださるのです。感謝してお祈りいたします。

ハレルヤ!中島 聡牧師

 

使徒言行録2:1-13

聖霊降臨日、ペンテコステおめでとうございます!ペンテコステは50日目、50番目という意味で、今年はイースター(2022年4月17日)から50日目となる今朝6月5日に祝う、キリスト教三大祝祭(クリスマス、イースター)の一つです。

肝心の何を祝うのかといいますと、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、…一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、【ほかの国々の言葉で話し出した】」とある通り、聖霊によって世界宣教に向かっていく力が弟子たちに与えられた、それこそが教会の使命でありますので、この日を全世界のキリスト教会の誕生日として祝おう、ということなんですね。

「なんという画期的な日!奇跡の日!」事実その通りなのですが、聖霊降臨は、決してこの日一日だけのことではありません。聖霊は、キリスト降誕の時からずっとこの世に臨在し続けて下さっています。

ルカ1:35「天使は答えた。『聖霊があなた(マリヤ)に降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる』」。同じくルカ3:21-22「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」聖霊はずっと共にあるのです。

では、肝心の聖霊とは何でしょうか?キリスト教信仰において聖霊とは、三位一体の神(父なる神、子なる神、聖霊なる神)の一つの位格、ペルソナと言いますが、神の一つの位格、存在の仕方、すなわち神御自身です。三位一体の神は、救い主キリストの降誕の時、キリストが公生涯に入られる時、いつも共におられ、まさに全身全霊で私たちの救いのために力を合わせておられたのである。

さらに言えば、創世記2:7、聖霊はアダム創造の時に「その鼻に【命の息=聖霊】を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とある通り、天地創造の時から私たちに「聖霊」を与えて下さっていたのです!しかし、人(アダムとエバ)は神を裏切った(善悪の知識の木の実を食べてしまった)ので、神と断絶状態となり死を覚える者となってしまったのですね。

しかし、神様は私達の救いのためにあらゆる手を尽くして私達と共にいて下さいました。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと共に、そして「昼は雲の柱、夜は火の柱」として共にいてくださいました。(出エジプト記13:21-22)。ずっと、ずっと、ダビデとも、ソロモンとも、ずっと、ずっと、共にいてくださったのです。

そして御子イエスとして共にいて下さった。それでも裏切られたのに、それでも復活の後、ヨハネ20:19以降によれば、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸の鍵をかけていた」のにも関わらず、「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」

先ず安心を与えてくださった。一言も叱責せず、あなたがたに平和があるように。「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。イエス様はすごいですね。ここなんです、恐れていた弟子たちを、一瞬で喜びに変える、これが愛の御業なんです。そして、「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。』

天地創造の時から神様の願いは、ただただ私たちの救いなのです。平和があるように、平和に生きていくことができるように、究極、死をも恐れないで、永遠の命への希望に満ちて平安に生きていくことができるように、その福音を宣べ伝えることができるように。

イエスは、「そう言ってから、彼ら(弟子たち)に【息】を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」自らを与えて下さったのです。聖霊の授与は、聖書の始めから、ずっと与えられ続けているのです。

イエス様は続けて言われました。「誰の罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」これは、マタイ18:18「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは天上でも解かれる。」と言われたこと、すなわち、「天の鍵」の授与と全く同意です。

そして、それは先主日、イエス様のペトロへの三度の問い掛けで学びましたように、「わたしの羊を飼いなさい。わたしの羊の世話をしなさい」と言われたことと全く同意です。私たちは心を新たにしなければなりません。

ペトロはイエス様から「あなたはペトロ、岩だ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。わたしはあなたに天の鍵の授ける」と言われて、ペトロは「うわ!自分は最高位の弟子だ!イエス様はわたしを岩と呼ばれ、この岩の上に教会を建てると言われた、私は特別も特別も特別の存在になったのだ」と思い上がってしまいました。

ですから、イエス様は、三度の問い掛けの時、一度もペトロと呼び掛けられませんでした。三回とも「ヨハネの子シモン」でした。一度も天の鍵を授けるとは言われませんでした。三回とも「羊を飼いなさい、羊の世話をしなさい」と言われたのです。しかし!それは天の鍵を授けられるのと全く同じ意味です。

地位によらず、立場によらず、奉仕の内容によらず、私たちは、天地創造の時から私たちを愛し続け、聖霊、すなわち神御自身を与えようとされ続けてくださった神の愛に満たされて、羊飼いのごとくになって福音を宣べ伝えていくのです。

困難も苦難もあります。しかし、主は、御自身を犠牲として捧げることによって、私たちにこの日、教会を誕生させる力を与え、世界に福音を宣べ伝える力を与えて下さったのです。聖霊の御力を信じて、主に仕え、福音を宣べ伝えて参りましょう。ハレルヤ!中島聡牧師

ヨハネによる福音書21:15-19

今日の箇所は、復活の主イエスと弟子ペトロとの、ガリラヤ湖畔での会話の場面です。ペトロは十字架の場面で、主イエスを三度知らないと言いました。そのペトロに対し、主イエスはとがめるのではなく、同じく三度「わたしを愛するか」と問われます。

もともとペトロは、自分が忠実に主に従う者であることを自負し、「他の弟子たちが主を捨てようとも自分だけは絶対に従います」、と言っていました(マタイ26:33)。しかしその自信はもろくも崩れ去りました。

主イエスは3回「愛するか」と問われ、ペトロもそれに応えています。日本語では全て「愛」と訳されますが、ギリシャ語で見ると、2つの言葉が使われています。

一つは「アガペー」で、「見返りを求めない無償の愛」であると言われます。それに対してもう一つは「フィレオー」と言う言葉で、「兄弟愛・友情」です。

最初主イエスが問われた「愛するか」は「アガペー」です。主イエスはペトロに「わたしをアガペーするか」と問われたのです。その問いに対してペトロは、「フィレオー」で応えています。十分な答えとは言えません。けれどもペトロはそれが精一杯でした。自分は完全な愛を持っていないことを、痛いほど知らされていたのです。

もしも以前のペトロならば、きっと自信満々に「わたしはあなたをアガペーします!」と答えたでしょう。でもそれは思い上がりです。自分の真実な姿に気づいていないからこそ、そう言いうるのです。

けれどもペトロはそのような思い上がりを砕かれました。わが主と仰いだイエス・キリストを知らないと言ってしまった、とても心の痛い体験を通して、自分の真実な姿に気づかされました。

そして主イエスは二度目、ペトロに「わたしをアガペーするか」と問われました。ペトロは「フィレオー」で答えます。三度目に主イエスは「わたしをフィレオーするか」と問われました。ペトロも同じく「フィレオー」で答えます。

ここから示されるのは、私たちは完全な愛は持ち得ないけれど、それでも良いと言ってくださる神さまの愛がある、と言うことです。私たちを包み込んでくださる完全な愛を主イエスは示してくださったのです。

それこそ、十字架の愛です。自らの命を捧げてまで私たち罪人を救ってくださったのです。まず主イエスが真の愛を示してくださいました。その上で私たちに「愛するか」と問うておられます。私たちはそれに不完全な愛でしか応答できませんけれども、それでも良いと言ってくださる神さまの愛があります。主を愛する者として歩みましょう。ハレルヤ!片平貴宣牧師

マタイによる福音書16:13-20

イエス様と弟子たちがフィリポ・カイサリヤ地方に行った時のことです。イエス様は弟子たちに「人々は、【人の子】(御自身)のことを何者だと言っているか」と尋ねられました。「人の子」というと、普通、人間の子と思われますが、ここにおける人の子とは、ダニエル書7:13,14に記されている天的な存在を意味しています。

「7:13夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み7:14権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」とある通り、「人の子」とは明らかに、メシア、救い主を指し示しています。

これに対して、弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えたんですね。洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、この三者は“生まれ変わり“であり、確かに超越的な存在ですが、人です。最後の預言者はまさに人です。いずれも神と繋がっていることを言い表していますが、それでも人です。

次にイエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられると、シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と【救い主・神】であると、ただ一人、あなたはメシア、神であると、信仰を告白したのです。

この記述は共観福音書に全て残されていますが、不思議なことは、他の弟子たちがペトロに追随して、「そうです、あなたこそ、メシア、神の子です」と言わず、ペトロだけが告白しているということです。アンデレはどうした? あの負けん気の強いヤコブとヨハネはどうした?という感じですが、これには、当時、ローマ皇帝が「神の子」を名乗っており、他の者を神格化することは、究極、死罪であったので、死を覚悟しなければできないことであった、ということが考えられます。

特にフィリポ・カイサリヤ地方は皇帝の威光が強い土地だったので、ペトロだけが必死の信仰告白を成し遂げることができた、ということになるのです。ですから、このシモンの決死の信仰告白に対して、イエス様は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われ、ペトロに弟子として最大にして最高の権能を授与されたのです。

ですから、ローマ・カトリックは現在もペトロが天国の鍵を託された者であり、歴代の法王はペトロの後継者としているわけです。

ところで、この「天国の鍵」がペトロに授与されたという件、いわば弟子にとって最大の関心事であったろうに、この出来事はマタイ福音書にしか残されていないんです。ですが、この後、ペトロがイエス様から「サタン、引き下がれ!」と叱責された件は共観福音書、マタイ、マルコ、ルカに残されているんです。

そして、聖書は、弟子全員に対する「天国の鍵の再授与」をマタイ(18:18)とヨハネ(20:23)の二つに残しています。マタイだけが、ペトロに天国に鍵が授与されたことを書き残していますが、それは、むしろ、ペテロだけが天国の鍵を与えられた者ではないことを強調するために書き残したと思われます。

マタイ18:18「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは天上でも解かれる。」はっきり、「あなたがた」と、弟子たち全員に告げらています。

さて、「あなたはメシア、生ける神の子です。」この告白は、受洗者は全員為しています。従って全員が天国の鍵、すなわち、世の人を天に繋ぐ御業、教会建設、伝道の担い手(これこそが主の弟子なわけです)として召し出されているのです。

主の弟子である私たちの為すべきことが、続いて教えられています。マタイは天の鍵の再授与において、「二人が地上において心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」とイエス様の恩寵を記しています。

たった二人で良い、心を合わせて、神の御心に適うこと、すなわち御救いを宣べ伝えるのために求めるなら、かなえられる。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」たとえ二~三人でも良い、「主イエスよ!あなたこそ生ける神の子、キリストです!」と、信じて集まるなら、それこそがエクレシア、教会なわけですが、「そこにわたしも共にいる」と、主の臨在を約束して下さった。

本日、2021年度の決算総会が開かれます。決算するとは、お金のことだけではありません。私たちの教会の行動を決算することです。それは、タラントンを預けられた僕が主人に決算の報告をするのと同じです。

タラントンは確かに貨幣単位ですが、当然、タラントンを生み出す活動があってのタラントンなわけです。わたしたちがいかなる福音宣教に仕えることができたのか。思い返せば、コロナ禍において教会の最大中心である礼拝を、わずか数名で守るということがありました。これ以上の危機はない、教会にとって最大の危機でしょう。

しかし、二人または三人がわたしの名によって集まるところ、わたしも共にいる。万軍の主が共におられるのですから最大最強の時であったのです。片平牧師を先頭に、礼拝動画配信を駆使し、100人、200人という神の民が共に礼拝を守り抜いたのです。地区消息は、教会員相互の交わり、支え合うことを守り抜いたのです。

そして、総会資料にある通り、数え切れない福音宣教に仕えることができた。オリンピック選手村礼拝の支援や、てんこてん・ALS支援や、初めての試みですら行うことができた。まさに奇跡の連続であった。

本当に危機的な状況であったのに。しかし、すべて聖書に書いてあるとおりです。

ヨハネ福音書は、天国の鍵を授けられた弟子たちが、イエス様の十字架に恐れをなし、家の鍵を掛けて閉じこもっていたにも関わらず、そこにイエス様が入ってきてくださって、「わたしはあなたがたを遣わす」、「聖霊を受けよ」と、世界宣教への力を与えてくださったことを書き残しています。どんな状況になったとしても、主は私たちに力を与えてくださる。メシア、生ける神の子、救い主であるからです。

そして、今日、主は田中尚美牧師を清水ヶ丘教会の担任教師として迎えてくださる。ミッションスクールと教会の架け橋が益々祝されることでしょう。必要な力、聖霊は与えられるのです。

「天の鍵」を最大に用いることができますように、2021年度の恵みに感謝しつつ、主に献げ、主の御業、伝道に仕えて参りましょう。ハレルヤ!中島聡牧師

 

マタイによる福音書14:22-33

ペトロがイエス様と同じように湖の上を歩こうとするエピソードは私たちキリスト者の信仰を分かりやすく表しています。この話でまず注目すべきことは、この湖の嵐が来たのは「任務に就きなさい」というキリストの命令に従ったときだったということです。なぜなら、イエス様は22節で「強いて」弟子たちを舟に乗せたことが書かれています。つまり、弟子たちが勝手にイエス様を置いて、舟をこぎ出したわけではないのです。そんな時に嵐が来ました。

弟子たちは恐怖におののきます。恐怖に取りつかれ、彼らは救い主に希望をもつのでもなく、イエス様を幽霊と間違えます。しかし、イエス様は「わたしだ」と言って、彼らを安心させました。それから水の上を歩きたがるペトロの要望にイエス様は「来なさい」と答えます。しかし、ペトロはイエス様に目を留め続けず、イエス様のように水の上を歩いている自分に目を留めてしまい、彼は沈んでしまいました。ここでは、イエス様への愛がありながらも、自分へのプライドも捨てきれない信仰者の姿をペトロの姿に見ることができるでしょう。信仰生活は波のように揺れ動きます。穏やかなときもあれば、荒れ狂うときもあります。しかし、沈みかけたペトロは「主よ、助けて下さい」と叫びました。彼は自ら泳ぎあがこうとせず、すぐに主に助けを求めました。そして、つかさずイエス様は手を伸ばして彼を救いました。イエス様は「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言われましたが、イエス様が怒ったとか強く戒められたとは書かれていません。ただただ、イエス様はペトロが救いから遠ざかり、手遅れになるまえに、彼を勇気づけ、強められたのです。私たちの信仰が揺れ動くとき、主に真っ先に助けを求めましょう。 田中尚美牧師

ルカによる福音書9:51-56

今朝は、ペトロとアンデレに次いで、12弟子の筆頭格と目されるゼベダイの子ヤコブとヨハネを通してイエス様の愛の深さを学んで参りたいと願います。よくご存知の通り、彼らはペトロとアンデレと同じくガリラヤ湖で漁をしていたところ、イエス様に招かれ弟子となりましたが、マルコ福音書では、イエス様が彼らにあだ名、ニックネームを付けられたことが記されています。

「ボアネルゲス、すなわち『雷の子ら』という名を付けられた」(3:17)とあります。ヤコブとヨハネ、どちらか一方だけではなく、兄弟二人でボアネルゲ、雷の複数形ボアネルゲス、まぁ、2人揃って激しやすい性格だったのでしょうね。

あと、シモンに、ペトロすなわち岩という名が付けられたことは有名ですが、「これはシモンが頑固者だったから」というよりは、ヨハネ福音書でイエス様が、「シモン、あなたはアラム語でケファ(すなわち岩)と呼ばれるようになるだろう」と言われたようにですね、後にイエス様が、「私はペトロ、あなたの上にわたしの教会を建てる」と言われたように、あだ名というよりは、ペトロが福音宣教の器として用いられるようになるという預言的な意味が深い名付けです。

これに対して、ボアネルゲスは、まさにあだ名、二人の性格に由来した、余り喜ばしくないニックネームということになります。そんなヤコブとヨハネが弟子たちと共に、サマリヤ人の村に入り、イエス様のために宿泊の準備をしようとしたところ、歓迎されなかったので、案の定、激昂したというお話です。

なぜサマリヤ人がイエス様を歓迎しなかったのかについて「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたから」と記しています。ちょうど、先週の聖書講読祈祷会の歴代誌下13章がその原因を記している箇所だったのですが、北のサマリヤ人も、南のユダヤ人も同じイスラエル人なのですが、ソロモン王以降、イスラエル王国が南ユダと北イスラエルに分裂してしまい、南ユダはエルサレムを、北イスラエルはサマリヤをそれぞれの首都として互いに反目するようになってしまったんですね。

どちらも大概、神様に逆らった歩みをするのですが、先に北イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされた際にですね、アッシリアはイスラエルの男性は皆、諸外国に強制移住させ、代わりに外国人を入植させるという、いわば民族抹消政策を執行したんです。ですから、特に南ユダの人たちは、「サマリヤ人をもはや“正統なイスラエル人”ではない」と蔑視するようになった。

そのような関係性においてイエス様がエルサレムを目指しているということは、サマリヤの人たちからすれば「ああ、イエスというのは南ユダのためのメシアなんだ」という印象を拭えず、歓迎しなかったということなんですね。まあ、無理ないことだと思います。

そして、ヤコブとヨハネもですね、おそらく「なんでよりによってサマリヤの村で宿を取るとは」という感情を抱きつつ、無下にされたので「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と宣ったのだと思います。彼らが大預言者エリヤを気取ったのかは分からないし、二人が本当に天から火を降らせるなんて、そんな力があったのか怪しいところですが、言ってのけたわけです。

確かに、この前の箇所を読みますと、12弟子は皆、イエス様から、悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能を授けられていたのですが、慢心に陥り、悪霊に取り憑かれた子どもを癒せなくなっていたんです。驕り高ぶりがあったんですね。だから、二人は、「火を降らせて焼き滅ぼしましょうか」なんて、そこには当然、父母、家族、幼な子もいたであろうに、とんでもない無慈悲な発言をしてしまったんです。

もし、こんなことをしていたら、私たち絶対伝道できないですね。本当に短気は損気です。激昂しやすい、怒りというのは体にすごい悪影響を与えるんですね。 仏教の三毒、三つの毒にも怒りが入っていますが、怒りはノルアドレナリンという神経物質を分泌させて、心身を争い、戦いに向かわせる、臨戦態勢に入らせるんです。心臓の鼓動を早くさせ、血圧を上げ、血管を広げるんですね。スポーツや試合の時にはそれが役立ちますが、日常的に怒っていると心臓、血管への負担が大きくなりすぎます。

短気で怒りやすい性格というのは困りものですから、アンガーマネジメントという言葉がありますが、そうさせないための、手法、取り扱い方も大切ですね。

一つにものの言い方です。優柔不断→思慮深い、頑固→芯が強い、プライドが高い→上昇志向、落ち着きがない→行動力がある、八方美人→協調性が高い

イエス様は勿論、「振り向いてヤコブとヨハネの二人を戒められた」とあります。火を降らせましょうか!とまで激怒している二人を、イエス様はよく戒められたと思います。しかも、この後、二人は、じゃもういい!って離れていかない。

これは、イエス様が単に怒りかえすというか、叱責したのではなく、忍耐のある戒めだったと思います。ルカ6:27。二人はすでに、イエス様から「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」という教えを受けているのに全く理解していないことが分かる。イエス様こそ、普段いったい何を聞いているのか!と怒られても良いぐらいです。

二人は、いわば弟子失格なのですが、イエス様はそれでも彼らを愛し、忍耐強く導き続けられました。使徒言行録12:2によれば、ヤコブは十二使徒の内、最初の殉教者となるまで福音宣教に仕え続ける者となりました。ヘロデに命狙われながら、もうこんな悲惨な状況で弟子なんかやってられるか、と短気を起こすのでもなく、逃げ出すのでもなく、忍耐に忍耐を重ねて、弟子であり続けたのです。

ヨハネは【愛の使徒】と呼ばれるほどに、ひたすらに「神の愛」を説く者となりました。ヨハネ福音書もイエス様が説かれた愛を一番多く記述していますし、第1,第2、第3ヨハネの手紙は愛という言葉に満ちています。Ⅰヨハネ4:10「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

だから、Ⅰヨハネ4:20。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」誰にでもカッとなることはありますが、その時、もしイエス様の十字架を思い出すことができれば、決して怒りにまかせることなんてできないと思います。イエス様の十字架という究極の遜りの愛が、雷の子らであった、ヤコブとヨハネを造り変えられたのですね。主の愛に満たされて共に福音宣教に仕えて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡牧師

 

ルカによる福音書5:27-32

イエス様が「レビ」という名の徴税人を十二弟子に選ばれたことから、イエス様の愛の深さ、私たちを祝福してくださるイエスの恵みの広さ、私たちもまた弟子として招かれる幸いについて学んで参りましょう。レビという名の徴税人が収税所、税金を集める関所みたいなところに座っていた、とあります。要するに座っているだけで、周りからお金、税金を持ってくるわけです。ローマの後ろ盾がありますから、敵対する人などいない、まあ尊大になっていても仕方ないですね。

マタイ福音書だけは、この「レビ」のことを「マタイ」と呼んでいて、もしかしたらマタイはもともと徴税人だったのでしょうか?これは想像の域でありますが、マルコ福音書も「アルファイの子レビ」と呼んでいますので、レビが本来の名と推測されます。

名前の意味合いは後述しますが、十二弟子が選ばれる時に、その背景が記されているのは、共観福音書では漁師であったペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの四人と、このレビだけです。ヨハネ福音書は、フィリポとナタナエルという弟子を追加しているのですが、彼らもペトロとアンデレと同じ漁師町ベトサイダの出身者です。漁師と徴税人、どちらも当時の社会では蔑視され、蔑まれ、また当時の宗教観では“救いの外”の人たちでありました。ユダヤ社会の指導的な構成メンバーからは相手にされない人たちだったのです。

しかし、イエス様は先ずもって彼らを弟子に選ばれたんですね。ここに、本当にすべての人を救いに招んだ、というイエス様の愛の深さが示されているわけです。次にレビという名前についてですが、これはもちろん、族長ヤコブの十二人の息子レビに由来します。そして、系図としてはアロンとモーセの末裔、すなわち祭司一族の血筋の者ということになります。大祭司、祭司になれるのはレビ族の者に限るという律法が脈々と受け継がれる中、彼は何かの事情で徴税人に身を落とすことになったんですね。

希望通りにいかない人生。私はこんなはずではなかった。期待に添えない人生。周囲の期待、応援、誰だって最初はそういうものを受けるわけです。しかし、上手くいかない。そして、ついには誰からも期待されない人生。ああもうあいつは無理だな。直接は言われないが、そんな心の声をひしと感じる。どんなにさびしく、辛いことかと思わされます。もちろん自業自得という面もあったかもしれない。

しかし、誰が好き好んで、皆に嫌われ、蔑まれる徴税人になるでしょうか。そうならざるを得なかった背景があったのですね。その、レビ・マタイが、収税所に座っていたところ、イエス様に「わたしに従いなさい」と言われた。

正直、一体、何のことか、という感じです。先ほど触れましたが、まだペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの4人しかいない。まだ、十二弟子すら揃っていない、そういう段階で、「わたしに従ってきなさい」と言われても、どうだろう?しかし、彼は、「【何もかも捨てて】立ち上がり、イエスに従った」のです。

おそらく、彼は、イエス様のことを耳にしていた。すごい奇跡をおこし、すべての人が救われると説き明かしている。自分も救われるのだろうか、徴税人になって、もう終わりだと思っていた、皆から蔑まれ、こうなったらお金が全てだから、とことん身を落として稼げるだけ稼いでやる、しかし、心の内は虚しい、孤独、お金だけで繋がる関係、思い出せば、期待されていた人生、期待されていた自分がいたのに、もしかしたら、こんな私でも救われるのか、もう一度、人生をやり直せるのか、そう思っていたことでしょう。

だからこそ、彼は、すべてを捨てて立ち上がり、イエス様に従ったのです。そして、「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」。皆さんも徴税人の頭であったザアカイのことを思い起こすと思いますが、盛大な宴会を開くことができる豪邸、召使い、給仕役、彼はかなりの出世を果たしていたのでしょうね。

しかし、彼は、これらのものを全て捨てて主に従う者となるのです。彼が心から願っていた人生では無かったからです。ペトロたちもイエス様に招かれると「すぐに舟と網を捨てて従った」とあります。ルカ福音書ではレビが招かれる直前、同じ5章1節からペトロたちが招かれているのですが、そこでは「大勢の群衆がイエスの神の言葉を聞こうとして押し寄せてきた」とあります。しかし、ペトロたちは、何をしていたかと言いますと、一晩中、漁をしていたのですが何も獲れなかったので、網を洗っていたんですね。イエス様の話を聞いている暇なんてなかったのです。

ルカ4章の最後には、イエスは「諸会堂に行って宣教された」とありますが、会堂に行けることなんて無かったのです。それが当時の漁師なんです。しかし、イエス様はいの一番にペトロたちを弟子に選ばれました。彼らもまた、自らの人生に飢え渇きを覚えていたのです。ですから、「彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とあるのです。物を捨てるということではなく、献身の第一歩は「自我と自分のための自己所有」を捨てることと示されます。

厳密に言いますと、決して彼らは“一文無しの丸裸”になった訳ではありません。しかし、自己存在と所有することの新たな意義、福音に立って生きていくという決心によって、彼らは新生したのです。「人間を取る漁師になる。」 また、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われた主による愛と救いを宣べ伝えていくということです。「ましみず」をご覧下さい。

プロテスタントは「万人祭司」の教えに立ちます。一人一人が主の弟子、主の僕として、福音宣教に仕えていく者として招かれ選ばれています。役員会、礼拝奉仕、地区消息をはじめ、一つ一つの会、集会において、主の愛と救いを宣べ伝えるために感謝と喜びをもって仕えて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡牧師

 

使徒言行録1:3-11

使徒たちはいよいよ、復活の主イエスとの別れの時を迎えます。主イエスの昇天の出来事は、普通の物語ならばさながらクライマックスというか、エンディングであってもおかしくないと思います。しかし、聖書はここで終わりません。むしろ使徒たちの本当の働きはここから始まるのです。

主イエスが天に上げられた後、御使いが弟子たちに現れて語りました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)

主イエスはこの世に再び来ることを約束されました。「再臨」の約束です。2000年前にこの地上に来られ、私たちのために十字架にかかってくださった主イエスが再び来てくださいます。私たちはそれを単純に信じ、待ち望めばよいのです。

主イエスが再び来たりたもうその時は、救いの完成の時であり、この世の終わりの時でもあります。「この世の終わりの時が来る」、と世間でも騒がれることがありますが、恐怖をあおるような形で語られることが少なくありません。しかし聖書の語るこの世の終わりは、私たちが待ち望むべきものです。しかも、希望の内に待ち望むものです。

復活の主イエスが再び来られる、これに代わる希望は他にありません。今でも復活の主イエスの御霊は、罪の世を贖い、救いを成就するために教会を通して働き続けています。

その業が完成するのは、主イエスが再び来られることによります。再臨の主イエスへの信仰は、罪と悪が満ちている今日の時代に、教会が希望と喜びを失わず立ち続け、福音を証しする大きな力となります。

それではいったい、「主の復活を証しする」とは、どんなことをすればよいのでしょうか? 「主イエスは甦られた」と直接のべ伝えることも一つの方法ではあります。けれどもそれだけではなかなか恵みが伝わりません。

ですから私たちがなすべきは、やはり「御言葉に生きる」ことでありましょう。「神を第一とし、隣人を愛する」と語られた主イエスの教えに生きるのです。小さな事も忠実に行い、平和を形づくる者として歩むのです。

そうするときに、主イエスが我が内に生きていてくださる、復活の主イエスを我が内に宿して歩むことになるのです。

信仰者はいつも「マラナ・タ」(主よ、来てください)(Ⅰコリ16:22)と祈りつつ、1日も早い主イエスの再臨を待ち望みたいと思います。私たちは主イエスを待ち望みつつ聖霊を受けて愛の業に励み、勝利のうちに歩む者となりましょう。

ハレルヤ!                片平貴宣牧師