ルカによる福音書7:1-10

イエス・キリストの福音の大切な柱の一つに病の癒やしがある。イエス様はガリラヤ湖北西部の町カファルナウムに入られた。するとイエス様の噂を耳にしていたローマ軍の百人隊長が部下の癒しを願って、“ユダヤの長老たち”を使いにやって、「部下を助けてくださるように」と頼んだ。カファルナウムにもローマ軍の駐屯地があり、当時、支配者側であったローマの軍隊長の命令を長老たちは断ることはできなかったわけであるが、ルカ6:11「彼ら(律法学者、ファリサイ派の人々=長老)は怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」とあるから、どれほど、“煮え湯”を飲まされた心境であったか。しかし、その百人隊長が「ユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれた」人物でもあったので、彼らは「熱心に願った」とある。是々非々ではなく、ご都合主義である。彼らが怒り狂ったのは、イエス様の救いはすべての人のためにあるので、①選民か否かに左右されない。②律法に左右されない。その中でも最上級の十戒、安息日すら凌駕する(同6:5)、と説かれていたからだ。しかしながら、軍隊長が会堂を建ててくれたので、今、怒りの矛先を収めてイエス様に癒しを熱心に願っているのである。

癒しの奇跡、救いは、自分に利があるから為すのではない。イエス様は、ご自分の命を狙う長老たちの願いであったが、その部下のところに向かわれた。ところで、イエス様が近づいて来られると、その軍隊長は、今度は自分の友人を使いにやって「御足労に及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。(癒すと)一言おっしゃってください」と最上の敬意を表したのであった。イエス様は「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と絶賛された。この時点で、信仰において弟子たちを含めイスラエル人よりもこの隊長が最も信仰深い人であったのだ。信仰とは、主による救いを信じること、頼り切ること、その神性を誉め讃えることである。

立派な百人隊長であるが、そもそもイエス様は「万軍の主」である。そのイエス様が百人の軍隊長の願いを聞かれ、その前に敵の利己的な願いにさえ従われた。福音とはどこまで遜り、僕となり、仕える者となることができるかに懸かっていることを示される。主は「すべての人の僕」になって、「自分の命を献げるために来た」(マルコ10:44-45)。万軍の主にハレルヤ!中島聡主任牧師

nakajima on 6月 28th, 2020

マルコによる福音書4:35-41

イエス様は、福音、救いを宣べ伝えるにあたって、「すべての人が救われる」と説き明かし、悪霊を追い出し、病を癒やされた。そして、マルコ4章においては、

そこに『大きな祝福』があることを明らかにされた。

  • 『種蒔きの譬え』~神の言葉を信じ、受け入れ、試練に耐える者には、「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」祝福がある。
  • 『ともし火と秤の譬え』~神の言葉を隠さずに輝かせる者、秤に存分に神の言葉を入れる者には、祝福が「更に与えられる」。
  • 『成長する種の譬え』~神の言葉を信じて種を蒔けば「豊かな実」=祝福を収穫することができる。
  • 『からし種の譬え』~どんなに小さな種であっても、神の言葉を信じて蒔くならば、空の鳥が巣を作れるほどの大きな枝=大きな祝福となる。

イエス様は、いつも人々が福音を理解できるように、たとえを用いて分かり易く話された。さらに、弟子たちにはもっと理解を得ることができるように、「すべてを説明された」のであった。

そして、さらに“自然”を制御する力を示されたのであった。この段階では、マルコ福音書によれば、弟子たち全員はイエス様の奇跡を目の当たりにしていないが、少なくとも、筆頭格のシモン・ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、イエス様が多くの悪霊を追い出し、多くの病を癒やす奇跡を見ている。レビ(マタイ)も癒やしの奇跡を見ている。そして他の7人もイエス様の奇跡を伝え聞いたので、イエス様のもとに集まってきて、悪霊が「あなたは神の子だ」と叫ぶのを聞いたのであった。しかし、湖に突風が吹き荒れ、舟が沈みそうになると、「先生、わたしたちが溺れてもかまわないのですか」と、救い主が共におられる信仰を失い、恐怖を露わにしたのであった。イエス様はすでに命懸けで福音宣教に向かっておられる。弟子失格のところだが、主は、恐れおののく弟子たちを叱るのではなく、自然を叱って従わせ、弟子たちの信仰の灯火が消えないようにされたのであった。それは遙か古の預言(「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく」イザヤ書42:3)の成就でもあった。どんなことがあっても私たちを救い、力と祝福を与えてくださる主にハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 6月 21st, 2020

ルカによる福音書5:17-26

「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。」

大したことであるが、これは純粋に教えを乞うためではなく、“偵察”である。イエス様が悪霊に取り憑かれた男を癒やされると、その噂は、「たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」(マルコ1:28)とあり、関心の高さが窺える。その前に、イエス様が「イスラエル以外の人も救われる」と説くと、「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになってイエスを町の外に追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」(ルカ4:28,29。マルコ福音書では3:6に、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」)とあるので、イエス様は宣教開始早々、大変な状態にあったことがよく分かる。

すでに命を狙われている状況において、イエス様は一歩も引くことなく、「主の力」、聖霊の力によって、ひたすらに「病気を癒やしておられた」のであった。そこに中風を患っている人を癒やしてもらおうと四人の男が床ごとその人を運んできたが、群衆に阻まれて近づけないので、屋根を剥いでイエス様の前に吊り降ろした。

イエス様はこの人たちの行為の奥底にある心を見て、それを「信仰」と見てとられ、「人よ(マルコ福音書では『子よ』)、あなたの罪は赦された」と言われた。これに対して、律法学者や長老たちは「神を冒涜している。罪を赦す権威は神にしかない。イエスとは何者だ。」と憤慨を深めたが、この後、癒しの奇跡を目の当たりにして何もすることができなかった。

当時、病は罪の結果であり、“救いの対象外”に置かれていた。これは為政者にとって、共同体にとって都合の良い考え方であった。病に苦しんでいる人を“助けなくても良い、責められない”し、それが絶対的に“正しい信仰”ですらあったからだ。しかし、イエス様は四人の友の心根こそ信仰と言われ、その人を信仰共同体の一員として、否、「我が子よ」と呼びかけ、精一杯の愛を注がれたのである。この御方が永遠の命までも与えると言われるのだから、ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

nakajima on 6月 14th, 2020

ルカによる福音書4:31-37

自らもバプテスマ(洗礼)を受けて「新生」を経験されたイエス様は、聖霊に満たされた。そしてまた霊によって荒野に導かれ、サタンの誘惑を受けられた。ここに新生から「聖化」、信仰の成長過程が示される。信仰とはキリストの十字架と復活、罪の贖いと永遠の命を信じて救われる、すなわち洗礼を受けることをスタートとして、新生の状態から聖化へと進んでいくのであるが、では「聖化」とは一体何か?

その答えは、イエス様が辿られた、新生から聖化への過程を見れば分かる。イエス様は洗礼を受けて聖霊に満たされた後、サタンの誘惑に打ち勝つという試練を経験された。サタンの誘惑~①「石をパンに変えてみろ」、②「わたし(サタン)を拝めば、国の一切の権力と繁栄を与える」、③「神殿の屋根から飛び降りてみろ。天使が助けてくれるから」~とは、一言で言えば、「聖霊によって与えられた力を利己的な自己実現のために用いろ」に尽きる。聖化という重要教理(例えば、メソジスト教会創始者J.ウェスレー『キリスト者の完全』)の説明は簡単ではないが、面白いことにサタンが最も分かりやすい反面教師となっている。すなわち、サタンの誘惑の逆、「聖霊によって与えられた力を隣人の救いのために用いて生きる」、これこそが聖化である。

イエス様は、悪魔の誘惑に打ち勝ち、聖化を遂げられ、何をされたか、どのように生きられたか。今朝の4章を見れば、「イエスは“霊”の力に満ちて」、①諸会堂で教え、②旧約の時代においてさえ異邦人が救いに与っていた事実を説き明かされ、③汚れた霊に取りつかれた男を癒し、④多くの病人を癒し、⑤町を巡回して諸会堂で福音を告げられたのであった。

イエス様は聖霊によって権威と力を得ておられたが、その権威と力を己のためではなく、人々の救いのための聖書の説き明かしと、癒しのために用いられた。

キリスト者は、バプテスマと同時に新生し、主の祝福も、聖霊による恵みも与えられている。聖化へと進み行くには、与えられた恵みと賜物を福音宣教のために献げ、用いていくことである。私たちは弱く、躓きやすいものであるが、キリストの権威によって聖なる者とならせていただけるのである。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

ヨハネによる福音書3:1-15

「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」(3節)、「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。』」(5節)、「『あなたがたは新たに生まれなければならない』と言ったことに驚いてはならない。」(7節)。イエス様は、神の国、救いに至るためには、「新たに生まれなければならない」と言われた。

世界宣教を目指したChristian and Missionary Alliance創立者のA. B. Simpson(1843-1919)は、福音を分かりやすく宣べ伝えるために、このイエス様の言葉をスタートにして、“The Fourfold Gospel~Jesus as Savior(救い主),Sanctifier(聖め主),Healer(癒し主),Coming King(来るべき王)”という教理を提唱した。これに学んだ中田重治が、ホーリネス教会の教理として「四重の福音~新生、聖化、神癒、再臨」を掲げたわけであるが、福音の第一歩は、救い主イエス・キリストを信じて、洗礼を受けること。すなわち「水と霊とによって新たに生まれる」ことである。

ユダヤの議員でありながら、求道者であったニコデモは、新たに生まれることを「もう一度母の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と、新生の意味を取り違えて質問したが、これは、先主日の学びのとおり、人はそもそも神の息、聖霊によって生きるものとなったという神の祝福を信じること、まさにGod bless you!であり、神の創造の御業に回帰することを意味している。神を自分の創造主として信じる、さらにアダムとエバの背信によって背負うことになった原罪と死を、神の御子イエス・キリストの十字架の犠牲によって贖い取っていただく、赦していただくことを意味している。洗礼は水の注ぎによって行われるが、そこに神の霊、イエス・キリストによる贖いがあることを忘れてはならない。

そして、その贖いが、「一人だにも滅ぶるは御旨ならじ助けよ」(讃美歌493番)と歌われた愛によるものであることを覚えたい。

迷い出た一匹の子羊をどこまでも探し求める主イエス様。たった一人でも救いから漏れさせはしない主の愛。「新生」は何も難しいことはない。ただ幼な子のごとく信じれば、天の国に入ることができるのである。新生の恵みと祝福にハレルヤ! 中島 聡主任牧師

使徒言行録2:1-11

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、…一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

聖霊降臨、福音が全世界に告げ知らされる、その礎となる教会の誕生という御恵、恩寵、祝福!これは二千年前のただ一度限りの奇跡ではない。そもそも人は、創造主なる「神の息(聖霊)」によって生きるものとなった。聖霊は一番最初から注がれていたのである。その恵みは、おそらく「エデンの園」で神を信じて生きていたら永遠に続くものであった。しかし、人(アダムとエバ)は蛇(サタン)の誘惑に負け、罪を犯してしまったので、原罪・死を背負うものとなり、エデンの園(神が共におられるところ・天国)に至る道は「ケルビムときらめく剣の炎」によって閉ざされてしまったのであった。

しかし、愛なる神は、御子イエス・キリスト(=神御自身)の苦難の道(Via dolorosa)、十字架の死という犠牲によって、復活(=永遠の命の約束)が明らかにされ、キリストの昇天によってケルビムと剣の炎は取りはらわれ、天国への道(Via caelum/ Vir paradisus)が再び開かれたのである。

教会は天国の鍵を授与されており、永遠の命への門である。しかして、その恩寵と祝福がイエス・キリストの苦難と犠牲の上にあることを忘れてはならない。さらに、神は天地創造の初めに「光あれ!」と宣言されたが、この光とは「人間を照らす光」(ヨハネ1:1-5)、すなわちイエス・キリストを指し示しており、神は私たちのために犠牲となる「キリストが共にある!」と宣言して天地を創造されたほどの、驚くべき愛、驚くべき恵みが注がれていることを忘れてはならない。

自粛の間、顔と顔を合わせて、膝をつき合わせて祈ることはできなかった。しかし、動画配信によって、沢山の手紙、ハガキ、電話によって励まし合うことができた。キリストは共におられた。聖霊によって歩み続けよう!ハレルヤ!中島聡主任牧師

nakajima on 5月 24th, 2020

コリントの信徒への手紙Ⅱ 12:7-10

使徒パウロによる書簡には、その地にある教会を主の教会として強く立てあげ、信仰者として生きていくための教えが記されている。今朝は、その一つとして、「弱さを誇る」信仰が示されている。

パウロにとっての弱さとは、棘が刺さっているような苦痛、病気(眼病、偏頭痛、てんかん)であった。パウロは棘が取り除かれることを三度も主に祈ったが叶えられなかった。しかし、祈りに祈った結果、病が無くなるようにではなく、「もし病気が無かったら、きっと私は思い上がっていたであろう」と、病にありながらも福音宣教に仕えていくことを決意するに至ったのであった(*5/17「ハンナの祈り」の昇華~我が子をナジル人として献げます)。

誰もが健康で平穏な生活を求めるが、たとえそうでなくとも、主は「わたしの恵みはあなたに十分である」と示された信仰を覚えたい。コロナ禍は大きく鋭い棘である。無いに越したことはない。しかし

当分、共生の他はないだろう。この棘のせいで自粛、休止が続く中、信仰の恵みが感じられない、聖書の言葉に力は無い、と思うやもしれない。

スペイン風邪に罹って肺炎を患った影響もあったろう結核により29歳で召された八木重吉が「聖書を読んでも、幾ら読んでも感激が湧かなくなったら、聖書を生きてみなさい、ほんのちょっとでもいいから」と言った(『聖書を読んだ30人』鈴木範久著)。

主イエスは福音を伝え、最後は茨の棘を身に受けることによって救いを成就された。信仰は礼拝、祈祷会から、いかに生きるかによって実を結ぶ。あなたの祈りによってどれだけの祝福が世にもたらされ、実を結ぶことか忘れないで欲しい。パウロがたとえ「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態にあってもキリストにあって満足し」、教会、信仰を守っていくことができる、なぜなら、「わたしは弱い時にこそ強いからです」と信仰を明らかにした様に今こそ、私たちは祈り、信仰・希望・愛をもって歩んで参りましょう。ハレルヤ!中島聡主任牧師

ルカ17:11-19

10人の重い皮膚病を患っている人たちが、歩いているイエス様に向かって「憐れんでください」と声を張り上げました。それまで社会の周縁に追いやられ、差別され続けた者たちにとって、この叫びは心の底からくるものでした。イエス様は彼らに、「祭司のところに行って体を見せなさい」としか言われませんでした。しかし、彼らはその言葉を素直に信じて祭司のところへ行ったのです。道中、彼らは自分の体が癒されたことを知ります。そして、10人のうちの1人だけがイエス様のもとへ、大声で神様を賛美しながら感謝を捧げに戻ってきました。この大声で神様を賛美する姿から、いかに彼が大変な苦難の中に置かれていたかがわかります。彼はサマリア人で、ユダヤ人から差別を受けていました。そのうえ、重い皮膚病をも患っていたのです。そんな、彼がイエス様への信仰によって癒されたのです。

私たちは今の状況に置かれたことで、「当たり前」だと思う生活が「当たり前ではなかった」ことに気づかされていると思います。悲しいことや、つらいことだけを切り取って神様を責めてしまう私たちですが、そのつらさや悲しみは、今まで神様からたくさんの良いものを与えてもらったからこそくるものです。サマリア人もつらい現実があり、そこからなんとかイエス様に助けを求めたのです。彼は自ら行動し、「憐れんでください」と声を張り上げました。そして、彼は、イエス様によって救われ、その苦しみから解放され、癒され、大声で神様を賛美し、イエス様に感謝しました。

現代の私たちにとって、まさに礼拝が神様に感謝し、喜びを返す時です。賛美するとは喜びを叫ぶことです。まさに「ハレルヤ!」です。2人、3人祈る場所に私もいるというイエス様のお言葉を思い起こすとき、教会の大切さがわかります。教会の友と共に祈り、賛美し、神様のみ言葉を聞くときこそ、本当に心から神様へ喜びを叫ぶときなのです。 田中尚美伝道師

 

nakajima on 5月 10th, 2020

サムエル記上1:12-20

イエス・キリストが教えられた祈りに学んできた。①偽善者のように祈ってはならない。祈りは他者に聞かせるため(聞いた人が、「この人はすごい祈りをするな」と感心されるため、つまりは自分のため)のものではない。ルカ11章で、「ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」とある通り、祈祷が宗教者として“箔が付く”ような捉え方があったのだろう。②「主の祈り」を祈りなさい。神の愛と祝福を信じ、皆にその愛と祝福が広がっていくように祈りなさい。

今朝はハンナの祈りに学ぶ。時はイスラエルが、族長時代(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ)、部族連合時代(士師)から、王国時代に移行するころ。族長時代、祈りは個人、家族、親戚、身内のためであった。それが十二部族、イスラエルという民族の祈りとなっていった。

さて、一夫多妻制の時代。夫エルカナの妻ペニナには「息子たち」、「娘たち」が与えられたが、ハンナにはいなかった。ただでさえ悲しいのに、毎年、神殿に行く時、エルカナはペニナには家族人数分の食い扶持を与えたが、ハンナには一人だからと一人分しか与えなかった。エルカナは、ハンナに「わたしが息子10人に値するだろう」と言ったが、「それならハンナに10人分与えろ」と誰もが突っ込みたくなる。さらに子がいないことをペニナに責められたハンナは「泣いて、何も食べようとしなかった」。絶望であったろう。しかし、彼女は祈ったのである。

「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」とある。「万軍の主よ、僕の苦しみを御覧ください!私を忘れないでください!男の子を授けて下さい!」(英訳聖書では“!”が連続して付いている)。家父長制の時代にあって最もなる祈り。しかし、ハンナは続けてこう祈った。「その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」生涯を主に仕えるナジル人として献児するというのである。

普通なら、「私にも子を与えてください、ペニナを見返してやりたいのです」であろう。もしかしたらハンナも最初はそんなふうに祈っていたのかも知れない。しかし、年々、苦しみながらも祈りを重ねる内に、彼女の祈りは、「私に子を与えたまえ」でも、「私の思いを晴らすため」でもなく、主に栄光を帰する祈りへと変えられていったのである。主はハンナの祈りを聞き遂げられ、与えられた子はサムエルとなり、サウル、ダビデに油を注ぐ者、イスラエル王国の礎を築く神の僕となるのであった。困難にあっても主に栄光を帰する祈りは必ず祝福されるのである。ハレルヤ!

nakajima on 5月 3rd, 2020

マタイによる福音書6:9-15

「山上の説教」において、イエス・キリスト直伝の祈りが授けられた。以来、二千年間祈り続けられてきた「主の祈り」は、今日も全世界の教会で、ミッションスクールで、家庭礼拝で捧げられている。言うまでもなく祈りは、信仰を守り支える土台の一つである。では信仰とは何か。信仰とは「主は私達を祝福してくださる」と信じることに尽きる。

山上の説教は、その祝福の第一歩を教える。主は「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から」やってきた「大勢の群衆」に向かって語られている。大勢の群衆とは、「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人」と、病に苦しむそれらの人を連れてきた人々、おそらくその家族、友人たちである。当時の誤った宗教観からすれば「罪人」に括られた人たちである。イエス様が、第一声「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」(ルカ6:20-21では、ずばり「貧しい人々」、「今、飢えている人々」)と呼び掛けられたように、この数え切れない群衆がどれほど苦しく惨めな生き方を強いられていたか想像に難くない。

イエス様は間髪を入れず、一切の条件を付けず、「あなたがたは幸いだ」、「神の国はあなたがたのものだ」と言われた。この八福の教えを欽定訳で読むとひたすら冒頭に“Blessed”が繰り返されている通り、イエス様の願いは、私たちを祝福し、私たちが幸せになることであり、主の祈りの主眼もそこにある。遙か古に、神直々にイスラエルに十戒が授けられた。彼等は奴隷から荒野を彷徨う他ない、この地上で最も貧弱な民であったが、ただ主の愛によって助けられ(申命記7:6-9)、「宝の民」とされた。神の愛、神の祝福は不変であり、主の祈りによって普遍となったと示される。

「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。」天地万物の創造主が、私たちを我が子として、親が赤子を愛でるように、私たちを愛してくださっている。自らの全てを失ってでも愛し抜くと言われる。「神の愛(アガペ)」である。続く「御名」、「御国」、「御心」は全て同義であり、この「神の愛」を現している。御名が崇められ、神の愛が来たりて、神の祝福が行われるようにと祈る、これが信仰、礼拝の第一義である。

神の愛と祝福を信じて、私達に必要な今日の糧、私達の負い目(負債)を赦し、私達も他者の負い目を赦し、悪の誘惑、悪からの救い、他者の過ちを赦し、自分の過ちの赦しを祈る。主の愛と祝福を信じて、「私たちの幸せの実現」、すなわち、福音宣教へと向かっていくことができる、これが「主の祈りの恵み」なのである。ハレルヤ!