nakajima on 1月 26th, 2020

エステル記4:11-17

紀元前460年頃。預言の通り、バビロンに代わって台頭したメディア・ペルシャにおいても、聖書(福音)は紡がれ続けた。

クセルクセス王のもと、ユダヤ人(ベニヤミン族)のモルデカイが家臣として仕えていたが、彼の伯父アビハイルの娘エステル(幼いころに両親を亡くし、モルデカイの養子になっていた)が王妃に選ばれた。

しかし、やがてエステル以外の者が後宮に選ばれてくるようになった。しかし、それでも彼女は王暗殺の謀反を阻止したりと王に忠誠を尽くしていた。

さて、ハマンという男が大臣の中で最も高い地位に就いた。彼は自意識が高く、自分に跪かず、敬礼しないモルデカイに怒りを覚えた。そして、モルデカイがユダヤ人であることを知ると、彼のみならず「国中にいるユダヤ人を皆、滅ぼそうとした」(3:6)。

ハマンはプル(くじ、賽子の一種)でユダヤ人虐殺の日を決めさせ、王にユダヤ人根絶の勅書「老若男女を問わず一人残らず滅ぼされ、殺され、絶滅させられ、その持ち物は没収されること」(3:13)を出させた。勅書は全州、全国民に公示された。

この窮地を知ったモルデカイは、エステルに王に救済の嘆願に行くように命じた。しかし、すでにエステルは王からの召しが無く、直訴になってしまう。直訴は命と引き替えが世の常、躊躇うエステルであったが、モルデカイは「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」と告げた。エステルは信仰によって直訴を決断するのであった。

個人への憎しみが民族への憎悪となり、その根絶までも思い描く。ナチス・ヒトラーがユダヤ人ホロコーストを行ったが、ヒトラーはアメリカが先住民族に対して行った手法、また黒人への人種隔離政策を手本にしていた。人の罪を悔い改めよう。聖書は人生の手引きであり、真の歴史教科書でもある。

エステルは「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります」と言った。人を救うために自らを献げる。ダニエル、エステル、数え切れない殉教者、イエス・キリストの血潮によって今の教会がある。感謝のみ。ハレルヤ!

nakajima on 1月 22nd, 2020

ダニエル書6:19-29

金、銀、青銅、鉄、陶土で出来た像の夢の説き明かし、七倍の熱さで燃え盛る炉からの生還、これらの奇跡、主の力の顕現のたびに、ネブカドネツァル王は悔い改めて、ダニエルはじめ三人の青年を重用した。そして、大きな木の夢の説き明かしと成就を通して、「天の王を讃え、崇め、賛美し、その御業はまこと、その道は正しく、驕る者は倒される」との信仰に至った。

次にベルシャツァルが王位に就いたが、彼は大宴会を催すと、エルサレム神殿から奪ってきた金銀の祭具に酒を満たし、あらゆる偶像の神々をたたえた。余りの蛮行に「人の手の指」が現れ、白い壁に文字を書き始めた。宮廷の全ての知者もその文字を説き明かすことができなかった。そこでダニエルが召し出され、その文字は「メネ、メネ、テケル、パルシン~ベルシャツァルを数え計り、王として不足、故にバビロンをメディアとペルシアに分割する」という意味と教えた。王はダニエルに王国第3位の地位を与えたが、その夜の内に暗殺されてしまった。信仰の継承は難しい。

次にダレイオスがメディアとペルシアの王位に就いた。彼はダニエルを全総督120人を束ねる3人の大臣の一人にした。その働きぶりが傑出していたので、さらに王国全体を治めさせようとしたが、周囲の大臣、総督が妬みから奸計(30日間、王以外のものに願い事をする者は獅子の洞窟に投げ込まれるという勅令)をもってダニエルを陥れようとした。ダニエルは奸計を知りつつ、いつも通り日に三度エルサレムに向かってひざまずき、祈りと賛美を捧げた。

ダレイオス王はなんとかしてダニエルを助ける方法はないかと心を砕き、日の暮れるまで努力した。しかし、自らの勅令ゆえ、「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように」と祈り、刑の執行を許可した。夜が明けるやいなや王が洞窟を確認すると、ダニエルは神の庇護のもと生存していた。王はダニエルを陥れようとした家臣を家族もろとも獅子の洞窟に投げ込ませた。王は、全国民にダニエルの神を恐れかしこむように勅令を発布した。信仰は必ず継承される。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

ダニエル書3:24-30

金、銀、青銅、鉄、陶土の像は、金であるバビロン帝国から、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、次々と権力、帝国が移り行くこと預言されたをネブカドネツァル王は、バビロン、己こそが永遠に続くとばかりに、高さ60アンマ(27m)、幅6アンマ(2.7m)の全身金の像を建てさせた。そして、「総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官、その他諸州の高官たちを集め、自分の建てた像の除幕式に参列させ」、以後、角笛等の告げ知らせあれば、バビロンに住む者は皆、「金の像の前にひれ伏し拝め。拝まない者は直ちに燃え盛る炉に投げ込む」との勅令を発布した。すると、ダニエル達の大出世を妬ましく思っていた者たちが、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人の青年が金の像を拝んでいないことを王に告げ口した。王は「あの三人は例外だ」と言うと思いきや、「怒りに燃え」て、三人を連行させ、詰問し、金の像崇拝を強要したのであった。一体、「あなたたちの神はまことに神々の神、すべての王の主」(2:47)との絶賛は何であったのか。これが人の罪、権力を持った者の傲りである。

三人は王の迫害に毅然と立ち向かい、「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくても、御承知ください。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」と宣言したのであった。「あっぱれ!」と言うかと思いきや、王は「血相を変えて怒り、炉をいつもの7倍も熱く燃やすように命じ」た挙げ句に、三人を「縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ま」せたのであった。普通の火でも焼け死ぬのに、自分の意に従わない者に対する憎悪の火、7倍に熱くさせた炎、これぞ人間の“業火”である(“通常”兵器でおさまらず灼熱の核兵器を所有する人間の罪、まさに業火)。

三人は絶命のはずであったが、王が炉を覗うと、四人の者が炉の中を自由に歩き回っている。王は驚天動地ながら、三人に炉から出るように命じると、「いと高き神に仕える」彼等を「神は御使いを送って救われた」と理解し、以後、バビロニアの支配下にある全ての者は三人を重んじるように命じ、彼らをさらに高い地位に就けたのであった。命を懸けて主に信じ従った先達によって我ら有り。ハレルヤ!

ダニエル書2:44-49

時は紀元前580年頃。アッシリアに代わって台頭した新バビロン帝国がイスラエルを配下に治め、民を大量に捕囚した。新年早々、喜ばしくない聖書からのスタートと思えるが、聖書は「人の罪と神の赦し」なので仕方がない。アッシリアによって北イスラエルが滅ぼされても、南ユダは悔い改めず、10年ほど前に第一次捕囚が行われてもなお悔い改めず、遂にエルサレム神殿も落とされ、ダニエルのような優秀な人材、大切な祭具もバビロニアに持って行かれてしまった。その中でもダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人は、バビロンにおいて庇護、厚遇を受けながらも、主に対する信仰を貫き通した。四人は常にバビロン中の占い師、祈祷師よりも十倍優れた働きをすることができたが、中でもダニエルは、「どのような幻も夢も解くことができた」(1:17-20)。

ネブカドネツァル王が即位して2年目のこと、王はたびたび不可思議な夢を見るので不安になり、国中の「占い師、祈祷師、まじない師、賢者(fortunetellers, magicians, sorcerers, and wizards+astrologer)」を呼び集め、夢の説明を命じた。彼らは王に如何なる夢であったかを尋ねたが、王は夢そのものも言い当てるように命じたので、皆、不可能と返事をした。王は憤り、彼らを皆殺しにするように命じた。ダニエルと三名も“知者”の一人であったので、処刑されようとした時、ダニエルは神に夢と夢の説き明かしを祈り求めた。主は祈りに応え、夢の秘密を明かされた。

王が夢に見た不思議な金属の像(頭が金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土)は、バビロン以降、台頭していく勢力(ペルシャ、ギリシャ、ローマ)を表しており、「人手によらない石」がその像を打ち砕いたとは、いずれの帝国も永続しないこと、さらに「その像を打った石が大きな山となり、全地に広がった」とは、神の御業、キリスト降誕によって全ての人が救われるという福音、神の教会が全地に広がるという預言である。

この説き明かしを聞いた王は、ダニエルにひれ伏して拝し、献げ物と香を供えた。また、ダニエルの神、主を誉め讃え、ダニエルをバビロン全州、全知者の長官とし、他の三人も各州の行政官に任命したのであった。困難にあっても主に依り頼む者を主は大いに祝福して下さる。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

ヨハネによる福音書4:21-26

天使が「民を罪から救う」と告げたとおり、神の御子は、救い主としてこの世にお生まれになった。救い主とは、如何なるものか。さらに天使が「その名はインマヌエルと呼ばれる」と告げたとおり、それは文字通り「共にいる」ということである。

人は、仕事や趣味、共通の価値観、高揚感を覚える時、共にいることは容易いが、悲しみ、苦しみにおいてはどうだろうか。親、家族、愛する人以外には難しい。

イエス様の最初の奇跡は「カナでの婚礼」。人生の門出にぶどう酒が足りない、失態、大恥である。そんなところに「共にいない」。しかし、イエス様は最初の奇跡をもって共におられた。その後、イエス様の奇跡は、そのほとんどが病にある人を助けるためにおこされた。

そして今、サマリアの女に対して、「永遠の命を与える」という奇跡をおこされている。当時、ユダヤから蔑視されていたサマリア、その中でものけ者扱いされ、一人で昼間に水を汲むしかなかった人。誰もが見捨てていた人。しかし、イエス様は「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と救いに招かれたのである。イエス様の「共にいる」は、私たちがたとえどんな状態になったとしても「共にいる」である。誰が見捨て誰が見離しても共にいてくださるのである。

イエス様はこの人を救いに招かれた後、「まことの礼拝」に生きていくことを教えられた。それは神から与えられる「霊と真理をもって守る礼拝」(4:23、24)である。

そして、その礼拝を通して、福音伝道に生きる道を教えられた。「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。…あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」(4:35-38)

人を裁くのではなく、人を救いに導く聖霊と真理に満たされ、主が御自身を身代わりとして贖ってくださった命を、救いへと招く。一切が感謝と喜びによる伝道に生きる決意こそハレルヤ! 中島 聡主任牧師

nakajima on 12月 22nd, 2019

マタイによる福音書2:1-12

「光は暗闇の中で輝いている。」(ヨハネ1:5) 救い主降誕の出来事は、まさに暗闇の中でおこった。ローマ帝国による圧政。救い主を新しい王と間違えて祭司長、律法学者全員を招集して乳飲み子の殺害を指示するヘロデ王。家族、親族に見離されたマリアとヨセフ。馬小屋(家畜を繋ぎ止める洞穴)、飼い葉桶…。これが1千年もの間、預言され、待ち望まれてきた救い主、天地万物を創造された神の独り子の降誕である。

最低最悪と言える状況下、しかし、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(ルカ1:79)のであった。神は定められた時に必ず救いを現してくださるのである。

全ての人が見落としてしまうような夜の出来事であったが、「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:10-11)また、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」(マタイ2:9)とあるように、真の福音は人の手によらずとも必ず明らかに告げ知らされるのである。

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)2千年前のベツレヘムの夜、罪に覆われた暗闇の世が、御子の降誕によって再創造されたのである。この世は神の「光あれ!」の御声によって創造されたが、人の罪に溢れる世となってしまった。その罪は余りにも大きく重く、すべてが滅ぼされねばならなかったが、自らの命を犠牲として献げることを定められた御子の降誕によって、ただ信じるだけで救われるという全く新しい光の世に造りかえられたのである!

この福音、驚くばかりの恵みを伝えるために私たちは選ばれたのである。子どもの教会・清水ヶ丘病院、教会・聖隷横浜病院、エデンの園でのキャロリング、ギデオンの聖書配布、白百合光の子幼稚園、子どもの教会、こどもニコニコレストランでのクリスマス会、キャンドルライトサービス、今年も精一杯「メリー・クリスマス!」を届けて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 12月 15th, 2019

ルカによる福音書1:26-38

アドベント第3は、マリアと(おそらく石工であったろう)ヨセフへの告知に学ぶ。二人は、婚約していたが、まさか救い主の父母になろうなどとは夢にも思っていなかった。

「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」マリアは恐れ、戸惑い、考え込んでしまった。マタイ福音書によれば、ヨセフも恐れ、ひそかに離縁しようと決心した。天使は、二人に①恐れるな、②聖霊によって生まれてくる子は救い主である、③名を「イエス(神は救い、救う者の意)」と名付けよ、と告げた。

主は、私たちが全く願っても望んでもいなかった恵みをお与えになる御方である。しかし、それは多くの人々の祈りと願いである。子が与えられることは、ザカリアとエリサベト同様、大きな恵みであり、またバプテスマのヨハネと同様に、その子は救い主として大いなる奇跡、権威ある御業、尊い救いの御言葉をこの世に現すが、しかし、最期は鞭打たれ、茨の冠を被せられ、十字架に磔られ死なねばならない定めであった。ここに最高の恵み、すなわち信仰の最高到達点とは、他者のために己を献げることと示されるのである。

ザカリアとエリサベト、またヨセフとマリアも、戸惑い、恐れつつも信仰によって御告げに従うことができた。口がきけなくなっても、親戚筋から見離されても祈りによって「多くの人の喜び」(ルカ1:14)のために耐えることができた。神は、羊飼い、三人の博士ら、シメオン、アンナなど、礼拝者、助け手、預言の成就であることを証する者を備えておられるからである。

神の救いの御業、恵みが世に体現するには、そこに苦難もある。恵みが大きければ大きいほど苦しみもまた大きい。何十年、半世紀と、涙と痛みの内に祈りに祈ってかなえられる恵みがある。また全く自身は願わずとも多くの祈りの成就のために選ばれ、「これを為せ!」と命じられることがある。「おめでとう、恵まれた方!(greatly blessed you!)」 主は私たち一人一人を選んで、信仰を与え、恵みの計画を立てておられる。それは平和を与え、将来と希望を与える計画である(エレミヤ29:11)、選びに応える力も与えてくださっているのである。ハレルヤ!中島 聡牧師

ルカによる福音書1:5-17

祭司ザカリアと妻エリサベト、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」。しかし、高齢となり信仰の継承者である子はいなかった。ザカリアが主の聖所で香を焚いていたところ、天使が現れ、香壇の右に立った。それを見たザカリアは「不安になり、恐怖の念に襲われた」。かつて指導者に選ばれた者も皆そうであったように、祭司であるザカリアも奇跡を前に恐れをなした。人の信仰の限界である。しかし、天使は「恐れることはない。…あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と告げた。主は私達に完璧を求めておられない。不安の中にあっても、恐れながらでも、主に従いたいと願う祈りを求めておられる。

「あなたの願いは聞き入れられた」。ザカリアもエリサベトも、高齢のゆえに子を諦めていた。しかし、心のどこかでは求めていたのだ。主は私達の願いをご存知である。そして、主の時にそれは成就するのである。「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。…既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」喜ばしい告知であったが、現実は想像を絶する過酷なものとなっていく。

確かに主は願いをきかれ、子を与えられた。しかし、その子はナジル人として主に献げられ、バプテスマのヨハネとして福音宣教のために用いられること、さらには、イエス・キリストの露払いとして歩み、殉教者となることが定められていたのである。ここに、「信仰によって願いがきかれる」の真意が示される。それはいわゆる御利益、個人の利益としての願いではない。なぜ主は、アブラハムの子イサクを助けられたのに、バプテスマのヨハネをヘロデ王の愚行に任せ、さらに御子の命を十字架に磔られたのか。言えることは、それだけ人の罪が重いということ。私達は自らの罪の責任を一切問われることなく、ただ信じること、それのみによって永遠の命が与えられるのである。私達が、あきらめており、しかし、心のどこかで願っている永遠の命、その願いを主はご存知であり、「願いは聞き入れられた」と告げて下さった。それが御子の降誕である。そのために、エリヤ、バプテスマのヨハネ、数え切れない預言者、先達の命、御子の命が献げられたのだ。アドベント、私達は、この良き知らせを宣べ伝えるために、自らを献げて参りましょう。  ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 12月 1st, 2019

ヘブライ人への手紙9:15-22

「キリストは新しい契約の仲介者なのです。」これに対して、古い契約とは、モーセの十戒に代表される律法による救済のことである。かつてイスラエルの民は、飢饉を逃れるためとはいえ、「約束の土地(カナン地方)」を離れてしまった。さらに飢饉が終わってもエジプトに居続けたが為に、エジプトにおいて奴隷となってしまい、唯一の神への信仰を忘れてしまうという大罪を犯してしまった。しかし、神は、「過ぎ越しの奇跡」(羊を生贄とし、鴨居と入口の二本の柱に羊の血を塗って災いを逃れる)をもってこれを救い出された。

このように罪が赦されるためには、贖いの契約が必要であり、かつて「古い契約」は動物の命であった。しかし、それでは贖い切れない人の罪が世に満ちた。神は、その全ての罪を贖うために、自らの命を犠牲として献げることを決断された。これが「新しい契約」である。そして、「仲介者」とは、三位一体、神の御子イエス・キリストが十字架において命を捨てる代わりに、私たちの罪が赦されるように、神と人とを仲介するとの意である。この救済の教えを、別の箇所では、「神はこの方(イエス・キリスト)に対してこう言われました。「主はこう誓われ、その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』 このようにして、イエスはいっそう《優れた契約の保証》となられたのです」(ヘブライ7:21-22)。

優れた契約の保証。イエスはメシア、救い主というと現実離れした感があるが、優れた方である。優れた人とはどんな人か。優勝、優秀、実力があって、さらに優しいとくれば確かにすごい。ところで優とは不思議な字。こんなにすごい字なのに、字のほとんどが「憂い」で成り立っている。憂いとは、思い悩み、不安、いったいどうしたらいいのかという状態。人は誰でもこういう状態になる時が来る。不安や辛い思いをしない人など一人もいない。でもそういう辛い時、苦しい時でも、誰か一人、本気で自分に寄り添ってくれる人(イ・にんべん)がいてくれればなんとかなる。それができるのが本当の優しさであり、優れた人。人は、時と場合によってはいとも簡単に不安や恐れに押し潰されて自分を失ってしまったり、あるいは人を傷つけたりする。それは孤独だからだ。どんな時でも励ましてくれる、注意してくれる、本当の優しさで寄り添ってくれる人がいないからだ。

キリストは、私たちの優れた方であり、契約の保証である。保証とは保証人のことであり、万が一、私たちがダメになってしまっても、身代わりになって救いを与えてくれるということ。

たとえ私たちが死んでも永遠の命を与えてくれる。それが救い主の意味である。私たちも誰か一人でいいので、その人にとって優しい人になれますように。ハレルヤ! 中島聡主任牧師

nakajima on 11月 24th, 2019

エレミヤ38:1-6    預言者エレミヤの時代(紀元前600年中頃)、既に北イスラエル王国は滅び、南ユダ王国もバビロン帝国の支配下に置かれていた。そのような中、エレミヤは諦めることなく、預言活動を継続していた。「人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の前から立ち帰る」ことを願って、書記官バルクを通して巻物にまとめ、ヨヤキム王に献上したが、王はそれをナイフで切り裂いて、炉に投げ入れ全て燃やしてしまった。それでもエレミヤはめげずに再び預言の巻物を仕上げた。ここに、まず最も諦めていないのは主御自身であり、エレミヤの預言を具現化しているバラクの信仰深さがあることを忘れてはならない。

ヨヤキム王に代わってゼデキヤが王となり、彼は、エレミヤに国難救済の執り為しの祈りを求めた。しかし、エレミヤが「ユダ王国はバビロンによって必ず滅ぼされる」と真実を預言すると、エレミヤは逮捕され、むち打たれ、監禁されてしまったのであった。王は秘かにエレミヤに神意を尋ねたが、「バビロンによる滅亡」というエレミヤの答えが変わることはなかった。エレミヤは釈放を願い出たが、監視の庭に留め置かれ、一日パン一つという軟禁が続いた。それでも、エレミヤはなお、監視の庭において預言活動を続けた。すると、王の使者や神殿警備隊の者達は、エレミヤが自国の兵士、民衆の士気を挫くので死刑に処するように王に進言した。

王は、「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないからだ」と言ってエレミヤの生死与奪権を与えてしまった。役人たちは、監視の庭に行ってエレミヤを捕らえ、縄で縛り、水溜めに吊り降ろした。水溜めには水が無く、泥が溜まっており、エレミヤは泥の中に沈んだ。その処刑を目撃していた宮廷役人の一人、クシュ人のエベド・メレク(王の僕)がエレミヤの救出をゼデキヤ王に嘆願した。すると王は、「三十人を連れて、エレミヤが死なないうちに水溜めから引き上げるがよい」と命じたのであった。一命を取りとめたエレミヤは監視の庭に留め置かれることになった。

エレミヤの目的はイスラエルの士気を挫くことでも、無論、当時、列強であった国々の太鼓持ちでもない。エレミヤは諸外国(エジプト、モアブ、アンモン、バビロン)の末路も預言している。やがてエレミヤの預言どおり、ユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、エルサレムは陥落し、捕囚の民となってしまった。預言者、すなわち主はひたすらに忍耐して、一人も滅びることなく永遠の命を得ることを願っておられる。私たちも主の僕としてひたすらに福音を伝えて参りましょう。ハレルヤ! 中島聡主任牧師