nakajima on 5月 9th, 2021

出エジプト記12:21-28

神はイスラエルの民を救済するためにモーセを選び出し、ファラオに民を奴隷から解放するように命じられた。しかし、ファラオが頑なであったために数々の災いが下され、エジプトに多大な被害がもたらされた。そして、最後の十番目の災いは、家畜、人を含めて全ての初子の命が奪われるという過酷な災いとなった。

この時、神はイスラエルの民には最後の災いが過ぎ越されるように、「傷のない一歳の雄の子羊(山羊でもよい)の血」を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗るように、そして、その「肉を火で焼いたものと酵母を入れないパンに苦菜を添えて食べる」ように、さらにその際には「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べるように」命じられた。この神命によって、イスラエルの民は滅びの裁きから逃れることができたのであった。

頑なであったファラオも長子を撃たれた痛みにより、イスラエルの解放を約束したが、すぐにも労働力が惜しくなり、約束を反故にし、エジプト全軍を率いて最後まで神命に逆らった。

この救いの御業について、神はイスラエルの民に対して「この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」、「最初の日に聖なる集会を開かねばならない」、「あなたと子孫のための定めとして、永遠にこの儀式を守らねばならない」と神のよる救いを忘れないように命じられた。

しかし、イスラエルもまた、この神命に逆らって過越祭を祝わなくなり、そのような祭があったことすら忘れてしまうのであった(列王記下23:22「士師たちがイスラエルを治めていた時代(BC1100)からこの方(ヨシア王の改革BC630)、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった」)。

ファラオは軍事力、独裁力を最優先として滅びの裁きを受けた。イスラエル王国もまた信仰心を失い軍事バランスに頼って生き延びようとし、アッシリア、バビロン帝国によって滅ぼされてしまった(BC586)。

かつてナチスが台頭した時、その渦を強大にしていったのは「宗教を軽んじていた教養市民層であった」という指摘がある(『教養市民層からナチズムへ』野田宣雄)。神こそ救い主(「汝、殺すなかれ」、「自分を愛するように隣人を愛せよ」)ではなく、人の力を最優先にする時、やがては滅びに至る。神の救済=過越祭は、イエス・キリスト(最後の晩餐⇒聖餐)によって、主日礼拝に顕されることになった。如何なる形であろうが、共に礼拝を守って参りましょう。ハレルヤ!中島 聡牧師

nakajima on 5月 2nd, 2021

出エジプト記3:7-12

神はエジプトの地で奴隷にされてしまったイスラエルの民を助け出し、再び「約束の地」に導き入れるためにモーセを選び出された。

事の発端はヤコブの一族が長期間に及ぶ大飢饉を逃れるためとはいえ、エジプトの地にすっかり居着いてしまって約束の地に帰らなかったことが原因である。

なにしろヨセフがエジプトの宰相であり、エジプトの中でも「最も良い土地」であるゴシェンに住むことができ、さらに「王家の家畜の監督官」の職まで与えられたのだから、居着いてしまったのも無理ないことと言える(創世記47:6)。

しかしながら、彼らの生業である羊飼いは当時、「すべて、エジプト人のいとうもの」(同46:34)であり、そもそも“余所者”であり、王と宰相による優遇が妬みの対象となり、やがて“厚かましくも増え広がっていった”イスラエルの民が敵視され、奴隷にされてしまったのもまた無理のないことと言える。

しかし、神は、エジプト人によるイスラエルの民への虐待(出エジプト記1:11)、過酷を極める重労働(同1:14)から救い出すことを決意されたのであった。まず神は、小さな命を慈しみ守り抜こうとした助産婦、モーセの姉と母、ファラオの王女を守り、祝福された。

成長したモーセは、奴隷のイスラエル人でありながらエジプト王家の一族になっているという異様な環境から、義憤に駆られたとはいえ殺人を犯してしまい、逃亡することになった。ミディアンに逃れたモーセはその地の祭司エトロの娘の水汲みを助けてあげたことから婿入りし、「羊を飼う者」となった。「それから長い年月がたち」(同2:23)、イスラエルの民の嘆き叫びが頂点に達し、遂にモーセは神の召命を受けたのであったが、その時モーセが八十歳であったことを忘れてはならない(同7:7)。

彼が人を殺めて逃亡した時、「モーセが成人したころのこと」(同2:11)とあるので、まだ二十歳そこそこ。

実に六十年近くの間、彼は逃亡者であり、羊飼いだったのである。モーセが神の召命に対して、「神の名を明らかに教えて欲しい、神が共にいることの証が欲しい(⇒杖が与えられる)、弁が立たないので無理です」、遂には「他の人を見つけてお遣わしてください」と何度も辞退しようとして「神の怒り」をかったことは有名であるが、無理ないことと言える。

私達には召命はいつの時にも無理なことと思える。しかし、主(あるじ)は神様であること、そして、必ずや数え切れないほどの祝福を与えて下さることを忘れずに召命に応えて参りましょう。

ハレルヤ!中島 聡牧師

nakajima on 4月 25th, 2021

出エジプト記1:1-14

イスラエルの人々は、エジプトからすると驚異に思われる程に増え広がりました。それ故ファラオは警戒し、虐げるようになりました。そのような強さをイスラエルは得るまでに至りましたが、しかしそれはあるべき形ではありませんでした。過剰な力を持つことは、抑圧や迫害を受ける原因となってしまいました。イスラエルがより頼むべきはおのが力ではないのです。

神さまはここでモーセを選ばれました。神さまの選びの不思議がここにあります。モーセはイスラエル人でありながらエジプトの王宮で育てられました。そのような状況だけ見れば、神さまの選びがあったからだと納得できるところもあります。

しかしその後、モーセは大きな失敗、挫折、絶望を経験します。イスラエルの人が重労働を課されているのを見て、義憤に駆られてエジプト人を打ち殺してしまいます。その出来事が明るみになると、イスラエルからもエジプトからも責められ、ミディアンへと逃げることとなります。

その後、神さまからの召命を受け、イスラエルを救うためにエジプトへ来るも、要求をファラオへ伝える度にイスラエルへの労働は厳しくなり、「その原因がモーセにある」と、同胞から責められることになります。

もしもイスラエルが増え広がり、大きな力を持っていたのならば、モーセという指導者を介さずとも窮地を脱することができたのではないか、人々が力を合わせてエジプトに立ち向かうかすれば、対抗できたのではないか、と思うかもしれません。

神さまはモーセを初めとするイスラエルに対する選びを、申命記7章でこう語っています。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(申命記7:7-8)

モーセは偉大な指導者、預言者でありますけれども、様々な弱さや欠けを持っていました。エジプトからは逃げ、神さまからの召命には尻込みしました。

けれども、神さまの業は私たちの小ささや弱さを通して行われるのです。そしてその業を行う力は神さまが備えてくださいます。「主は力ある御手をもって」私たちに臨んでくださいます。神さまのお力を信じ、私たちは自分の弱さ、小ささを喜んで誇りましょう。ハレルヤ! 片平貴宣牧師

ルカによる福音書24:36-53

エマオへの途上において復活の主に出逢い、「モーセとすべての預言者から始めて聖書全体にわたり」救い主についての紐解きを受け、エマオにおいて再び聖餐の恵みに与った二人の弟子は、「時を移さず出発して、エルサレムに戻って」主の復活を他の弟子たちに語り伝えた。

そうしていると、主が「彼らの真ん中に立ち、あなたがたに平和があるように」と言われた。すると、彼らは喜ぶどころか「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」。なんとも失礼な話である。婦人たちも弟子たちも、誰一人、主の復活を信じていなかったのである。信じることだけが求められる信仰において完全に失格である。

しかし、イエス様は御自分の手や足を見せて、弟子たちを信仰に立ち返らせ、安心させようとされた。しかし、なおも弟子たちが不思議がっているので、「焼いた魚を一切れ」お食べになり、そして、エマオへの途上において二人の弟子にお話しくださったように、「律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と告げ、「聖書を悟る」ことができるように彼らの「心の目」を開いてくださったのであった。

そして、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」、「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」と、何一つ信じることができなかった弟子たちを、一方的に赦し、悟らせ、心の目を開かせてあげ、さらに「父が約束されたもの」、「高いところからの力」、すなわち聖霊を与えられたのである。

ここに復活の最大のメッセージがある。たとえ私たちが信じることができなかったとしても、主は選んだ者を見捨てることはなく、たとえ私たちが弱く、福音宣教に仕える力を持っていなかったとしても、主は聖霊を与えて福音宣教者にしてくださるのだ。

イエス様は、この後、弟子たちを「手を上げて祝福された」。そして、「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」。イエス様はお選びになった「いと小さき者」が愛おしくて仕方が無いのである。一度や二度、三度や四度の失望で、主にお仕えすることをやめてはならない。こんなにも私たちは愛され、力与えられ、祝福されているのである。決算総会の資料を作成しながら、コロナ禍にあっても主が私達を祝福してくださった数え切れない恵みと、主の召しに応えて奉仕、伝道に仕えて下さった兄姉の証に感謝が溢れる。ただただハレルヤ!中島  聡主任牧師

nakajima on 4月 11th, 2021

ルカによる福音書24:28-35

イエス・キリストの復活の第一証人に選ばれたマグダラのマリアをはじめとする婦人たちは、復活を信じていなかった。だから、空になっている墓を見て途方に暮れてしまったのだ。イエス様が弟子たちに三度も復活預言をされたことは、いつも彼らのそばにいて世話をしていた婦人たちの耳に入っていたはずである。婦人たちは(信仰を)忘れていたが、イエス様は思い出すことができるようにしてくださった。

弟子たちの内の二人がエマオに行こうとしていた。その道中、二人はイエス様の逮捕、裁判、十字架刑の執行、埋葬について話し合っていた。その心は暗く、エマオに福音伝道に向かっているということは無かったであろう。

そう、彼らもまた、復活を信じていなかったので、イエス様の十字架の死の悲しみに暮れていたのである。彼らはイエス様が「わたしは死んで後、三日後によみがえる」と三度も言われたことを思い出せないでいた。

こんな失礼な話は無いであろう。しかし、それでもイエス様は彼らに同行しつつ、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明」してくださったのであった。そして、それでもなお、イエス様を思い出すことができなかった、復活を信じることができなかった彼らのために、なんと「聖餐」を与えてくださったのである。

「すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」。そして、イエス様のお話を聞きながら「心は燃えていた」ことを思い出し、イエス様の復活を信じることができた彼らは、「時を移さず出発して」エルサレムに戻り、復活の証人となったのである。

「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」(ヨハネ6:35) かつて神は荒野においてイスラエルの民にマナを与え、さらに御子を「命のパン」として与えられた。御子は命までも献げて福音を説き明かされたのに私たちが信じることができないので、さらに復活によって、もう一度、パンを裂いて与えて下さった。聖餐は尽きることの無い神の愛に満ちている。再び全員揃って与れる日を祈ろう。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

ルカによる福音書24:1-12

クリスマスの出来事と同様、イースターもまた人の理解を遙かに超えた奇跡である。しかしてクリスマスのメッセージが単純明快(聖霊による救いの御業をあなたは信じるか)であるように、イースターもまた、そのメッセージは、「あなたは永遠の命を信じるか」、この一事である。

クリスマスにはもう一つ重要なメッセージ、「たとえ自分の子でなくとも愛しなさい」が込められており、主キリストはこのメッセージを、全人類を対象として貫き通された。十字架に架かってでも全ての人の罪を贖い取ってくださった。

そして、イースターは、御子の命という代価によって罪赦されるばかりではなく、永遠の命までも与えられるという最大最高の恩寵を現している。

クリスマスもイースターも、どちらもただ、「信じる」ことが求められている。しかし、人は信じることに弱い存在である。聖霊によって身籠る。神の全能の力によって復活する。信じ難い。だから弟子たちは裏切り、否認し、逃げ出してしまった。しかし、それでもイエス様は復活の御姿を現して弟子たちを世界宣教者に導いてくださった。

主は、その先駆者として婦人たちを選ばれた。彼女たちは、イエス様の御遺体に香料と香油を塗布するために墓に行ったが、すでに空になっており、途方に暮れた。すると、天の御使いが現れ、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだ、ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と言い聞かせた。

復活の証人の先駆者とは言ったが、彼女たちは、肝心要の復活を忘れていた、信じることができていなかったのである。しかし、主は御使いを遣わして、彼女たちを復活の第一証人にしてくださったのである。

イエス様は、たとえ私たちが弱く、信じることができない時にも共にいてくださり、信じることができるように導き続けてくださるのだ。さあ、私たちも主の復活を告げ知らせに行こう。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 3月 28th, 2021

ルカによる福音書23:44-56

今週からいよいよ受難週となります。木曜日は洗足、翌日の金曜日は受難日となります。私はイスラエル旅行に行った時、エルサレムにある「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」と呼ばれる、主イエスが死刑判決を受けてから葬られるまでに実際に歩まれたであろう道筋を辿りました。その最後には聖墳墓教会があります。主イエスの十字架が立てられた岩盤、十字架から降ろされた主イエスが寝かされた岩、そして主の亡骸が収められた墓の一部が、その教会の中にあります。

紀元30年4月のある日の午前9時頃、エルサレム近くのゴルゴダの丘に、ローマ兵の手によって三本の十字架が立てられました。真ん中の十字架には、主イエスが、両側の十字架には、それぞれ犯罪人がつけられました。この三本の十字架の場面は、まさに罪にまみれた私たちのただ中に、神様が真の愛を示して下さったことを象徴します。

自分を王と自称し国家の転覆を謀ったとの、もっとも重い罪を科せられて、最悪の犯罪人と見なされて十字架につけられました。しかし、その罪は全くの濡れ衣でした。群衆は主イエスが無実であったことを誰もが知っていましたが、祭司長たちが嘘の証言を言わせて、何とかして十字架につけようとしました。

主イエスは全くの無実で十字架につけられたにもかかわらず、その苦しみと恥を耐え忍ばれました。敵に対する赦しの言葉を持って、すなわち、愛を持ってこの刑を受けられました。主イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)との執り成しをしてくださり、私たちの罪を贖われました。真ん中の十字架は、愛の象徴です。

そして、その両側にある十字架は、罪人の姿、この世の姿を象徴します。一人は主イエスをののしり、もう一人はそれをたしなめ主からの救いを約束されます。彼らも十字架につけられ苦しい最中にいたわけですから、恨み辛みを述べたくもなったでしょう。自分の罪を認めず、主の救いをも受けいれず滅びへ向かう歩みをする、そのような人がこの世の中にはいるのです。

それに対して、自らの罪を認め、悔い改めて罪の赦しを受け、救いへと与る人がいます。40-42節にその犯罪人の言葉が記されています。「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。」

彼は確かにここで悔い改め、主から救いの約束を受けました。「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」(ルカ23:43)のです。

まさに罪人の真ん中に主イエスは来られ、罪人の身代わりにその命を献げて下さいました。主の十字架によって、救いの道が備えられています。誰でも今、悔い改めて主イエスを救い主として信じるなら、救いに与ることができます。

三本の十字架はまさに、この世に主の愛と救いが示されたことの象徴です。特に今週は受難週を迎えます。主の苦しみと十字架は私のためであり、それを代わって背負ってくださった主の愛を覚えて歩みましょう。    ハレルヤ! 片平貴宣牧師

nakajima on 3月 21st, 2021

マタイによる福音書27:15-26

最後の晩餐は「過越の食事」であり、ゲッセマネの園における最後の祈りもまた、「苦しみの杯」を受諾する執り為しの祈りであった。イエス様は最後の最後まで弟子たち、私たちのために、罪の裁きを過ぎ越させ、そのために御自身の命を贖いの代価として十字架に献げるために尽くされた。

にも関わらず、ユダは裏切ってイエス様を売り渡し、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながらイエス様との関与を三度否定し、他の弟子たちは皆、イエス様を見捨て逃げてしまった。

まさに絶望である。

そして、ユダヤ教指導者による最高法院(サンヘドリン)において偽証で塗り固められた死刑判決をお受けになり、唾を吐きかけられ、目隠しをされた上にこぶしで殴られたのであった。

まさに絶望である。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、死刑執行権は有していなかったので、ユダヤ教指導者たちはイエス様を縛ってローマの総督ピラトの許に連行した。死刑の訴状は「騒乱、民の扇動、王を名乗り、ローマ皇帝を否定、皇帝税の否定」であった。

不穏な状況を察知していたピラトは自ら尋問し、結果、「わたしはこの男に何の罪も見出せない」と申し渡したが、彼らは一歩も引かなかった。ルカ福音書では途中、領主ヘロデ王のところにも連行されているが、死刑を激しく訴えるユダヤ教指導者たちと共にあざけり、侮辱しピラトの許に送り返したとある。まさに絶望である。

ピラトは、毎年、過越祭の時に民衆が希望する囚人を一人釈放している慣例に合わせて、暴動と殺人のかどで捕らえられていたバラバ・イエスと「キリスト・イエス」を引き合いにして、どちらに恩赦を与えるかを群衆に問うた。さすがにキリスト・イエスを助ける良心の声があると期待したのであろう。

ところがユダヤ教指導者達に扇動された群衆は、イエス様を十字架につけろ!と叫んだ。ピラトが「いったいどんな悪事を働いたというのか」、「この男に死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった」、「鞭で懲らしめて釈放しよう」と訴えても、群衆はますます激しく「十字架につけろ!」と叫び続けた。

ピラトは暴動を恐れ、総督としての責任を放棄し、イエス様を十字架につけようとする彼らに引き渡してしまった。

まさに絶望である。しかし!それでもイエス様は神の御子、救い主としての歩みを止めようとはされなかった。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)

この徹底した神の愛の実現が、信仰者の歩みであることを示される。

昨日、大橋秀夫氏の告別ミサに参列させていただいた。この方は、精神科医であり、法務省の医務医官となってから、ながきにわたり、矯正医療、刑務所、少年院における医療制度の改善にずっと取り組んでこられた。医療刑務所の所長、少年院の院長も務めながら。どれほどの多忙であったことだろうか。

塀の中における医療が劣悪であったろうことは想像に難くありません。自分自身、広島、福井の時代に教戒師の働きに参与させていただいた時に、何重にも施錠されていく扉、堅く閉ざされた空間というだけで、心身に影響を感じたことを覚えている。

大橋氏は、キリスト者として、イエス・キリストの言葉を大切に、医療改善に取り組み、末期がんにあってはホスピスのように寄り添えるようにまで提言を続けられた。

2014年に人事院総裁賞を贈られた時のコメント。周囲に様々な声があったが(「犯罪者にそこまでするのか」)、「全ての責任は自分が取るから」と言って取り組み続けられた。

「また、質の高い行事も増やしました。観桜会の充実やクリスマス会、各種コンサート、落語会等の開催ですが、彼等の感想文には行事の素晴らしさに感動したことと職員の心配りに対する感謝の言葉がつづられていました」。

罪に寄り添うとは決して簡単なことではない。自分もまた重荷を負うことである。昨年、KGCM-清水ヶ丘に、刑務所でのクリスマスコンサートをして欲しいという依頼があった。コロナの影響で中止になったが、早くも今年のクリスマス、もしできるようであればお願いしたいと依頼があったことは、チャリティコンサートとならび、主の御計画の一つだと思っている。

私たちは、すべてのクリスチャンが、まるでキリストのように世に人に仕えることができるわけではない。しかしまた、どんな絶望的な状況の中にあっても、主に選ばれ、主の道を歩み行く人がいる。

そこで大切なことは、主の御用に仕える人のために祈ることと示される。

今日は、召天者祈念礼拝。この1年の間だけでも、本当にこの教会に、兄弟姉妹に良き感化を与え、主の御用に仕えてくださった先達が天に召された。嘆き悲しみはあるが、意気消沈することは無い。

天において私たちのために祈ってくださるからである。真の力に満ちた祈りが天から注がれる。

御子イエス・キリストが全ての絶望に打ち勝って私達に永遠の命を与えて下さったことを覚え、ハレルヤ!と福音伝道に仕えて参りましょう。 中島 聡主任牧師

nakajima on 3月 14th, 2021

マタイによる福音書26:36-46

弟子たちを裁きから過ぎ越させるために、主は最後の晩餐を「過越の食事」として執り行ってくださった。

そして、ゲッセマネの園での祈りの場面となるが、三度眠り込んでしまった弟子たちに対して、甘すぎやしないかと思えてしまう。

しかし、そもそも最後の晩餐において、ユダが裏切ること、さらにペトロが離反することを告げているにも関わらず、誰も裁かれていない。どちらも信仰上、とんでもない重罪である。しかし、裁かれていない。そう、弟子たちは過ぎ越されているのである。

だから、この後、「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」とあるように、全員、主を裏切ることになる身であるのに、主と共に賛美し、主と共に祈ることに招かれているのである。

この世的に言えば、どん底の様な状態であった最後の晩餐の最中にも「賛美の祈り」、「感謝の祈り」が捧げられている。賛美とは、祈りとは、たとえ私たちが罪人であったとしても、主に愛され、主によって救われることへの応答=信仰告白であって、いついかなる時にも全身全霊をもってなされるべきことと示される。

主は、ゲッセマネにおいて、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られた。これから十字架に磔られて殺される我が身、すべての罪を過ぎ越させ、すべての罪を贖うために犠牲の供え物にならねばならないことを祈られた。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と十字架の死を覚悟して祈られた。

しかし、弟子たちは眠っていた。二度目も、三度目も眠っていた。イエス様の祈りに応える弟子は一人もいなかったのである。イエス様は、共に祈ることすらできないほどに疲れていた弟子たち(もしかしたら、一緒に祈ったら一緒に殺されることになることを恐れて、眠ったふりをするほどに気弱になっていた弟子たち)に対して、叱責も強要もせず、「時が近づいた」と言われ、神の救済の御計画を完遂するために歩み出されたのである。

ここで、イエス様が福音宣教の始まりにあたって、言われた言葉を思い起こしたい。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。」と言われて宣教を開始された。実にイエス様は、この十字架を目指してお生まれになった、この時のためにお生まれになったのである。

私たちは、楽しい時を願う。幸せな時を願う。平和な時を願う。しかし、イエス様、神の御子は、私たちの命を救い出すために、十字架の時に向かって生きられた。

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(Ⅱテモテ4:2) 今、福音宣教に立ち向かうには苦難の時と言える。しかし、そもそも福音は主の御受難と十字架の死を抜きには何一つ語れないことを覚え、私たちにできることを祈り求めて参りたい。

3月の聖句。「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。」(イザヤ50:4)主に福音を伝える信仰を呼び覚ましていただこう。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

 

ルカによる福音書22:14-23
「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。』」いよいよ捕縛され、鞭打たれ、十字架に磔られようという時、イエス様は弟子たちと過越の食事を共にしたいと切に願っておられたのだ。

私はこの過越の食事を「切に願っておられた」という言葉が心に突き刺さった。この言葉はルカ福音書にしかないが、よく書き記してくれた!という思いである。

これは御自身が、私は三位一体の神である、すなわち、出エジプトを導かれた神であることを表明しておられるのだ。そして、今、過越の食事を願っておられるということは、エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民を救い出された、あの時以来、神の側からの救済の歴史は一時も途切れることなく続いていることを示している。

一方、イスラエルの民はどうであったかというと、列王記下23:21-22「(ヨシヤ)王はすべての民に命じて言った。『この契約の書に記されているとおり、あなたたちの神、主の過越祭を祝え。』士師たちがイスラエルを治めていた時代からこの方、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった。」とある通り、イスラエルの民は出エジプト、過越の恩寵を忘れ、イスラエル王国は分裂し、衰退の一途という歴史を辿っていたわけである。

このことは、歴代誌下35:18「預言者サムエルの時代以来、イスラエルにおいてこのような過越祭が祝われたことはなく、ヨシヤが祭司、レビ人、そこに居合わせたすべてのユダとイスラエルの人々、およびエルサレムの住民と共に祝ったような過越祭を行った者は、イスラエルの歴代の王の中に一人もいなかった。」にも記されており、何とかヨシヤ王によって一度、過越祭を通りして唯一の神への信仰を取り戻そうとしたが、また忘れ果ててしまい、

遂にはアッシリア、バビロンによって滅ぼされ、ローマ帝国の植民地となり、そして、今、祈りの家であるべき神殿を「強盗の巣」にしてしまったにも関わらず、それでもなおイエス様は「過越の食事」をもって、救いを与えようとされているという神の愛に心打たれるのである。

そもそもイスラエルの民が飢饉を逃れてエジプトに移住した後、約束の土地カナンに帰らなかったが故に奴隷となったわけであるが、それでも神は民を救い出されたように、これから神の御子イエス・キリストを裏切り、逃げ出す弟子たちのために、再び過越の食事を共にし、その罪の裁きから弟子たちが過ぎ越されることを切に願っておられたのである。従って、実に神は、御子イエス・キリストは、1500年におよんで過越の食事を切望しておられたのである。

ところで、かつての過越においては、エジプト軍、ファラオの長子は過ぎ越すことができなかった。そして、最後の晩祭においてユダは過ぎ越すことができなかった。どちらにも共通して言えることは、自分の力ですべてのことを為そうとしたという点である。

ファラオは当時、地上最強の軍事力をもってイスラエルを虐げ続けようとした。ユダは、イエス様をユダヤ教指導者たちに売り渡し、絶体絶命の窮地に追い込むことによって、イエス様が超絶的な奇跡をおこされ、ローマの支配下からイスラエルを解放し、かつての王国を取り戻せると、己の考えを最優先させてしまった。ここで、過越の恩寵、主の晩餐の恵みに与る条件は、力があるか無いかではなく、ただひたらすに主を信じ、主の御心に従いゆく従順さであることを示される。

当時、イスラエルの民は、この地上で最も弱い民であった。また、弟子たちも、この後、逃げ出すことしかできない弱い存在であった。しかし、主は、そのような力の有る無しではなく、信じる者を守り、恵みを与えてくださる御方であることを覚えたい。

すべての人を救いに至らせたい。主のその願いは私たちすべて、一人一人を罪の裁きから過ぎ越させることに及んでいる。「これはあなたがたのために与えられるわたしの体である。…これはあなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」と、イエス様はアガペの愛をもって晩餐に私たちを招いておられる。

確かに、私たちは、この神の愛に満ちた最後の晩餐=聖餐に、共に与ることができなくなり、1年が過ぎた。深い悲しみを覚える。しかし、出エジプトの過越からずっと「共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」主の悲しみ、痛み、待ち続けておられた時間に比べれば本当にほんの一時である。

「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

「最後の晩餐」はこの世的に見れば決して楽しい食卓ではなかった。しかし、主は全身全霊を献げて、弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれ、その足までも洗ってくださった。私たちも今、霊的な枯渇、苦しみの中にありますが、主の受難、忍耐し続けられ、捧げ続けられた主の愛を覚え、感謝して祈り、今できることに仕えて参りましょう。ハレルヤ! 中島聡主任牧師