nakajima on 1月 23rd, 2022

みことばの糧 1079『もうだめ、でも救われる恵みあり』

ルカによる福音書18:9-14

ファリサイ派の人と徴税人の祈りの対比による譬えです。この物語は、ファリサイ派の人々が、「神の国はいつ来るのか」とイエス様に尋ねたことに始まっています(ルカ17:20)。

旧約聖書に「神の国」という直接の言葉は無いのですが、「イスラエルの神が王として、この地に神の支配による王国を樹立する」という信仰は語り継がれてきました。

古くはイスラエルの民が出エジプトを果たした後の賛美にも「あなたは彼らを導き、嗣業の山に植えられる。主よ、それはあなたの住まいとして自ら造られた所、主よ、御手によって建てられた聖所です。主は代々限りなく統べ治められる(「エホバは代々限りなく王たるべし」文語訳)。」(出エジプト記15:17-18)

そして、エゼキエル書37:15以下、「枯れた骨の復活」の預言は、このように締めくくられています。

「彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。37:26 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。

37:27 わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。37:28 わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」

このように神の国、イスラエルの神による圧倒的な支配が預言されていましたので、イエス様の時代、イスラエルがローマ帝国に支配されている状況下にあって、ファリサイ派の人々の関心が「いつ我々の神の国が到来するのか」、そして、「当然、その神の国の住民はイスラエル人である我々だ」というところにあったのは自然なことでした。

さらに、ルカ17:37を読むと、この質問にはイエス様の弟子たちも一緒になっており、ファリサイ派の人々だけではなく、イスラエル人みんなの関心事であったことが分かります。そこで、イエス様は「神の国」とは、人が思い描く有形の国家ではないこと、それはある日突然にやって来ること、その日には神に選ばれた者だけが天に挙げられること、選ばれない者は地上に残されることを教えられた。余りにショッキングな内容に、「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らねばならないことを教えるために」、不遜な裁判官と寡婦の譬えに続いて、ファリサイ派の人と徴税人の譬えを語られたんですね。

神の国の到来に対して、どのように備えれば良いのかということです。結論は、憐れみ深く生きるということです。

譬えの内容を見て参りましょう。ファリサイ派の人は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」であり、「自分が正しい者だ、罪人ではない」ことに感謝の祈りを捧げたとあります。そして、その祈りは、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と、自分の善行、自分がどれだけやったかということで締めくくられているんですね。さらに注目すべきは、この祈りが、わざわざ「心の中でこのように祈った」と書いてある点です。

ファリサイ派の人は、これらのことを表立っては言っていないんです。周りからは、さぞ敬虔な祈りを捧げていると思われているでしょう。しかし、主は全てをご存知なんですね。

だからいくら表面上だけ取り繕っていても、心からの隣人愛が無ければ、神の国到来の際、地上に残されることになるんです。

厳しいと言えば厳しい、いつもいつも、心から隣人愛に生きることができる人がどれだけいるでしょうか。たまには、誰だった、心の中で、「私もこれだけのことやっているよ」と言ってしまうでしょう。

だから、イエス様は気落ちせず、もう一つの祈りをあげて、「義人は一人もいないが、こういう祈りで義とされる」と教えられたのです。

もう一方の徴税人を見て参りましょう。彼はこの世的には罪人とされており、本人もまたそのように自覚していました。なので、彼は目を天にあげようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったとあります。祈りのスタイルとしては、なんだあの祈りはと言われるようなものであったのかもしれません。

しかし、イエス様は「義とされたのは徴税人である」とし、「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と、救いに至る祈りは徴税人の祈りだと諭されたのです。

「神の国」の到来、終末、キリストの再臨は、人の力ではどうにもならない神の領域であって、そこにおいて救われるか否かは、人の正しさではないのですね。もちろん、善い業、善い奉仕に仕えることは大切なことですが、それが自分を誇るためであってはならない、まして、そのことによって高ぶって、人を見下すようなことがあってはならない。また、もしできなかったとしても、人、様々な境遇によって「私なんかもう駄目だ」と思っていても、主の御前に遜り、主の憐れによる赦しを祈り願うならば「義とされる」、救われるのです。

テトスへの手紙3:5 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。3:7  こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

ヘブライ人への手紙4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

これは決して都合の良いお話しではありません。そのためにイエス様は十字架に架かってくださったのですから。主の憐れみによって私たちは「神の国」に招かれているのです。

第1ペトロの手紙1:3  わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、1:4  また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。1:5  あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。1:6  それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、1:7  あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。1:8  あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。1:9  それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。 ハレルヤ! 中島聡主任牧師

 

ルカによる福音書18:9-14

ファリサイ派の人と徴税人の祈りの対比による譬えです。この物語は、ファリサイ派の人々が、「神の国はいつ来るのか」とイエス様に尋ねたことに始まっています(ルカ17:20)。

旧約聖書に「神の国」という直接の言葉は無いのですが、「イスラエルの神が王として、この地に神の支配による王国を樹立する」という信仰は語り継がれてきました。

古くはイスラエルの民が出エジプトを果たした後の賛美にも「あなたは彼らを導き、嗣業の山に植えられる。主よ、それはあなたの住まいとして自ら造られた所、主よ、御手によって建てられた聖所です。主は代々限りなく統べ治められる(「エホバは代々限りなく王たるべし」文語訳)。」(出エジプト記15:17-18)

イエス様の時代、イスラエルがローマ帝国に支配されている状況下にあって、ファリサイ派の人々の関心が「いつ我々の神の国が到来するのか」、そして、「当然、その神の国の住民はイスラエル人である我々だ」というところにあったのは自然なこと。さらに、ルカ17:37を読むと、この質問にはイエス様の弟子たちも一緒になっており、ファリサイ派の人々だけではなく、イスラエル人みんなの関心事であったことが分かります。

そこで、イエス様は「神の国」とは、人が思い描く有形の国家ではないこと、それはある日突然にやって来ること、その日には神に選ばれた者だけが天に挙げられること、選ばれない者は地上に残されることを教えられました。

余りにショッキングな内容に、「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らねばならないことを教えるために」、不遜な裁判官と寡婦の譬えに続いて、ファリサイ派の人と徴税人の譬えを語られたんですね。

神の国の到来に対して、どのように備えれば良いのかということです。結論は、憐れみ深く生きるということです。

譬えの内容に見て参りましょう。ファリサイ派の人は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」であり、自分が正しい者であり、罪人ではないことに感謝の祈りを捧げたとあります。

そして、その祈りは、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と、自分の善行、自分がどれだけやったかで締めくくられているんですね。

さらに注目すべきは、確かに傲慢なと思われますが、わざわざ「心の中でこのように祈った」と書いてあるんです。誰にもこんなこと表立っては言っていないんです。さぞ敬虔な祈りを捧げていると思われているでしょう。しかし、主は全てをご存知なんですね。だから、表明上だけ取り繕っていても神の国到来の際、地上に残されることになるんです。

一方、徴税人はと言いますと、彼はこの世的には罪人とされており、本人もまたそのように自覚していました。なので、彼は目を天にあげようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったとあります。祈りのスタイルとしては、なんだあの祈りはと言われるようなものだったのでしょう。

しかし、イエス様は「義とされたのは徴税人である」とし、「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と、救いに至る祈りは徴税人の祈りだと諭されたのです。

「神の国」の到来、終末、キリストの再臨は、人の力ではどうにもならない神の領域であって、そこにおいて救われるか否かは、人の正しさではないのですね。ですから、「私なんかもう駄目だ」と思っていても、主の御前に遜り、主の憐れによる罪の赦しを祈り願うならば「義とされる」、救われるのです。

テトスへの手紙3:5 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。:7  こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

ヘブライ人への手紙4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

これは決して都合の良いお話しではありません。そのためにイエス様は十字架に架かってくださったのですから。主の憐れみによって私たちは「神の国」に招かれているのです。ハレルヤ! 中島聡主任牧師

ルカによる福音書15:11-24

私たちの帰る場所はどこでしょうか。それは愛の溢れる場所、私たちの悲しみや痛みを共に担ってくれる場所、重荷を下ろす場所、つまりそこは神様の御旨の中です。「放蕩息子」のたとえには、二人の息子たちが登場します。下の息子(以下弟)は父の家から解放されたく、生前贈与を求めます。父は弟の申し出を受け入れ、彼の分け前を与え、上の息子(以下兄)にも分け与えました。早速弟は、その遺産(きっと家族にとって思い出深い物もあったことでしょう)を現金化します。つまり父とは完全に縁を切り、現金しか通用しないような場所へと出て行ったのです。これは神様から与えられた多くの恵みを無駄にしていることを表してもいます。そして、欲望を制御するものがないところで、彼は放蕩な生活を始めます。しかし欲望の先にあるのは滅びです。結果、彼はどん底を経験します。しかし、そのどん底の闇の中で彼は、父の家を思い起し、我に返りました。つまり、父である神様を思い起す時、人は始めて我に返る、本心に立ち帰るのです。彼は父の家に戻りました。父は彼を大歓迎します。

一方、そんな様子を見た兄は怒り、父の家に入りませんでした。つまり、彼もまた父と共にいながら、父の愛を受け入れていなかったのです。彼はすでにたくさんの財産を弟と同様に与えられていました。しかし、その恵みにも感謝せず、嫌々父と共にいたのです。父は彼に諭します。「わたしの愛する子よ、お前はいつも私と共にいた。それだけで十分じゃないか。」

父である神様は何よりも私たちと共におられることをお喜びになられます。更に、神様は神様によって呼び集められたもの同士が仕え合い励まし合う姿を喜ばれます。結果として、その喜びは私たちのものにもなっていきます。神様にまず愛された私たち、まず共にいて下さっている神様を信じる時、私たちは他者の存在を喜び、感謝することができるのではないでしょうか。そして私たちが神の似姿である人として帰る場所は神様の家だけなのです。 伝道師 田中尚美

ルカによる福音書10:25-37

良きサマリヤ人の譬えです。イエス様のメッセージには、このように非常に耳が痛いもの、ぐうの音も出ないものが結構あります。

「腹を立ててはなりません(兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に馬鹿と言えば最高法院に引き渡され、愚か者と言う者は火の地獄に投げ込まれます)」(マタイ5:22)

「敵を愛しなさい(右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい)」(同5:44)、

「人を裁いてはなりません(人様の目の、おが屑を気にしている暇があったら、まず自分の目の丸太に気づきなさい)」(同7:3)。

どれもこれも痛烈ですね。中でもこの「善きサマリヤ人」の譬えは最たるものでしょう。

さて、強盗に襲われ、今にも死にそうになっている傷ついた人を見て、祭司はわざわざ道の反対側が通って、素通りしてしまう。

同じく神殿に仕えるレビ人も、道の向こう側を通って、見知らぬふりをして行ってしまうわけです。

そして、3人目、当時、イスラエル人、ユダヤ人から蔑視されていた、サマリヤ人がその傷ついた人を見て憐れに思い、近寄って、傷に油と葡萄酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した、とあるんです。

宿屋の人もびっくりしたんじゃないでしょうか。サマリヤ人がユダヤ人を助けている、介抱している。

そして、聖書には「翌日になると」とありますから、夜通し介抱してあげたんじゃないでしょうか。

なんと、自分はどうしても仕事に行かねばならないので、デナリオン銀貨2枚を取り出して、宿屋の主人に渡し、どうか、この人を介抱してあげてください、それだけ傷が重かった、重症だったのでしょう、

本当に、この人が助けなかったら、死んでいた命だったのでしょう。

そして、費用がもっとかかったら、帰りがけにその分も私が支払いますから、この人を助けてあげてください、と言ったのです。なんという愛でしょうか。

祭司、レビ人は今日的には教会関係者ですから、ほんとに耳が痛い、ぐうの音も出ない譬えですが、結果として、結論として、アガペの愛、主による愛に満ちた救いが見事に説き明かされているんですね。

しかして、なぜ、この譬えが語られたのかということなんですが、それは、律法学者がイエス様を試そうとして(つまりは、イエス様を困らせよう、窮地に立たせようとして)質問したことによって始まる。

ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」

イエス様は、「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるか?」と問い直された。この問いに対して問いで返す。自分がされたらあまり心地の良いものではないと思いますが、

無理ないです。イエス様、心中は、「何が永遠の命だ、私を試そうとしてからに」と言いたいところだと思います。

しかし、「腹を立ててはなりません」、ですからね、冷静に、問い直されたのです。

すると律法学者はモーセの律法を引用してきて、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(申命記6:5、レビ記19:18)と完璧に答えて見せた。これはすごいことです。隣人愛はモーセ五書の中で、ただ一つ、レビ記19:18にしかない。よく暗記していたと思います。さずが律法学者、聖書をよく知り、頭も良い。

しかし、神の愛、アガペの愛は分かっていない、それは、この律法学者が、この質問をしたタイミングを見れば分かります。

この善きサマリヤ人の譬えが語られるきっかけとなったのは、イエス様が核となる十二弟子以外に七十二人の弟子を「任命」し、悪霊に打ち勝つ力を授けて福音宣教に派遣され、彼らが見事な成果を上げて帰還したところであった。

イエス様は、彼らに天の権威によって為し得た伝道の成果、サタンに勝利できたことに思い上がることのないように注意されたが、それでもイエス様御自身「聖霊によって喜びに溢れ、天地の主である父を誉め讃えられた」ところであった。

「弟子たちの伝道によって一人でも多くの人が救われようとしている」、イエス様がまさに喜びの絶頂におられる時に、律法学者は、「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問してきた、イエス様を窮地に立たせようとした、その心は、本来、救いというものは、大祭司を頂点とする神殿において犠牲の供え物を捧げ、大祭司、祭司の執り行う神殿祭儀によってもたらされるものだと、そんな旅芸人みたい、勝手にレビ人でもない、祭司でもない者を弟子に任命して派遣して、救いを与えるとはちゃんちゃらおかしい、さらに言えば、救いはユダヤ人だけのものであって、異邦人や誰彼無しにまで与えられるものではない!ということを突こうとした、伝道に水を差したかったのである。

律法学者の肩を持つわけではありませんが、彼自身も、イエス様が喜びに満ちて、「天地の主である父よ、あなたを誉め讃えます。あなたは、これららのことを知恵ある者や賢い者には隠して、つまり、律法学者や祭司や指導者と呼ばれていた人たちには隠して、幼子のような者、つまり、レビ人でも何でもない、漁師や取税人に明らかにされました、と言われたので、

律法学者も頭にきていたのかもしれませんね。おそらく、そこらへんのことも全てをご存知のイエス様は、怒ることなく、問いに対して問いに返し、そして、律法学者の答えに対して、「正しい答えだ。それを実行しなさい。」と言われた。

すると、律法学者は自分を正当化しようとして、「隣人とは誰ですか?」と更に問うたわけです。ユダヤの伝統に従えば、隣人とはユダヤ人のこと、これ1択しかないんです。

律法学者は自分を正当化したかった、つまり、すべての人が救われるというイエス様の福音伝道は不当であると言いたかった。ここに及んで、イエス様は、あえて、あえて祭司、レビ人を血の通わない登場人物として「善きサマリヤ人」の譬えを説かれた。決して、ユダヤ教指導者たちへの当てつけ、腹いせの譬え話しではない。

イエス様は、どうしても、全ての人が永遠の命に招かれており、モーセの律法を成就することは、祭儀によるのではなく、神愛、自愛、隣人愛の実行であることを明らかにされたかったのです。

「行って、あなたも同じようにしなさい。」律法学者はぐうの音も出なかった。見事に神愛、自愛、隣人愛が説き明かされたわけです。

確かに律法学者はイエス様を窮地におとしめようとして質問を投げつけてきた。そこでイエス様が腹を立てて、なんだ!人がせっかく伝道してその成果を感謝している時に、それは伝統的ではないとか、そんなことしてなんになる、みたいな言い方をして、と怒ってしまっていたら、この珠玉のたとえ話は語られることはなかった。

福音のはじまりは、時にはサタンの誘惑のような働きかけによって試され、腹を立てていたら閉ざされてしまうかもしれない。しかし、最終目標が、一人といえども滅びることを望まれない主を讃美したい、その主の救いを一人でも多くの人に伝えたいという祈り、願い、であるならば、このように、父なる御神は「万事を益となるように」してくださる。

澤地千代姉の告別式の際に、この善きサマリヤ人の譬え話をいたしました。それは澤地千代姉が教会役員、婦人会役員、サマリヤ会の責任も持っておられたからですが、お陰様で、教会のあるべき姿、福音の意味についてお話することができました。さらに、聖書をプレゼントしますので、どうぞ読んでみてくださいと言うことが出来ました。それは、ギデオン横浜支部が、この困難なコロナ禍において、しかし!へこたれるのではなく、教会が様々な場面で聖書を配布し、伝道できるように新たな聖書贈呈枠を創設し、そのための新しい特別献金を開始された。

そして、どうぞ葬儀の時などに用いてください、と山口信三兄、江尻浩三兄が、私に懇切丁寧に説明しに来てくださった。現実に、主イエス・キリストから派遣されているんです、今も主の弟子は生きて働いている、感謝します!

また、今日発行された2021年の恵みをよくご覧下さい。どれだけ、教会がコロナ禍においても、へこたれずに、今できることに、今しかできない福音宣教に仕えることが許されてきたことか、主に、兄弟姉妹の祈りと献身に心から感謝をいたします。

最後にいたしますが、律法学者は「では、わたしの隣人とは誰ですか?」と問いましたね。しかし、イエス様は善きサマリヤ人の譬え話を話されて、「誰がその人の隣人になったと思うか?」と問い直されました。私たちは、誰が私たちの隣人だろうか、誰が私の隣人に相応しい人だろうかと思ってしまうが、信仰とは、私たちの方が、すべての人の隣人になれるかどうかにかかっていることを教えられます。

ヤコブの手紙1:22「御言葉を行う人になりなさい。… 聞くだけで終わる者になってはなりません。」

主は呼び掛けておられます、わたしの僕となって伝道の御業に仕えなさい、慈善を為す者は心から為し、献げる者は惜しまずに献げ、讃美する者は喜びをもって讃美し、すべての御業のために互いに祈りなさい。私たちも主に遣わされ、力与えられ、良き音ずれ(福音)を高らかに讃美し、この地に主の御救いを宣べ伝えて参りましょう。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

マタイによる福音書18:21-35

ペトロが主イエスに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と聞きました。主イエスの答えはそれをはるかに超える「七の七十倍までも」でした。

このたとえ話からは、私たちが受けている赦しの大きさを示されます。ある王様の家来が、王様に一万タラントンの借金をしていたと言われています。当時の通貨は最も小さい「レプトン」に始まり、一番大きいのが「タラントン」でした。

「デナリオン」が一日分の賃金と言われており、それを基準に六千デナリオンで1タラントンとなりました。すなわち1タラントンは六千日分の賃金、およそ16年分の賃金です。

1タラントンでも相当な金額なのですが、この家来は一万タラントンの借金をしていたと言うのですから、途方もない金額です。返済しようとしてもとうてい返済できる金額ではありません。ですから王様から、「自分の財産すべて、家族も含めて売って返済するように」と命じられますが、しきりに願って借金を帳消しにしてもらうことができました。

これが私たちが受けている「ゆるし」である、と聖書は語るのです。でも私たちにはそんな借金をした覚えもないし、特別悪いことをしたという意識もないかも知れません。それでも、私たちが持っている罪・原罪の負債は神さまの前にはそれほどまでに大きいのです。

そして、その莫大な負債を帳消しにしてくださる神さまの恵み、それが十字架です。神さまの前において一万タラントンもの莫大な負債に相当するような決定的な「罪」を、私たちは赦していただいているのです。

それはイエス・キリストの十字架による贖いです。私たち人間は誰でもが罪を持っているものですが、主イエスがその罪の身代わりとなってご自身の命を犠牲にしてくださいました。

本来ならば自分が犯した過ち、神さまに背く罪のために自らの命をその代価として支払わなくてはなりませんでしたが、主イエスがそれを肩代わりしてくださいました。その結果、私たちは神さまから罪をとがめられずに済むのです。

これは私たちの努力や行いが必要なのではなく、あくまでも神さまの恵みとして与えてくださったものです。赦しを受けるために必要なものは悔い改めと信仰です。私たちは赦された事実を受け止め、その恵みへの応答として感謝と喜びをもって歩んでいきましょう。ハレルヤ! 片平貴宣牧師

nakajima on 12月 26th, 2021

マタイによる福音書2:13-23

マタイによる福音書2章は、主イエスの誕生後数年間の出来事を記しています。強調されているのは、主イエスがはるか旧約の時代より指し示されてきたお方、預言の成就者であると言うことです。

前半は、ページェントなどでもおなじみの、占星術の学者たち、東の国の博士たちが訪れる場面です。お生まれになった主イエスをユダヤ人の王として、はたまた全世界、全宇宙の王として迎え、礼拝をするのです。

そして今日開かれました後半部分は、あまりメッセージなどでも取り上げられることは少ない箇所かもしれません。時のへロデ大王は、王位が奪われるのを極度に恐れていました。博士たちには良い顔をして手がかりを与えつつも、心の内ではもしも自分の地位を危うくするものが生まれてくるものなら亡き者にし、それを知っている博士たちの命も奪おうと考えていたことでしょう。

事実、ヘロデ大王の目に余る行いが記されています。自分の権力と利益を守るためには、民衆を虐殺することを厭いませんでした。しかし合わせて、そこからの救いも記されています。この世の王は自分より権威のある方を抹殺しようとしますが、神はそれをほおってはおかれません。

博士たちとヨセフの所にそれぞれ御使いが遣わされ、博士たちはヘロデの所へ帰らず、ヨセフとマリア、そして主イエスもエジプトに逃げて難を逃れました。多くの命が失われた悲しみの叫びがありましたが、しかしここにも神さまの守りが現されたのです。

ヘロデ大王は保身のために人々を苦しめました。しかし真の王たる主イエスは、あえてナザレという小さな村に住み、人々の悩みと苦しみを体験なさったのです。

預言に示された通りのへりくだる救い主の姿がここにも示されています。その救い主の最たるお姿はイザヤ書53章に記された、苦難の僕の姿です。「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」(イザヤ書53:12)と語られる、真の救い主のお誕生を受け止め、その示される道に従って歩みましょう。ハレルヤ! 片平貴宣牧師

nakajima on 12月 19th, 2021

マタイによる福音書2:1-12

クリスマス(Christ-Mass)、御子の降誕、全世界のキリスト教会がこの夜の出来事(礼拝)によって誕生した。

最初、宿屋にも泊まれなかったマリアとヨセフ、参列者は二人だけ。次に羊飼いたち-人口調査の外に置かれていた-。どんなにかみじめで、つらく悲しい夜であったことだろうか。

しかし!天使による救いの宣言があり、神を誉め讃える讃美があり、確かにそれらは礼拝であったのである。そして、神は、【助け手】として東の方から占星術の学者たち“三人の博士”を遣わしてくださった。彼らの背景について聖書は詳しく記していないが、ヘロデ王に謁見し、堂々と「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」と尋ねることができるぐらいの地位を持っていたことは分かる。

博士らは、大きく輝く星がついに幼子の居る上空に止まったので、馬小屋に入り、「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。文字通り宝物が献げられたのである。ここにおいて、神様は祝福を信じて従う者に必ず、必要な助け、贈り物を下さる御方であることを示される。

その一方で、残念ながらヘロデ王に象徴されるサタンによる妨害、闇の力が働くことも知らされる。「ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」のであった。

教会が本気で御子の降誕を喜び祝い、神の御名を誉め讃え、讃美し、その救いの出来事、福音を宣べ伝えようとするなら、サタンの働きもそこにあることを知っておかねばならない。

しかし、恐るるに足らず。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方(父なる神)を愛する者は皆、その方から生まれた者(子なる神キリスト)をも愛します。…神を愛するとは、神の掟を守ることです。…神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」(Ⅰヨハネ5:1-5)。サタンの働きとはこの聖句の前章にある通り、私たちの愛を冷まし、そして無関心にすることである。

神の掟は「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」これによって私たちはサタンのあらゆる闇の力に勝利し、福音を宣べ伝えることができるのである。ハレルヤ!中島  聡主任牧師

nakajima on 12月 12th, 2021

ルカによる福音書2:8-20

マリアとヨセフは天使の御告げに従い、イエスを産み、布にくるんで飼い葉桶にねかせた。宿屋には彼らの泊まる場所が無かったから。このうえなくさびしい切ない夜である。

二人が事の次第を誰にも話さなかったのか、話したが誰も信じなかったのかは記されていない。祭司ザカリアの妻エリサベトも懐妊を5ヶ月の間、隠していたとあるし、マリアもエリサベトの許に身を3ヶ月ほど寄せていたとある。マリアの身におこったことを明らかにできる状況ではなかったのだ。

いくら天使に「この子はダビデの王座を継承する者、ヤコブの家を支配する者、その支配は終わることがない」(ルカ1:32-33)と言われても、誰一人として賛同者がいない中、どんなにマリアとヨセフは不安であっただろうか。

そこで、天使は救い主の降誕を公に告げ知らせてくれたのであった。ただし、羊飼いたちに-当時、人口調査の外に位置づけられていた-。

しかし、天使は実に福音宣教の全てをここにおいて告げ知らせたのであった。「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:10-11)そして、そこに「天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」(ルカ2:13-14)

先主日、全世界のキリスト教会のはじまりとなる福音が、当時の社会では主要な構成員ではない“おとめマリア”に託されたと語ったが、今、福音のメッセージが先ず羊飼いに告げられたということは、この救いに男か女か、大人か未成年か、そしてどんな働き、生活をしているのかも一切関係が無いこと、救いはすべての人のためのものであることが高らかに宣言されたのである。

また、先主日の「マリアの賛歌」と同様に、救い主の降誕、世界で一番最初の福音は、またも讃美と共に宣言されたのであり、ここにおいて教会における讃美の重要性が極められることを知る。

最初の救い主降誕の証人となった羊飼いは「神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(ルカ2:20)これもマグニフィカートである。いかに讃美が私たちの信仰を現すのに、また教会に託された宣教の使命、福音を宣べ伝えるのに重要な位置にあるかを教えられる。「わたしたちの救いの神よ、…聖なる御名に感謝を捧げ、あなたを賛美し、誉め讃えさせてください。…民は皆、アーメンと答えよ。主を賛美せよ。」(歴代誌16:35-36)主の御名、主の祝福に感謝し、ハレルヤ!中島  聡主任牧師

nakajima on 12月 5th, 2021

ルカによる福音書1:46-56

祭司ザカリアにバプテスマのヨハネの誕生を告げた主の御使いガブリエルは(1:19)、半年後、マリアのもとに現れ、こう呼び掛けた。

「おめでとう、恵まれた方」(ギリシャ語、英語では「喜べ、恵まれた方」)。この後、マリアとヨセフはとてつもなく困難な道を歩むことになるにも関わらず、天使の第一声は「おめでとう、喜べ」であった。

マリアは「この言葉に戸惑った」とあるが、ザカリアは祭司であったが、天使の登場に「不安になり、恐怖に襲われた」(1:12)のだから無理もない、否、堂々としている方であろう。

天使は続けて言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」とてつもないスケールの話である。

勿論、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えた。しかし、天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と、とんでもない奇跡の預言を告げるのであった。そして、高齢のエリサベトの懐妊を知らせ、「神にできないことは何一つない」と告げるのであった。

マリアは「わたしは主の僕です。お言葉どおり、この身に成りますように」と答え、急いでエリサベトのもとを訪ねた。

マリアの訪問を受けたエリサベトは「聖霊に満たされて」、マリアもマリアの胎の子も主に祝福されていることを声高らかに宣べた。エリサベトを通して主の祝福を確信したマリアは素直に主を誉め讃えたのであった。

マリアは天使の宣言と共に懐妊したと聖書は記す。全く人には理解できないが主の祝福はその日その時に成ることを忘れてはならない。主を信じ、主の祝福を信じ受け入れたマリアは素晴らしいマニフィカート(ラテン語「主をあがめる」)を歌いあげることができた。

ここに讃美歌の意義が明らかにされる。讃美歌は信仰告白であり、讃美をもって主の祝福を告げ知らせる、すなわち伝道なのである。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(1:47)。かつて主がイスラエルの民をエジプトから救い出された時、賛美を主導したのはモーセの姉ミリアム(マリアのヘブライ語)であったことは、福音を伝え、讃美する業はすべての人に託されていることを知る。ミリアムが旧約におけるイエスのひな形であるモーセを幼子の時に助けたように、幼子イエスもマリアによって誕生が守られたのだ。主の御言葉は必ず実現する。

「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」(ヤコブ1:21)との信仰に立って、御子イエス・キリストによる救いを確信して喜びの讃美を捧げて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 11月 28th, 2021

ルカによる福音書1:5-25

いよいよアドベント第1週目を迎え、洗礼者ヨハネ誕生の箇所が与えられました。ガブリエルの預言で、主イエスに先立つものとしての使命を示されています。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(ルカ1:17)。民の心を神さまに導き、道しるべとしての役割を果たすよう語られます。救い主の登場に先立ち、ヨハネは遣わされるのです。この「主の先駆け」としての役割を、私たちも与えられています。私たちも主の道を告げ知らせるものとされているのです。

主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と語られました。真の道は主イエスです。私たちはまだその道を知らない人々へ、「ここに真の道がある」と宣べ伝える働きが与えられているのです。

この後、洗礼者ヨハネは人々に悔い改めのバプテスマをのべつたえ、めざましい働きをしてきます。ですが、ヘロデに捕らえられて牢屋に入れられ、最終的には殺されてしまいます。

洗礼者ヨハネの働きは、人の目の見えるところからすればまことに残念な、報われないものであったかもしれません。けれども彼の最たる働き、一番のメッセージは「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカ3:16)でありましょう。

聖霊と火によるバプテスマをお授けになるお方、真の救い主の到来がもういよいよすぐそこまで来ている、はるか旧約の時代から様々な預言者を通して語られてきた救い主、メシアがいよいよ来られる、とのメッセージこそ、ヨハネが語るべき一番のメッセージ、果たすべき務めでありました。

来たりたもう主を待ち望み、私たちが語るべきメッセージは、これから迎えるクリスマスに、真の光がこの地上に輝き出た、という何ものにも代え難い喜びのメッセージです。

そして、時が来たれば再びこの地上に主が来られる、再臨の時への希望のメッセージです。神さまを知らぬ多くの民にその恵みを証しし、救いの福音をのべ伝えるのです。

私たちもクリスマスを間近に控え、主イエスの誕生を祝おうとしています。約2000年前にこの地に来てくださった救い主の誕生をおぼえ、主イエスを心に迎えましょう。

ハレルヤ!          片平貴宣牧師