「人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」ミカ書6章8節

今年度はCOVID-19によるパンダミックが私たちの世界を覆いました。しかし、神様は私たちを貶めるために苦難や試練を与えられるお方ではありません。「ヤハウェは救い」という名のイエス様が、私たちのためにこの世に来られました。それは、神様がどんなに私たちを愛しておられるかをお示しになるためです。その愛はイエス様の生き方、死に方、復活をみればわかります。イエス様の人生、存在そのものに神様の愛、どれだけ私たち一人一人を愛し、救おうとなされているか、神様の自己犠牲の愛が溢れていることでしょうか。

これだけの愛を示し続けられる神様に対し、受胎告知を受けたマリアはへりくだり、神様のご計画がなされることを願います。常識的に考えて、婚約はしていても未婚の母となることを受け入れるということは並大抵のことではありません。

ですが、このような困難を受け入れ、神様の祝福に至った人々はマリアだけでなく、聖書にはたくさん登場してくるわけです。そして、どの登場人物も神様の言葉を受け入れた結果、彼らは大いに祝福され、恵みを与えられていきます。マリアをはじめ、神様からの祝福を受けた聖書の登場人物たちの共通点には「へりくだる」姿が見て取れ、その大切さを私たちに教えています。

しかし、どんなに立派な信仰者だとしても、やはり不安というものはつきものです。しかし、その不安なかにあっても神様は「共におられる」と何度も何度も励まし、支えてくださるのです。そして、共におられるために神様はイエス・キリストをお遣わしになり、私たちの苦しみや悲しみを共に担ってくださったのです。私たちの痛みを知っておられる神様がいる、そこにこそ神様の愛があり、私たちの希望の光があるのです。田中尚美伝道師

nakajima on 11月 22nd, 2020

『神の器には赦しと祝福が入っている』  創世記45:1-8

一族を牽引していくことになる族長は、①必ず主の祝福の宣言を受ける。②しかし、人は祝福の真の意味がわかっていないので、罪ゆえにひどい試練に遭う。③しかし、それでも主は人をお見捨てにはならず祝福し続けてくださる。④主はいかなる時にも我と共におられるとの信仰に至った人は試練を乗り越えることができる。⑤大いなる祝福に与り、族長となることができる。

大切なことは、試練の中にあっても祈り続ける、信じ続けることができるかどうか、そして祝福の真の意味に気づくことができるかどうかである。

ヨセフは、無罪となる給仕長の夢を解き明かした時には、間髪入れずに自己保身を懇願し、「わたしのことを」、「わたしのために、…わたしの身の上を」、「わたしは無実です!」と何度も自分のことを繰り返した。一方、死罪となる料理長の時には、何の訴えもせず、アドバイスの一つもしていない(40:12-23)。ヨセフは17年経って、まだ族長となるに相応しい器になっていなかった。しかし、ここからの2年間、「忘れ去られる」という最も過酷な試練の中で著しい成長を遂げる。

最後の2年間で練り上げられたヨセフは、ファラオの夢を解き明かした時には、自身のことには一言も触れずに、ただエジプトの救国策を進言したのであった。余りに見事なヨセフの立ち振る舞いにファラオは宰相の地位を与えて、ヨセフを王に次ぐ者として重用した。

この世的に見るならば、ここが祝福のピークと思えるだろう。自らの地位に酔いしれて神を忘れるかもしれない。しかし、信仰による祝福はそうではない。兄たちとの和解、そして、一族を守り導くことにある。劇的な再会を果たしたヨセフは、兄たちを赦し、そして、一族をエジプトに呼び寄せ、皆に祝福を分け与えたのである。

一つ、解せないのは、末弟ベニヤミンだけへの好遇である。兄たちには晴れ着を1枚ずつ。しかし、ベニヤミンには晴れ着を5枚に銀貨300枚をあげたとある。そして、兄たちに「争わないでください」と言っているが、そういう身贔屓が一族の不和、争い、試練を生み出してきたにも拘わらず、また繰り返すのである。これが人の姿である。

キリストは、自らの衣を引き裂かれながら、全ての人に祝福、永遠の命を与えて下さった。ここに私達が仰ぐべき真の族長がおられる。いよいよアドベントが近づいてきた。救い主をお迎えする備えに仕えて参りましょう!ハレルヤ!  中島 聡牧師

nakajima on 11月 15th, 2020

創世記41:25-36

ヤコブの苦節20年と同様、ヨセフも17歳から30歳まで奴隷と囚人として、試練の時を過ごした。そして、ヤコブが「神との格闘」という最後の試練を戦い抜いたように、ヨセフは良き働きを成したにも関わらず2年間も「忘れられる」という試練を耐え忍んだ。

自暴自棄になってもおかしくはないが、「神、我らと共にいまし」という信仰の根本を会得していたヤコブもヨセフも、この世的には苦しみの道であったが、神が備えていてくださる恵みに満ちた「天の道」を歩み続けたのである。「天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:9)。

見事、ファラオの夢(7年の大豊作の後に、それらのすべてを呑み尽くす7年におよぶ大飢饉が襲う)を解き明かしたヨセフは、自らの処遇について一言も発せず、ただ国民の救済策を進言した。この姿勢、信仰に心打たれたファラオは、ヨセフにエジプト宰相の地位、最大の厚遇を与えた。

かつて神から与えられた賜物と祝福を何も生かさずに、高慢な生き方をしていた青年が、その賜物と祝福をもってして世のため人のために仕える賢者となったのである。

やがて大飢饉はエジプトのみならず中近東一帯に広がり、カナンの地に住むヤコブの息子たちもエジプトに食糧を求めてくることになった。かつて自分を殺そうとし、奴隷に売ろうとした兄たちと劇的な再会を果たしたヨセフは、兄たちの悔い改めをしかと確かめた後、権力をもって如何様にでもできた兄たちを許し、和解したのであった。

まさに「神の器」である。がしかし、人は人である。

兄たちと末弟ベニヤミンをカナンに一度帰らせる時、ヨセフは全員に馬車、道中の食糧、晴れ着を与えたが、末弟のベニヤミンだけに「銀三百枚と晴れ着五枚を与えた」とある。父ヤコブのために「エジプトの最良のものを積んだろば十頭と、穀物やパン、必要な食糧を積んだ雌ろば十頭を贈った」のは分かるが、ベニヤミンへの好遇は理解し難い。ヨセフは「途中で、争わないでください」と言ったが、兄たちも釈然としなかったろうが、もはや何を言える立場でもないのでどうしようもない。一族の争いの元は常にそこに、一部の者への身贔屓にあったのに、人はそこを改めることができない。神の愛によってのみ、神の器は造られ、完成される。すべての人の救い主とは、どんなに深い神の愛のゆえであるかを示される。私たちはその神の愛によって救われた。ハレルヤ!中島 聡牧師

nakajima on 11月 8th, 2020

創世記37:18-27

創世記のほとんどを占める族長物語の特徴は、①神が選ばれた者に先ず祝福が宣言される。②選ばれた者は必ずとんでもない試練に遭う。③神と共に試練を乗り越えて祝福が与えられる。

「必ずとんでもない試練に遭う」というと、何か理不尽な気がするが、いずれも自業自得、人の罪が原因で試練に遭うので、むしろ、罪によってどんな試練に遭おうとも神共にいまして、信仰によって乗り越えることができるというメッセージであることに気付かされる。

ヨセフの場合は、恵まれた境遇、賜物、祝福のお告げに関して遜ることがなかった。兄たち、家族に対して、少しも気を遣うことができなかった。ヨセフを妬み、殺そうとし、奴隷に売ろうとした兄たちも確かに非道い。要は、兄弟揃って全く祝福の意味が理解できていなかった、信仰が育っていなかったのである。

その結果、兄たちはヨセフが獣に襲われて死んだことにしてしまい、ヨセフは遙かエジプトに奴隷に売り飛ばされてしまった。最悪の状態である。しかし!神はそれでもヨセフと共におられて、ヨセフを祝福し続けられるのである。しかして、ヤコブが叔父ラバンのもとで苦節20年、何度騙されても働き抜いたように、ヨセフも奴隷として、また囚人として働き抜いたのである。神の祝福とは決して“棚から牡丹餅”ではない。祝福を受け継ぐ者は、とんでもない試練、時に命懸けの試練を乗り越えていく者であることが示される。

ヨセフは給仕長と料理長の夢を解き明かし、その見返りに釈放を懇請したが、なお2年の間、忘れ去られ、働き続けることになった。そして、ファラオの夢を解き明かすために王宮に連れ出された時、ヨセフを三十歳になってしまっていた。彼は青春時代のすべてを奴隷と牢獄で過ごしていたのだ。普通なら自暴自棄になるところであるが、主が共におられるとは、どんな苦境にあっても前向きに生きていけることと示される。それが信仰の力、祈りの力、讃美の力なのである。

「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:12-13)

神は御自身の命を献げる、愛する独り子の命を献げるという耐えられない試練に立ち向かわれた。私たちを祝福するため、私たちに永遠の命を与えるためである。なんという喜び、感謝をもって伝道へ!ハレルヤ!中島 聡牧師

nakajima on 11月 1st, 2020

創世記32:23-31

ヤコブはエサウの長子の特権を取るだけではなく、一族の祝福もエサウになりすまして騙し取った。しかし、当然のことながら兄の憎悪と殺意を買い取ることになり、母方の叔父ラバンのところに逃亡することになってしまった。そこでは逆にヤコブが叔父に騙される人生を送ることになった。しかし、ベテルにおいて、石を枕にしながら神と出会って回心したヤコブは、厳しい条件もいとわずに、愚直なまでにひたすらに働き抜いたのであった。

苦節二十年、ついに「故郷に帰れ」との神の声(創31:3)を聞いたヤコブは、家族と主が祝福してくださった財産を携えてカナンの地を目指した。

故郷に近づき、いよいよ明日には兄や母と再会するという前夜の出来事。ヤコブは神と格闘(命懸けの組み打ち)を果たした。途中、神はヤコブの腿の関節を外したが、それでもヤコブは格闘を続けたとある。股関節を脱臼してなおも戦い続けるヤコブの根性には驚かされる。

すでにヤコブが二十年の労働の末に得た財産は山のように成っていた。もしヤコブが「祝福」を財産だと思い違いをしていたら、ここまで必死に戦いはしなかっただろう。

祝福とは一族皆の幸せを願い、さらにその祝福を次の者に手渡していくこと。真の祝福とは揺るぎない信仰の内に生きることと悟ったヤコブは、神にしがみついて祝福を願ったのであった。すなわち、揺るぎない信仰は人の力によるものではなく、神によってまさに祝福として与えられるものなのである。

ヤコブは見事に神に祝福され、「イスラエル」という最高の称号を名乗ることが許された。最初は「わたしはエサウです」と偽りの人生を歩もうとした男が、「わたしはヤコブです」と正直に生きる者となり、主の祝福によって遂に「イスラエル」となったのである。

では、イスラエルとは何か?最高権力者か?王者か?

ヤコブは、兄エサウと再会した時、自分のことを「あなたの僕」と名乗った。ここに答えがある。「イスラエル=皆の祝福を受け継ぐ者」とは、一番大きな力を持っているのに、皆の幸せのために僕になることができる者である。

「あなたがたの間で頭になりたいと思う者は、全ての人の僕とならねばならない。人の子(イエス・キリスト)が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人の贖いの代価として、自分の命を捧げるためである。」(マルコ10:44-45)。イエス様は皆に永遠の命の祝福を受け継がせて下さった。ハレルヤ!中島 聡牧師

nakajima on 10月 25th, 2020

創世記28:10-22

ヤコブはエサウの手から逃れた最初の夜、不思議な夢を見ました。それは天にまで達する梯子、階段の夢でした。しかも、地上から天に向かっているのではなく、天から地上に向かって伸びていたというのです。

私が初めて遣わされた教会には「ヤコブの井戸」と名付けられた井戸がありました。初代の先生の時代に掘られ、現在でも教会を始め、地域の方々がその井戸からの水を活用しています。

それとはまた別に、会堂建築をした際、教会の建物に塔を作り、そこにステンドグラスを取り付けました。その中にはメンテナンスをするために梯子が取り付けられましたが、そちらは「ヤコブの梯子」と命名した事を思い出します。もちろんそれは何の変哲もない普通の梯子でしたが、今日開かれた創世記の箇所に基づいています。

普通の梯子はおおよそ下から上に登るためにかけられますが、ここではそれが逆さまになっていました。それは天と地上を繋ぐ梯子であり、天から遣わされるお方を象徴する、そんなビジョンでした。これは、この地上に神さまが臨まれることを現す出来事です。

ヤコブは目を覚ますと、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(28:17)と畏れを持って告白しました。

この出来事はヤコブにとって一大転機となったでしょう。これまで彼はその「ヤコブ」と言う名前の通り、「押しのける者」として歩んでいました。兄を押しのけ、神さますらも押しのけるようにして自分こそが一番、との思いを持っていたことでしょう。

けれども神さまはそんなヤコブを訓練し、整えました。自分の知恵に頼ることをやめ、おのが無力を知るとき、神さまの働きが見え、神さまがその場所におられることを悟れるのです。

そして彼は「イスラエル」へと変えられていきます。まさにその神さまの鍛錬が、この天からの梯子の出来事から始まりました。そしてその出来事は、さらにイエス・キリストへと繋がっていくこととなります。そのような主と出会う場所は教会であり、礼拝です。神の家たるこの場から私たちも遣わされて行きましょう。ハレルヤ! 片平貴宣牧師

nakajima on 10月 20th, 2020

創世記27:11-17

アブラハムに与えられた大いなる祝福は息子イサクに継承された。百歳で与えられた子、犠牲の供え物として献げるように命じられ一度はあきらめたが生かされた子、さぞ愛おしく、主に感謝の祈りの内に育てられ、祝福が受け継がれた。

そしてイサクから祝福が継承される時がやってきた。双子の息子エサウとヤコブは、イサクが六十歳の時に主に祈って与えられたものであり、さぞ可愛がって育てたことであろう。

当時、家父長制の時代にあって祝福は長子のエサウが受け継ぐことになっており、死期を悟ったイサクはエサウを枕元に呼び、エサウの狩猟による手料理を食べ、エサウを祝福すると告げた。しかし、イサクの妻リベカがこれを聞いていて、兄エサウが猟に出ると、あろうことか弟ヤコブを唆して、祝福をだまし取らせることにした。すでに兄エサウから長子の特権を奪い取っていたヤコブですら、「父がわたしに触れれば、毛深い兄と柔肌のわたしではさすがにバレてしまう。そうすればわたしは祝福どころか呪いを受けてしまう」と尻込みしたが、母は「万が一の場合は、その呪いを私が引き受ける」とけしかけた。

この時、すでにイサクは目がかすんで見えなくなっており、母リベカと弟息子ヤコブの策略によって祝福はヤコブにだまし取られることになってしまった。

最初は尻込みしていたヤコブであったが、誰かと訊かれれば、「お父さん、エサウです。」と答え、「どうしてこんなに早く仕留められたのか」と訊かれれば、「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったのです」と神の名まで騙り、祝福を奪ってしまったのであった。

おそらくイサク家の財産はそれほどまでに素晴らしい、すごいものであったのだろう。しかし、主の祝福とは決して“モノ”ではない。人はどうしても“モノ”を見がちであるが、真の祝福、最高最大の祝福はイエス・キリストであって、すでにすべての人に与えられている。信じて受け継ぐ者はなんと幸いなことであろう。主の賜物に主の力、永遠の命までも与えられるのである。真にハレルヤ!  中島 聡主任牧師

nakajima on 10月 11th, 2020

創世記22:11-18

「主はアブラムに言われた。…『わたしはあなたを

大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。…地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」

神はアブラムを選び出し、大いなる祝福の源とされた。彼は後にアブラハムとなり、預言の通り、今日に至るまでその名は世界に知られ、祝福に入る者は今もなお増え続けている。

なぜアブラムであったのか?その理由は一切記されていない。ここに、祝福と救いは神の一方的な選び、恩寵によってもたらされることが示される。

では、選ばれない者はどうなるのか?神の御子イエス・キリストも「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)と言われた。普通は、救いに相応しい者が選ばれるだろう。しかし、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とあるように、信じるだけで、「永遠の命」という最高の祝福に選ばれるのである。

アブラハムは、「生まれ故郷を離れ旅に出ること」と、「一人息子のイサクを献げること」が祝福の条件として課せられた。“生まれ故郷”とは、人間の価値基準による判断(死んだら終わり)からの旅立ちである。“一人息子を献げる”とは、本来、人が神から祝福を与えられる、或いは神の怒りを宥めるには“供え物”が必要であり、祝福や宥めが大きければ大きいほど、大きな供え物が必要なのである(人身御供が最たるもの)。しかし、実際には「一人息子イサクの奉献」は免除され、神が身代わりの羊を与えてくださったように、私たちが最高の祝福を受けるために、神の独り子イエス・キリストを身代わりの犠牲の供え物として十字架に架けてくださったのである。Amazing Grace!まさにおどろくべき愛である。

この神の愛を信じて、私たちは信仰に入っていく。そして、信仰による祝福を与えられ、その喜びに満ちて、私たちは献身し、今できる伝道に仕えていくのである。ハレルヤ!  中島 聡主任牧師

nakajima on 10月 4th, 2020

ヘブライ人への手紙11:16

ヘブライ書11章は、旧約聖書に登場する代表的な人物達の姿から、信仰とはなんたるかを説いています。アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ等々、名前を聞けば誰もが知っている信仰の偉人達です。

「信仰の人」と言われた彼らには共通している事柄があります。それは「神さまの約束を信じる」という姿勢です。未だ実現していない神さまの計画を示されたとき、彼らはそれを信じ、従いました。

見えない神さまを第一としたアベル、神さまに喜ばれて生きた故に死を見ずに天に移されたエノク、神さまの計画を信じ箱船を作ったノア、約束の土地と甦りを信じたアブラハムとイサク、神さまの約束にしがみつきイスラエルとされたヤコブ等々、見えないものに希望を置いて歩んだのです。

そのような人々の姿勢から、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)と語られています。彼らは神さまの約束を示され、地上においてその約束の実現の一端を見せられました。

けれども神さまの約束の本当の素晴らしさは、この地上の命が終わってもなお続いている、いやむしろそちらの方が本編だという事でしょう。

信仰の偉人達は地上での命を終え、天へと移されました。私たちにもいずれその時が来るわけですが、天の御国こそわたしたちの本当の故郷であると聖書は約束します。

天国の素晴らしさについて、良く冗談のようにこう言われます。「天国はよっぽど良いところなんだろう。帰ってくる人がいないんだもの。」

主イエスも度々、天国について語られました。婚宴のように喜ばしく、見いだすならば他の人々にも喜びが及び、整えられた住まいがたくさんあるところ、それが天国です。この、未だ見ていない約束を私たちも信じられるでしょうか? 神さまの約束に、信仰を通して目を向けていきたいと願います。ハレルヤ!

片平貴宣牧師

nakajima on 9月 27th, 2020

創世記11:1-9

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。…ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、…信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」(ヘブライ11:1-7)

ノアの信仰によって、人類は大洪水の裁きを生き延び、再び神の祝福を受け、地に増え広がった。しかし、またしても人の心に、不信仰が満ちることになってしまった。「天まで届く塔のある町を建てて有名になろう。」人生の目的、目標が神への信仰ではなく、高慢な自己実現へとすり替わってしまったのである。

今日、信仰は、第一に主日礼拝によって現される。主の招きに感謝して礼拝堂に集い、主を讃美し、主の言葉に聴き、福音宣教へ遣わされていく。礼拝、教会において高められるのは神の御名であり、私たちではない。私たちは自らを低くして主と教会とに仕える者である。

「そして、全地に散らされないようにしよう。」 私たちは、自分たちが安心して集えるためだけの教会を建てているのではない。私たちは“教会を高くする”ためではなく、教会の敷居を低くし、多くの人々が教会に来ることが出来るようにしていかねばならない。信仰によって教会の外に出て福音の種を蒔いていかねばならない。

「彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」信仰共同体において時に混乱のおこることもある。静まって祈り、各々の心に高慢な思いがないか省みる必要がある。主が中心におられるのではなく、皆が自己中心であったとしたら、たとえ同じ国語であったとしても話しは通じない。塔の建築に携わっていた人たちは、言葉が通じないことでちりぢりになってしまった。もし、塔に込められた願いや想いが自己中心的な欲でなく、皆の幸せを願ってのことであったなら、きっと手話にたどり着き、建築は続行されたことであろう。

「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:15) 教会は、真理を語る時こそ、愛=アガペの愛、キリストに根ざして語らなければならない。そして、何を目的とし、目標としているのかを忘れてはならない。それはキリストに向かって成長することである。

私たちのために十字架を背負って仕えてくださったキリストを目指して互いに仕え合って参りましょう。ハレルヤ!中島 聡主任牧師