ヨハネによる福音書19:28-37

新型コロナウィルス感染防止対策のため、4月中の礼拝をお休みいただくことをお奨めしています。言うまでもなく信仰者にとって礼拝は命にも等しいものでありますが、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ福音書15:13)の御言葉に立ち、今、感染によって大きな苦しみと痛みを負うことになる方々を少しでもくい止めることができますように祈り、「自粛するという奉仕」に仕えて、礼拝のお休みをお奨めいたします。

病とたたかっておられる方々、多くの人々のために今もなお働きを継続しておられる医療、福祉、学童、保育所、公共機関等々の方々のために、そして、一日も早い収束、治療薬ワクチンの開発のために、再び安心して礼拝、祈祷会を共に守れる日が来ますように祈って参りましょう。

イエス・キリストの受難と十字架の死は、全て「救いの預言」、すなわち天地万物を創造された神意(わたしたちの全てを祝福する)の成就のためであった。

・子ろばに乗ってエルサレムに入城される:ゼカリヤ書9:9「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。」

・不当裁判における沈黙:イザヤ書53:7~9「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」

・十字架のイエスを嘲笑、罵倒する人々:詩編22:8-9「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」

・イエスの着物をくじで取り合う兵士:詩編22:18-19「骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」

・骨を折られず、脇腹を突き刺される主:詩編34:21「骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる。」、ゼカリヤ書12:10「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」

・絶望の主:詩編22:1「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」

これだけの受難、十字架の死の痛みと苦しみが、ただひたすらに私たちを生かすため、私たちのすべてを赦し、永遠の命を与えるためであったことをもう一度、心に刻み、感謝と喜びをもって主を礼拝し、福音に仕えて参りましょう。

イザヤ書53:5,12「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。…彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。」ハレルヤ!

nakajima on 3月 29th, 2020

ヨハネによる福音書15:11-17

「わたしはまことのぶどうの木」、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。珠玉の聖句である。

「いかに幸いなことか、…主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1:1-3) 旧約聖書からずっと受け継がれる主の祝福と恵みの教え。

詩編では「主の教えを愛せよ」とあるが、福音書では、「主に繋がっていなさい」とある。どちらも根源的には同じであるが、救い主イエス・キリストによって“律法は破棄”され、ただキリストの神意・真意、「インマヌエル=神、我らと共にいます」を信じなさいと説かれる。確かに、福音書でも「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」、「わたしの父の掟」、「わたしの掟」とあるが、これらはすべてアガペの愛、主の愛を指している。

信仰とは実に明快。主から離れては「外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」当然である。私たちには罪を赦す力も、死に打ち勝つ力も無いからだ。しかし、主に繋がるならば、望むものが与えられ、豊かに実を結ぶようになるのである。まさにハレルヤ!

いったいなぜ、主は「ぶどうの木」、豊かな実り、永遠の命の源となってくださるのか。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」信仰とは実に有り難いものである。主は私たちが喜びに満ちることを願っておられるのである。

12節「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」上述の通り、主の掟は律法ではない。愛し合うとは、究極、「友のために自分の命を捨てる」ことだ。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」主の選び、任命は常に祝福と恵みに満ちている。新年度に向かって主の召命に従って参りましょう。ハレルヤ!

ヨハネによる福音書13:12-20

ガリラヤのイエス、サマリアのイエス、ベタニアのイエス、そして、「洗足のイエス」。私たちの信仰するイエス・キリストの真実がここにある。全知全能、天地万物を創造された主が、弟子たちの足元にひざまずき、奴隷の仕事とされる洗足をなされた。当然、弟子たちは困惑したが、イエス様は十二弟子全員の足を洗われた。それは、弟子たち、私たちを、「愛して、この上なく愛し抜かれた」からである。

イエス様は、この後、弟子たちが皆、自分を見捨てて逃げ出していくことをご存知である。イスカリオテのユダが裏切ることもご存知である。しかし、愛し抜くのである。これが人には為し得ぬアガペの愛である。

礼拝とは、主イエスに招かれ、アガペの愛によって聖なる者とされ、永遠の命の祝福をいただく場であり、その首座はイエス・キリストであって、人の価値基準によって左右されてはならない。ペトロが「決して私の足など洗わないで下さい」と言ったが、まさに人の価値基準である。弟子の足を洗い、すべての人の僕になるとは、直後におとずれる十字架をも象徴している。イエス様は、私たち全ての人の下になって、当時の罪人の中でも最も下となって、十字架において犠牲となり、私たちを救われたのである。

そして、弟子たちに言われた。「師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」アガペの愛を受けた私たちが為すべきこと、それは互いに足を洗い合う、すなわち互いに仕え合うということである。そのようにして、信仰と教会とが成り立っていくのである。

そして、さらに言われた。「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方(父なる神)を受け入れるのである。」主によって遣わされる者、牧師、役員、信徒、すべて主によって遣わされている者である。キリストを受け入れる、お迎えする信仰によって、はじめて礼拝が、教会が成り立つ。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3:20)。戸を開け、主をお迎えし、礼拝を捧げて参りましょう。

nakajima on 3月 16th, 2020

ヨハネによる福音書12:1-11

『ガリラヤにおけるイエス』、『サマリヤにおけるイエス』、『ベタニアにおけるイエス』…、これらの言葉から、イエス様が決して、エルサレム神殿、至聖所、玉座を目指しておられなかったことがよく分かる。

ガリラヤ湖。イエス様の弟子の筆頭格は、当時、祭司や律法学者から比べものにならないぐらい社会的地位も学歴も低く、神殿や会堂で礼拝を守ることもなかった漁師たちであった。サマリヤ。元々はイスラエルと同根であるが、当時のユダヤ人が蔑視していた地であった。ベタニア。そこには隔離を余儀なくされた重い病のラザロがいた。そして、「香油注ぎ」がおこなわれた場所でもある。

エルサレム入城を前に、イエス様はベタニアにおられた。「そこには、死者の中からよみがえらせたラザロがいた」、そして、「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた」。ルカ福音書10:38-42によれば、マルタは「わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝うようにおっしゃってください」と不平を漏らしていたが、実に素直に、「給仕をしていた」と記されている。イエス様は、「必要なことはただ一つだけである」と教えられ、マルタは、自ら給仕を選んだのだ。そこには、喜びと誇りがあると思わせられる。そして、マリヤは、以前は話を聞くことしかできなかったが、今、イエス様の足に香油を注ぎ、自分の髪でその足をぬぐうという献身をなしている。マリヤがイエス様の十字架を予見していたとは信じ難いが、イエス様は、「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから(葬りの準備をしてくれた)」と言われているのを見ると、弟子の誰一人として理解できていなかった、イエス様の御子としての意義~十字架に架かって命を献げることによって全ての人の罪を贖い、永遠の命を与える~を悟っていたのかも知れない。

この時、弟子達、特にイスカリオテのユダは憤慨して、「三百デナリオン以上で売って貧しい人々に施すことができた」と彼女を非難した。過去のマルタのなら同様にマリヤを非難したことだろう。しかし、今、分かっていないのは弟子たちである。

信仰の真実。それはイエス様は私たちの救い主であること。その恵みによって互いに、主によって祈りの内に示されたことを全力で成し遂げることである。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(エフェソ5:21)ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

マルコによる福音書11:1-11

イエス・キリストのエルサレム入城。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。」民衆はすでに数え切れない癒しの奇跡、祭司、律法学者、ファリサイ派、サドカイ派を相手に一歩も引かない、否、はるかに凌駕する聖書の読み解き、説教を耳にしていた。ローマの圧政に苦しむ民衆は、エリヤの再来、最高の預言者、救い主メシアとしてイエス様を迎えようとしていた。

「ホサナ!主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ!」しかし、白馬ではなく、子ろばに跨って入城されたように、そして、エルサレム城内に居座るのではなく、拠点はベタニアであったことから(イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。翌日、一行がベタニアを出るとき)、イエス様の眼差しは、神殿でも至聖所でも玉座でもなく、自らを犠牲の供え物として捧げるゴルゴダの丘に向けられていたのである。

ベタニアとは、マルタとマリア、そしてラザロがいた地であり(ヨハネ11:1)、葬りの備えとしての香油を注がれた地(マルコ14:3)、すなわちイエス様の愛による癒しの奇跡、甦りが行われた地、また、救われし喜びに満ちた献身と奉仕の地である。(*それゆえ、「ベタニア村」の名、全国各地の福祉施設の名称となっている。)

しかし、この後の記述は、そのような愛に満ちたイエス様からはほど遠いと思われる。呪われた無花果、神殿清め、いわゆる“荒ぶるイエス”像がある。他にも、湖で嵐を静める時も、「風を叱り」、「黙れ、静まれ!」とあるし、ペトロに向かって「サタンよ、退け!」と責する時も大変強い語調であった。これらにおいては、イエス様の強い怒りを感じる。アガペの愛と怒りは矛盾するように思えるが、神の意思、御心をねじ曲げようとする者、魔の力に対しては、イエス様は天地万物を創造された全知全能の力、万軍の主としての力を発揮されるのである。この力を御自身のためには些かも使わずに、十字架に架かって我らを救われたのである。この主の愛に応えよう。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

ルカによる福音書11:5-13

キリスト教信仰の土台は何かと問われれば、勿論、答えは「救い主イエス・キリスト」である。しかし、そのキリストは、不可視、不可触であるので、説明が難しい。そこで、キリストとは如何なるかを明らかにして、私たちの信仰を守り強めるものとして、礼拝、聖書、讃美、そして祈りがある。従ってどれも信仰の土台であり、また、そのような思いがなければ為しても意味が無いと言える。

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。…父はこのように礼拝する者を求めておられる。」(ヨハネ4:23)

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)

「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」(ルカ17:18) /「すべての民は主を賛美せよ。」(ローマ15:11)/

すべて、イエス御自身の命じられたことである。そして、祈りに関しては、イエス様がこのように祈りなさいと言われた直々の「主の祈り」を筆頭に、キリスト御自身が常に祈り(賛美の祈り)をしておられたように、信仰を信仰ならしめるものと示される。

キリストは祈りによって、私たちの信仰が堅持され、大いに祝されることを切に願っておられる。実にきめ細やかに、私たちの日用の糧、食事のことまで案じておられる(4千人、5千人の給食)。そして、究極的には聖霊を、すなわち神自らをお与えになると言われるのである。主は厚かましいと思われるような願いごとも、求めなさい、探しなさい、門をたたきなさいと命じておられる。主は私たちに、絶対に祝福を受け取って欲しいと願われていることをもっと大胆に信じていきたい。それが信仰である。無論、神の御心に適わない願いは叶えられることはないが、信仰による願いならば与えられるのである。

私たちは主の御前にあっては何も強がることもない、恐れることもない、ただアガペの愛を信じて、必ず主の時に豊かに祝されると信じて信仰の路を歩んで行けばよいのである。礼拝、祈祷会を守り、聖書を読み、賛美し、祈る。そこに永遠に至る祝福があるのだ。ハレルヤ!中島聡主任牧師

nakajima on 2月 23rd, 2020

ヨハネによる福音書6:1-15

五千人の給食は、主イエスの奇跡の中でもっとも有名なものではないでしょうか? 4つの福音書全てに書かれており、おそらくこの奇跡が、弟子たちの心に深く残り、大切に語り継がれていたのでしょう。福音書すべてにあるのは、主イエスの十字架と復活、そして五千人の給食だけです。

それだけに、このパンの奇跡の出来事は、それぞれの福音書においてとても大切な意味を持っています。その一つは「弟子訓練」です。

他の福音書を見ると、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と主は語られ、今日の箇所では「フィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられた」(ヨハネ6:6)とあります。

ここで弟子たちに必要なことはなんだったのかと言えば、主イエスへの信頼でした。主が必要な糧を供えてくださり、私たちの体も心も魂も養ってくださるお方である、と信頼をすることが必要だったのです。

主が誘惑を受けられたとき、「石をパンに変えよ」と試みを受けられました。それは逆に言えば、石をパンに変える力を持っていたことを示します。

無から有を作り出す真の神さまの力を、主は持っておられました。たとえそこにパンと魚が無くとも、主は群衆に食べ物をお与えにできたはずです。

けれども主はそうはなさらず、アンデレが連れてきた少年の五つのパンと二匹の魚を用いられました。これこそやはり、弟子たちの信仰をも養うためであったと言えるでしょう。

主イエスは5つのパンと2匹の魚で、男だけで5千人もの人々の必要に答えられました。人々は食べて満腹し、パンの残りは12のかごいっぱいなったといいます。弟子たちにとって驚くべき体験、信仰体験となったことでしょう。

これは主イエスの奇跡が群衆の必要に十分に答え、有り余ったことを示しています。主イエスは飼い主のない羊のような群衆を、神の言葉と実際のパンをもって養われたのです。私たちの生命は、体の糧、食べ物で養われています。主の祈りでも、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」と祈られているように、神様が私たちに必要な糧を与えてくださる感謝を覚えつつ歩みましょう。ハレルヤ。 片平貴宣牧師

ネヘミヤ記4:1-8

主はネヘミヤの祈りを聞かれ、千年も昔のモーセとの契約を守って、ペルシャ王の心を動かし、エルサレムの再建許可の命令(通行、護衛、資材調達の許可)を出させてくださった。計り知れない主の恩寵(しかし、この恵みは周囲の嫉妬を招いた)。

エルサレムに帰還したネヘミヤは、被害状況を調査した。城壁は破壊され、城門は焼け落ちていた。ネヘミヤは早速、エルサレムの修復に取りかかったが、これを快く思わない人たちは嘲笑い、さげすみ、王への反逆行為と詰った。しかし、ネヘミヤは「天の御神自ら、この工事を成功させてくださる」と奮起を促した。そして、羊の門、魚の門、古い門、谷の門、糞の門、泉の門、東の水の門、馬の門、ミフカドの門、そして、炉の塔、王の庭園にあるシェラの池の壁、ダビデの墓地の前、貯水池、兵舎、武器庫の上り道、次々と城壁を熱心に修復、補強していった。

あまりの見事な修復に、イスラエルを敵視していたサンバラトらはサマリヤの兵士を動員し、再建工事を妨害しようとした。この横槍に対して、これまで修復工事に熱心に取り組んできたユダの人々も「もっこを担ぐ力は弱り、土くれの山はまだ大きい。城壁の再建など私たちにはできません。」と弱音を口にした。

神の御業を行うにあたって、妨害、試練は付きものである。しかし、それでもネヘミヤは「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」と鼓舞し、民もまた信仰によって城壁の再建を続行することができた。

清水ヶ丘教会がなんとか生糸検査所で礼拝を守っていたのに、使用禁止の通達が出された時、どんな思いでおられたのだろうか。なんとか教会の土地が与えられたが、来る日も来る日も手作業で開墾してもいっこうに礼拝堂を建てる基礎工事すらできなかった時、どんな思いでおられたのだろうか。今日の教会、そして将来の教会も決して平易、安易にはいかないであろう。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)。偉大にして畏るべき主の御名によってハレルヤ!

ネヘミヤ記1:8-11

バビロンによる支配に続き、メディア・ペルシャの時代にもイスラエルの民は捕囚の状態にあった。ネヘミヤは、アルタクセルクセス王の献酌官として宮廷に仕えていたが、捕囚を免れエルサレムに居る同胞の様子を伝え聞いた。彼等は恥辱を受け、エルサレムの城壁は崩れ落ち、門は焼け落ちたままだという。ネヘミヤは心の底から、主に悔い改めと救済を祈った。

「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ、主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ。耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟と法を守りませんでした。どうか、あなたの僕モーセにこう戒められたことを思い起こしてください。『もしも背くならば、お前たちを諸国の民の中に散らす。もしもわたしに立ち帰り、わたしの戒めを守り、それを行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、わたしは彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ場所に連れて来る。』彼らはあなたの僕、あなたの民です。あなたが大いなる力と強い御手をもって贖われた者です。おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください。」

なんという都合の良い祈りであろうか。しかし、主はこの祈りを聞き入れられ、ペルシャ王の心を動かしてイスラエルの再建を許可させ、さらに資材の援助まで与えて下さったのである。これこそが、天地創造の主、イエス・キリストの一貫した御心なのである(詩編34:19、50:5-15、51:19、イザヤ1:18、57:15、66:2、ホセア6:6、マタイ9:12-13)。思えば、神様はアダムとエバから、ずっと赦してくださったではないか。たとえ緋の如き罪も雪の如く真白にせられる主の愛に感謝し、仕えて参りましょう。ハレルヤ!

エステル記9:20-27

ハマンによるユダヤ人絶滅の謀略は、王の勅書によって現実のものとなってしまった。モルデカイ個人への憎しみが、民族への憎悪となる、人間の“業火”である。もはや絶体絶命であったが、エステルの命懸けの直訴が功を奏した。また、聖霊が働き、王自らも宮廷日誌をめくらせているとモルデカイの功績に触れ、彼に最高の栄誉を贈ることに導かれた。何も知らないハマンは、王から「王が栄誉を与えるならばどうすべきか?」との問いに、自分の事と思い込んで、思いつく限り最高の栄誉を並べ立てた。「王の召し物を羽織らせ、王冠を着けた馬に乗せ、広場で披露させるのが良いでしょう。」すると王は、「早速、モルデカイにそのようにせよ」と命じた。まるで悲喜劇。

大恥をかいたハマンは、エステルと王に招かれていた酒宴に最後の望みをかけるが、そこにおいてユダヤ人虐殺の奸計を明らかにされてしまい、あわれハマンはモルデカイを吊すために用意していた約20mの木に自らが吊されてしまったのであった。

ユダヤ人絶滅の勅書撤回の勅書は、王の指輪で印を押され、早馬に乗った急使によって全地に届けられ、ユダヤ人は九死に一生を得た、めでたしめでたし、であるが、この物語は「ユダヤ人による復讐」へと続く。

クセルクセス王の支配する地において、ユダヤ人は敵を滅ぼして良いと定められたからである。ユダヤ人はハマンの家族をはじめ、仇敵七万五千人を打ち殺し、祝宴を開いたとある。

ハマンの悪巧みが暴かれ、失脚するところまでは痛快極まりないが、これでは命の尊厳もあったものではない。たとえ、異教の地にあっても、絶望的な境遇にあっても祈り、自らの身を献げようとしたエステルの信仰は素晴らしい。しかし、新約聖書、イエス・キリストは、決して復讐、報復を認めていない。「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44、ローマ12:17-21)。

主はくじを引かせるままにされた。衣服を剥ぎ取られ、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、十字架に吊された。本当に人の“業火”を全部背負い、贖われたのである。主の救いを宣べ伝えよう。ハレルヤ!