ルカによる福音書1:5-17

祭司ザカリアと妻エリサベト、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」。しかし、高齢となり信仰の継承者である子はいなかった。ザカリアが主の聖所で香を焚いていたところ、天使が現れ、香壇の右に立った。それを見たザカリアは「不安になり、恐怖の念に襲われた」。かつて指導者に選ばれた者も皆そうであったように、祭司であるザカリアも奇跡を前に恐れをなした。人の信仰の限界である。しかし、天使は「恐れることはない。…あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と告げた。主は私達に完璧を求めておられない。不安の中にあっても、恐れながらでも、主に従いたいと願う祈りを求めておられる。

「あなたの願いは聞き入れられた」。ザカリアもエリサベトも、高齢のゆえに子を諦めていた。しかし、心のどこかでは求めていたのだ。主は私達の願いをご存知である。そして、主の時にそれは成就するのである。「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。…既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」喜ばしい告知であったが、現実は想像を絶する過酷なものとなっていく。

確かに主は願いをきかれ、子を与えられた。しかし、その子はナジル人として主に献げられ、バプテスマのヨハネとして福音宣教のために用いられること、さらには、イエス・キリストの露払いとして歩み、殉教者となることが定められていたのである。ここに、「信仰によって願いがきかれる」の真意が示される。それはいわゆる御利益、個人の利益としての願いではない。なぜ主は、アブラハムの子イサクを助けられたのに、バプテスマのヨハネをヘロデ王の愚行に任せ、さらに御子の命を十字架に磔られたのか。言えることは、それだけ人の罪が重いということ。私達は自らの罪の責任を一切問われることなく、ただ信じること、それのみによって永遠の命が与えられるのである。私達が、あきらめており、しかし、心のどこかで願っている永遠の命、その願いを主はご存知であり、「願いは聞き入れられた」と告げて下さった。それが御子の降誕である。そのために、エリヤ、バプテスマのヨハネ、数え切れない預言者、先達の命、御子の命が献げられたのだ。アドベント、私達は、この良き知らせを宣べ伝えるために、自らを献げて参りましょう。  ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 12月 1st, 2019

ヘブライ人への手紙9:15-22

「キリストは新しい契約の仲介者なのです。」これに対して、古い契約とは、モーセの十戒に代表される律法による救済のことである。かつてイスラエルの民は、飢饉を逃れるためとはいえ、「約束の土地(カナン地方)」を離れてしまった。さらに飢饉が終わってもエジプトに居続けたが為に、エジプトにおいて奴隷となってしまい、唯一の神への信仰を忘れてしまうという大罪を犯してしまった。しかし、神は、「過ぎ越しの奇跡」(羊を生贄とし、鴨居と入口の二本の柱に羊の血を塗って災いを逃れる)をもってこれを救い出された。

このように罪が赦されるためには、贖いの契約が必要であり、かつて「古い契約」は動物の命であった。しかし、それでは贖い切れない人の罪が世に満ちた。神は、その全ての罪を贖うために、自らの命を犠牲として献げることを決断された。これが「新しい契約」である。そして、「仲介者」とは、三位一体、神の御子イエス・キリストが十字架において命を捨てる代わりに、私たちの罪が赦されるように、神と人とを仲介するとの意である。この救済の教えを、別の箇所では、「神はこの方(イエス・キリスト)に対してこう言われました。「主はこう誓われ、その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』 このようにして、イエスはいっそう《優れた契約の保証》となられたのです」(ヘブライ7:21-22)。

優れた契約の保証。イエスはメシア、救い主というと現実離れした感があるが、優れた方である。優れた人とはどんな人か。優勝、優秀、実力があって、さらに優しいとくれば確かにすごい。ところで優とは不思議な字。こんなにすごい字なのに、字のほとんどが「憂い」で成り立っている。憂いとは、思い悩み、不安、いったいどうしたらいいのかという状態。人は誰でもこういう状態になる時が来る。不安や辛い思いをしない人など一人もいない。でもそういう辛い時、苦しい時でも、誰か一人、本気で自分に寄り添ってくれる人(イ・にんべん)がいてくれればなんとかなる。それができるのが本当の優しさであり、優れた人。人は、時と場合によってはいとも簡単に不安や恐れに押し潰されて自分を失ってしまったり、あるいは人を傷つけたりする。それは孤独だからだ。どんな時でも励ましてくれる、注意してくれる、本当の優しさで寄り添ってくれる人がいないからだ。

キリストは、私たちの優れた方であり、契約の保証である。保証とは保証人のことであり、万が一、私たちがダメになってしまっても、身代わりになって救いを与えてくれるということ。

たとえ私たちが死んでも永遠の命を与えてくれる。それが救い主の意味である。私たちも誰か一人でいいので、その人にとって優しい人になれますように。ハレルヤ! 中島聡主任牧師

nakajima on 11月 24th, 2019

エレミヤ38:1-6    預言者エレミヤの時代(紀元前600年中頃)、既に北イスラエル王国は滅び、南ユダ王国もバビロン帝国の支配下に置かれていた。そのような中、エレミヤは諦めることなく、預言活動を継続していた。「人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の前から立ち帰る」ことを願って、書記官バルクを通して巻物にまとめ、ヨヤキム王に献上したが、王はそれをナイフで切り裂いて、炉に投げ入れ全て燃やしてしまった。それでもエレミヤはめげずに再び預言の巻物を仕上げた。ここに、まず最も諦めていないのは主御自身であり、エレミヤの預言を具現化しているバラクの信仰深さがあることを忘れてはならない。

ヨヤキム王に代わってゼデキヤが王となり、彼は、エレミヤに国難救済の執り為しの祈りを求めた。しかし、エレミヤが「ユダ王国はバビロンによって必ず滅ぼされる」と真実を預言すると、エレミヤは逮捕され、むち打たれ、監禁されてしまったのであった。王は秘かにエレミヤに神意を尋ねたが、「バビロンによる滅亡」というエレミヤの答えが変わることはなかった。エレミヤは釈放を願い出たが、監視の庭に留め置かれ、一日パン一つという軟禁が続いた。それでも、エレミヤはなお、監視の庭において預言活動を続けた。すると、王の使者や神殿警備隊の者達は、エレミヤが自国の兵士、民衆の士気を挫くので死刑に処するように王に進言した。

王は、「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないからだ」と言ってエレミヤの生死与奪権を与えてしまった。役人たちは、監視の庭に行ってエレミヤを捕らえ、縄で縛り、水溜めに吊り降ろした。水溜めには水が無く、泥が溜まっており、エレミヤは泥の中に沈んだ。その処刑を目撃していた宮廷役人の一人、クシュ人のエベド・メレク(王の僕)がエレミヤの救出をゼデキヤ王に嘆願した。すると王は、「三十人を連れて、エレミヤが死なないうちに水溜めから引き上げるがよい」と命じたのであった。一命を取りとめたエレミヤは監視の庭に留め置かれることになった。

エレミヤの目的はイスラエルの士気を挫くことでも、無論、当時、列強であった国々の太鼓持ちでもない。エレミヤは諸外国(エジプト、モアブ、アンモン、バビロン)の末路も預言している。やがてエレミヤの預言どおり、ユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、エルサレムは陥落し、捕囚の民となってしまった。預言者、すなわち主はひたすらに忍耐して、一人も滅びることなく永遠の命を得ることを願っておられる。私たちも主の僕としてひたすらに福音を伝えて参りましょう。ハレルヤ! 中島聡主任牧師

nakajima on 11月 18th, 2019

ヨナ4:9~11

預言者であるにも関わらず、主の召命に背いて逃げ出したヨナ。本来ならば“失格者”として終わりであるが、しかし、そのヨナに関してそもそも聖書に一つの書巻が割かれている事自体に大きなメッセージと救いがある。

アミタイの子ヨナ。彼はエリシャに継いで、北イスラエル、ヤロブアムⅡ世の治世下において働きを為した。ヤロブアムⅡ世は悪王であり、国は非常に激しい苦しみを負ったが、主はヨナを通して、イスラエル領域の回復を告げ知らせ、その通りにされたのであった。では、そのように預言者としての勝利を与えられたヨナがなぜ逃げ出したのか。二つのことが考えられる。

当時、チグリス川上流域から強大な勢力をもってカナン地方にまで支配力を伸ばしてきたアッシリア帝国によってイスラエルは徹底的に抑圧されていたが、主は「レボ・ハマト(旧アラムの辺り)からアラバの海(死海)までの広大な領域」をイスラエルに取り戻させたのである(列王記下14:23-27)。その手法については記録されてはいないが、アッシリアの怒りは相当なものであったろう。そのアッシリアの首都ニネベに行け、と命じられたので、ヨナは怖じ気づいた。または、イスラエルの回復を告げ知らせる預言の働きは良いが、なぜ敵国アッシリアのために働かねばならないのかという憤りによって預言を拒否した。答えは、後者(4章1-3節にある通り)。ヨナが「ニネベを恐れた」とは一言もない。「主から逃れようとして」とある。敵のために預言せよ、さらには敵をも救おうとされる主が厭になったのである。

大嵐の中、悔い改め、自らを海に放り込めと言ったヨナ。溺死するところを大魚に助けられ、心の底から改心し預言者の務めを果たすと祈ったヨナは、陸地にあげられた後、直ちにニネベに向かった。そして主の命じられた通りに、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫びながら歩き続けた。その結果、なんとアッシリアの王自ら王衣を脱ぎ捨て粗布を纏って悔い改めを宣言し、灰の上に座して断食し、大臣も民も、国中が皆、悔い改め、主の救いに与ったのであった。ヨナはこのことが大いに不満であり、主から逃げ出した理由がずばりアッシリアの救済であったことをぶちまけた。一体、ヨナの悔い改めと改心は何であったのか。主はこの頑ななヨナに対して「とうごまの木」を通して、憐れみ、慈しみの心を教え諭された。預言者、主の用に仕える者の心得、それは先週のエリシャによるアラム兵の擁護に続き、憐れみであること、人はそれを失いやすいが故に日々、主日毎に主を拝し祈ることと示される。 ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

nakajima on 11月 11th, 2019

列王記下6:15~22  「朝早く起きて外に出て見ると、(アラム国の)軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。」敵軍に完全包囲される。四面楚歌、絶体絶命のような状態で、人は誰しも恐れを覚える。預言者エリシャは、この局面にあっても主に祈りを捧げた。彼の目には、「火の馬と戦車」=「万軍の主」が見えていたのである。エリシャは、主に祈って、アラム軍の目を眩ませ、自国サマリヤ(北イスラエル)の中心部にまで誘導した。立場が逆転したところで、イスラエルの王は、アラム軍を「打ち殺しましょうか。打ち殺しましょうか。」と言ったが、エリシャは、「打ち殺してはならない。あなたは捕虜とした者を剣と弓で打ち殺すのか。彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主君のもとに行かせなさい」と命じた。

実に2800年前のこの時代に、「ジュネーヴ(諸)条約」の名称で有名な戦時捕虜保護の原型を見る。ジュネーヴ条約は、クリミア戦争に従軍したナイチンゲールが敵味方の別なく傷病兵を看護したことから、1864年に赤十字国際委員会が、「傷病者の状態改善に関する第1回赤十字条約」を提唱し、国際条約として誕生したものである。確かに旧約聖書には「聖絶」の場面もあるが(預言者エリヤが850人の偽預言者を打ち殺した後、恐怖にかられて逃亡した記述と合わせ読んでも)、イエス・キリストがすべての律法と預言者は「神愛、自愛、隣人愛」に基づいていると言われたことを最も大切な教えとして受け継ぐべきことを示される(マタイ22:37-40)。

今日は、献児式・幼児祝福式だが、これは2000年前にイエス・キリストが幼な子を抱き上げ、手を置いて祝福されたことに由来している(*献児式は古代の祭司あるいは神殿に仕える者として子を神に捧げる“ナジル人”に由来している)。日本では戦後1956年5月5日に児童憲章が制定され、すべての児童が「人として尊ばれ、社会の一員として重んぜられ、良い環境で育てられ、…労働によって発育が阻害されず、虐待、酷使、放任その他不当な取り扱いから守られ、…愛とまことで結ばれる」ことが定められた。かつて、私たちの国も児童を戦争の道具として扱い、未成年者に特攻攻撃を命じてしまった歴史を忘れてはならない。主イエスが幼な子を祝福されたことを受け継ぎ、我が子を祝福するだけではなく、教会を通し、園を通して、隣人となった子どもたちの幸せを祈って参りましょう。ハレルヤ! 中島聡主任牧師

nakajima on 11月 3rd, 2019

列王記下5:9~14

エリヤから霊の賜物を受け継いだエリシャは預言者としての力を現していく。アラムの国にナアマンという、王に重用されている軍司令官がいたが、重い皮膚病に罹患した。その家にはイスラエル人の召使いの少女がおり、「イスラエルの預言者ならば治せます」とナアマンの妻に進言した。それを聞いたナアマンがアラム王に伺いを立てると、「行くがよい。」と言って、「銀10キカル(約340kg・約2400万円)、金6千シェケル(約68kg・約4億円)、着替えの服10着」を持たせて行かせた。更にイスラエルの王に宛てて「我が家臣を癒してあげてくださいますように」という親書を送った。

イスラエルの王はこの親書をイスラエル攻略の口実と受けとめたが(信仰が無かったが)、エリシャはナアマンを寄こすように言った。ナアマンが来ると、エリシャは使いの者をやって、「ヨルダン川に行って、七度体を洗うように」と言付けさせた。ナアマンは、「彼(エリシャ)自らが出て来て、私の前に立ち、彼の神の名、主の名を呼び、患部の上に手を動かし、病を癒してくれるものと思っていた」と憤慨し、去ろうとした。しかし、ナアマンの賢い家来が、「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりになさったに違いありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」と進言した。納得したナアマンは、「神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダン川に七度身を浸した」。すると「彼の体は元に戻り、小さい子どもの体のようになり、清くなった」のであった。

《神の人の言葉》。それは、今日では『聖書』に残されている。私たちは皆、魂の癒し、死への勝利を得なければならない。「ヨルダン川に身を浸すなら癒される。」軍司令官のような偉い人だからそうされたのか。否、この救いは、1千年の時を超えて、バプテスマのヨハネによって数え切れない人々にもたらされることになった。

「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。さらに、イエス・キリストによって、信じるだけですべての人にもたらされることになったのである。神の御子、イエス・キリストが私たちのために遣わされ、十字架に御身を磔られ、命を献げてでも私たちに告げられた「神の人の言葉」が、「ただ信ぜよ」、ただこれだけなのである。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録16:31)。あなたの信仰が、あなただけではなく、家族の救いとなっていく。クリスマスの洗礼式が真の祝福をもたらすのです。ハレルヤ!中島聡主任牧師

nakajima on 10月 27th, 2019

列王記下2:1~9

エリヤは見事、バアルとアシェラの偽預言者たちとの戦いに圧倒的な勝利をおさめた。ところが、女王イゼベルからの使者によって殺害予告を受けると、あろうことか恐怖にかられ、直ちに逃げ出してしまった。エリヤは荒野に入り、丸一日歩き続け、ついに疲れ果て、えにしだの木の下に座り込み、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と自死を願う始末であった。一体、あの戦いは何であったのか、万軍の主と共に850人を相手にひるむことなく勝利をおさめた信仰は何であったのか。大預言者エリヤであっても、多くの偽預言者の命を奪い、次は自分が“殺されるかもしれない”という恐怖に打ち勝つことはできなかったのである。私たちが旧約の聖絶から学ぶべきは、命を奪うことによって全うする信仰は無いということだ。

預言者としての使命を放棄したエリヤであったが、主はそんなエリヤに対して、御使いを送り、パン菓子と水をもって回復を与えられた。御使いによって力づけられたエリヤは、四十日四十夜歩き続けて神の山ホレブに辿り着いた。すると「エリヤよ、ここで何をしているのか」という主の声が聞こえた。エリヤは、イスラエルが主との契約を捨てて、預言者を殺してしまったこと、そんな中でも一生懸命に主に仕えて来たこと、ついに自分一人だけになってしまい、命を狙われているので逃げてきたことを訴えた。主はエリヤに、①山を裂き、岩を砕くような激しい風、②地震、③火を見せられた。どれも激しい力を持つものであるが、そこに主はおられなかった。④最後に「静かにささやく声」が聞こえた。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。エリヤは先と全く同じように自らの窮状を訴えた。すると主は、来た道を引き返してダマスコの荒れ野に向かい、そこでハザエルに油注いでアラムの王とし、イエフに油注いでイスラエルの王として、さらにエリシャに油注いで自分の後継者にするように命じられた。

エリヤは二度、同じ窮状を訴えた。しかしもはや絶望は口にしなかった。主はエリヤにバトンタッチを言われた。実はこれが一番難しく、力の要る仕事である。主は、エリヤにその力を与えられた。そして、さらに七千人の味方を与えられた。エリヤは一人ぼっちと思い込んでいたが、主の民は大勢いるのだ(使徒言行録18:10)。主の民、兄弟姉妹、祈りと力を合わせて主に仕えるがハレルヤ!   中島 聡主任牧師

nakajima on 10月 27th, 2019

詩編121:1~2

人には得意なこと不得意なことがそれぞれあります。不得意なこと、嫌なこと、苦手なことをどのようにやり過ごしていますか?私は本当にぐずぐずしています。逃げ切れないのはわかっているのに早めに準備することができません。いつもぎりぎりになってしまいます。やらない理由やできない理由を探していますし、先延ばしにできる可能性をいつも探っています。自分のそんなところが嫌いです。 なんとかごまかそうとしてもごまかしきれるものではないし、逃げ切れることでもないとやっとわかってきました。

課題はよく壁にたとえられます。壁に遭遇したときあなたはどうしますか?一般的には「乗り越える」ことが正しい対処でしょう。しかし、他にやり方は無いでしょうか?できればユニークでやってみると面白そうなものや、自分の得意なやり方でいいと思います。たとえば、はしごをかける 飛び越える、壁が切れるまで遠回りしてみる 穴を掘ってくぐり抜ける いっそのこと力任せにぶちこわす。考えると楽しくなってきます。そうすると後は具体的にどうすればそうなるのかを考えることもできます。私は想像で逃げ切る事や、夢のように魔法が使えて物事が完成したり、別人になって知らん顔で通り過ぎることを思い浮かべます。考え尽くすと「そうはいかないよなあ」とやっとあきらめて課題や仕事の〆切とやっと向き合うのです。このぐずぐずやぐだぐだは最早私にとって儀式です。あきらめることからのスタートです。

さて、本日の聖書です。この詩の語り手は、目を上げて、山々を仰ぎ、不安な心で「わたしの助けはどこから来るのか」と問うています。語り手は親しい家族や知人と別れ、これから一人で旅立とうとしていました。それは決して安全な旅ではありません。追っ手が迫る命がけの逃亡です。険しい小道や深い淵や谷間を歩き、野獣と盗賊の潜む山々を越えて旅をしなければなりません。そのことを思う時、愛する家族や知人との別れは辛く、助けを切に求めずにはおれない不安な心境であったことでしょう。

この詩人は、そんな不安な気持ちを抱きながら、山を見上げ、これを創造された神に目を向けました。するとその時、山々がどんなに危険に満ちていても、どんなに多くの困難が待ち受けていたとしても、神がその一切を創造されたのであれば、神はこの歴史をも支配し、わたしの困難、危険からも助けることができるはずではないかということに気づかされたのではないでしょうか。そうだ、誰もこのわたしの不安な気持ちを和らげてくれることは出来ないけれども、今解決方法は無くて逃げることしかできないけれど、しかし、「わたしの助けは主から来る」のだという強い思いです。

現実の困難にだけ目をむけ、そこに目を奪われて生きている人には、自分に向けられている神の助けを見ることはできません。あきらめて途方に暮れて、それでもたった一つ、私たちを創られた神様を見上げる時に希望があるのです。

次の3節では見守るという言葉が用いられています。 原語では「シャーマル」と言いますが、語源をみていきますと、「目を注ぐ」の他に「愛する」という意味があります。見守るということのその心は愛すること。愛するとは見守ることです。

あきらめの果てに神様を見上げる時、神様が私を見守ってくださっていることに気づくのです。神様の見守りの内に立ち上がるとき、私たちは希望に満ちた一歩を踏み出せるのです。中塚詠子敬和学園高等学校長

nakajima on 10月 13th, 2019

列王記上18:30~40

主の預言者を迫害するアハブ王、イゼベル女王の下、偶像崇拝がはびこるイスラエルにおいて、エリヤは敢然と戦いを挑むことになった。それは単身エリヤと王宮に召し抱えられた450人のバアルの預言者、さらに400人のアシェラの預言者との戦いであり、到底、勝利を望み得ない状況であった。しかし、荒野の40年を彷彿とさせる干ばつの危機にあって主に守られたエリヤは、最強のエジプト軍を退け、イスラエルを守り抜かれた万軍の主が我が主であるとの確信に立って、どちらの神が真の神であるかの戦いを挑んだ。

その戦いはカルメル山において繰り広げられることになったが、そこにはイスラエルの民も集められていた。皆、主の救い・出エジプトの恩寵に与ったものの末裔であったが、600年の時が経過し、すでに真の神を見失ってしまっており、エリヤに味方する者は誰もいなかった。

エリヤは祭壇の犠牲の供え物に天から火を降らせることができる御方が真の神だと戦いを挑んだ。バアルの預言者もアシェラの預言者も半狂乱の体で祈り叫んだが、無論、火は降らなかった。しかし、エリヤが「アブラハム、イサク、イスラエルの神」に祈り求めると、天からの火が犠牲の供え物も、祭壇の周囲に満たされた水もすべて焼き尽くした。「これを見たすべての民はひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です』と言った。」四面楚歌、絶体絶命のような状況であったが、エリヤは、信仰によって、まず主の勝利を預言した。

「神に感謝します。神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」(Ⅱコリント2:14)。主は私たちを勝利に導かれるまで、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消されない御方です(マタイ12:20)。今、困難と試練にあっても、「私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(Ⅰコリント15:57)。ハレルヤ!  中島 聡主任牧師

列王記上17:8~16

列王記上17章は、エリヤにまつわる3つの奇跡が記されており、この三奇跡は、聖書全体にわたる救済史の縮図であり、預言者として歩み行くため、信仰の戦いを戦い抜くために大切なことは何であるかが示されている。

①1-7節。数年の間、露も雨も降らない試練は、「荒野の四十年」を経て救われたイスラエルを表している。数羽の烏が朝に夕にパンと肉を運んできたとは、マナと鶉(うずら)を彷彿させる。干ばつにおける川の水は、エリムの十二の泉、マサとメリバの水(出エジプト記15:27、17:1-7)であって、たとえ自らの失態が招いた試練であっても、主は主に信じ従い、執り為す者=預言者がいれば、民を助けてくださることが記されている。

②8-16節。窮乏はなお続くが、一人の寡婦によって養われる。寡婦は残り僅かパン一切れを作るだけの小麦粉と油しか持っていなかったが、エリヤにそれを捧げたところ、壺の粉、瓶の油は尽きることなく幾日も食べ続けることができた。ここで余りの寡婦の窮状に注目する。寡婦は息子と最後のパンを食べて、あとは死を待つばかりだった。その悲惨が、残り僅かを捧げたことにより祝福に変えられた。これは、「五千人、四千人の給食」を彷彿させる。数万人の民が食事も持たずにいた。これがどんなに悲惨な状況であるか。福音書は「群衆を見て深く憐れみ」とイエス様の心情を明かにしている。ルカでは「飼い主のいない羊のような」(放っておけば死んでいく)人々と憐れんでいる。この群衆、ほとんどがイエス様の癒しの奇跡を求めて来ている。病に苦しみ、食べるに事欠き、そんな人たちが数万人いる。弟子達もどうしようもない状態であったが、たった一人の少年が弁当を捧げると、主はそれを祝福され、皆の腹を満たされたのであった。

③すべて万事上手く行くと思いきや、一人息子が死んでしまい、母は絶望の淵に立たされる。しかし、エリヤが子どもに三度身を重ねると生き返ったことは、イエス・キリストの十字架と復活を予兆している。弟子達も一度は、イエス様の十字架で絶望したことだろう。母の「あなたの口にある主の言葉は真実です」と告白して17章は終わる。百人隊長は十字架のイエス様から救い主を確信した。またマリヤをはじめ、弟子達も復活の主を確信していった。信仰、預言、伝道にとって大切なことは、試練にあっても、絶望にあっても、ひたすらに主の臨在と導きを信じて主に従うことである。ハレルヤ!  中島 聡主任牧師