nakajima on 4月 22nd, 2018

Ⅰテサロニケ4:13-18 「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。」キリスト教の信仰は一言で言えば、「復活信仰」である。イエス・キリストが、私たちの罪を贖いとるために「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り」、さらに永遠の命を顕すために「三日目に死人のうちより甦り」給うたと信じ告白してきた。

復活が真実であったからこそ、弟子達は全世界に福音を全身全霊で伝える者となった。また復活の主の愛(隣人のために命を献げる愛)に満たされたこそ、命懸けで教会を建て、バプテスマを施してきたのである。

イエス・キリストは、「一人も滅びることがないように」、先に眠りについた者たち、ノアの時代から不信仰であった者たち、そして、今に生きる私たちを救うために御身を捨てて、万策を立ててくださった。その結果、あまねく世に福音は告げ知らされたが(あらゆる宣教団体、ギデオン、聖書協会等々)さらに、再臨をもって、再び御姿を現すことによって天の栄光を顕し、救いに導かれるように御計画になっているのである。なんという愛であろうか!

再臨の際には携挙が行われるとは主御自身も預言されている(マタイ24:36~、マルコ13:32~、ルカ12:39~、17:26~)。地上の生活は仮庵であり、やがて私たちは天に召し上げられることを忘れてはならない。これまでに注がれてきた主の愛によって、復活を信じ、再臨を信じ、私たちは主の御救いを宣べ伝える。タラントンを土に埋めず、大いに用いて「善且つ忠なる僕」と呼ばれる者でありますように。ハレルヤ! 主任牧師 中島 聡

nakajima on 4月 22nd, 2018

ヨハネ20:24-29 「トマスの不信」が際立って記されているが、マグダラのマリヤをはじめ婦人たちの復活の知らせに対して、「使徒たちはこの話が戯言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)、「彼らはイエスが生きておられること、そしてマリヤがそのイエスを見たことを聞いても信じなかった」(マルコ16:11)、またエマオへの途上から帰ってきた二人の弟子が「行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」(同16:13)とある。弟子達は皆、復活を信じてはいなかったのである。ルカ24:40、本書20:20でもイエス様はわざわざ弟子達に手足、脇腹の傷跡を見せておられる。なんという不信心か。完全に弟子失格、落第であり、マルコではさすがに「イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をお咎めになった」(16:14)とあるが、それでも決して弟子達を見放すことはせずに、弟子達が信じることができるようになるまで復活の御姿を現し続けられた。

そして、トマスに対しては、「釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」との全く無礼な要求に対して、「あなたがたに平和があるように」と祝福の言葉と共にお応えになったのである。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は、幸いである。」真の弟子の境地がここにある。「見る」は「自分」であり、「信じる」は「主イエス」である。どちらを優先させるのか。信じるならば復活の恵み、永遠の命が与えられ、また与えていくことができるのである。「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。」(口語訳・ローマ4:18)ハレルヤ!   主任牧師 中島 聡

 

ルカ24:28-43 主イエス・キリストは十字架の死、陰府への宣教を経て、「復活」という最大の奇跡を顕された。弟子たちが優れていたからか。否、弟子たちは実際のところ復活を信じてはいなかった。降誕の奇跡も然り。私たち、人間は主による救いの奇跡を受けるに価するものを持っていないし、そのような行いもしていない。にも関わらず主は降誕し、復活された。これが主による救いである。

私たちはただ信じるだけで、この救いに与ることができるのである。では誰が信じることができるのか。

エマオに向かって二人の弟子が歩いていた。いわゆる十二弟子以外の弟子、「一人の名はクレオパ」とあるだけで、もう一人はどこの誰かも分からない。この二人の弟子が何か優れていたのか。否、「暗い顔をして」とあるように、十字架の死が彼らに暗い影を落としており、何らの希望も持っていなかったことが分かる。主からすればどれほど歯がゆかったことであろうか。しかし、主はその二人のために一緒に歩かれ、そして一緒に泊まることにしてくださった(ザアカイの家に泊まろうとされたように)。

主を信じ、主の復活・永遠の命の恵みに与ることができる者とは誰か。主が選び、主が愛してくださった一人一人である。私たちは弱く、主の救い、復活の奇跡を伝えるに力及ばない者である。時には失意の内に人生の途上に行き暮れてしまう。しかし、主は私たちと共に歩んでくださり、「聖餐の恵み」をもって、私たちの心を燃え立たせ、新しい力を与えてくださる。二人の弟子は「心の目を開かれ」、すぐにエルサレムに戻り、主の復活を宣べ伝える者となった。私たちも主と共にあるのです。ハレルヤと伝道して参りましょう!  主任牧師 中島 聡

nakajima on 4月 22nd, 2018

マタイ28:1-15 主イエス・キリストは御霊によって宿り、この世にお生まれになった。そして、十字架において「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と言って、霊が肉体から離れゆく「死」の苦しみを味わわれた。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばざるをえないほどの痛みと絶望であった。主はその痛みと絶望を、私たちを救うためにお受けになったのである。そして、さらに、そのような苦難を経て、天に上げられるところを、イエス様は、ノアの時代から主に従わずにいた人々の霊を救うために陰府にまで下られたのであった!誰が陰府にいる人などを相手にするだろうか。近寄りたくないのが本音ではないだろうか。しかし、イエス様は陰府に下って救いの御手を差し伸べられた。私たちがどれだけ遜って信仰生活を送り、伝道をしていくべきかがここに示される。

復活の主は弟子たちではなく、婦人達に御姿を現された。最も嘆き悲しんでいたのが婦人達であったから。

そして、御使いも共に、出会う人、出会う人に、「恐れることはない」と告げられた。私たちは様々なことに恐れて生きている。恐れるということは、それに自分が勝てない、負けると思っているから恐いのである。

「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか、死よ、お前のとげはどこにあるのか。…わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(Ⅰコリント15:54-57)私達は復活の主によって、死にすら勝利しているのだ。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つ…、世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」(Ⅰヨハネ5:4)ハレルヤと伝道して参りましょう!   主任牧師 中島 聡

nakajima on 4月 22nd, 2018

ルカ23:32-43 棕櫚主日。「ダビデの子にホサナ!我らの父ダビデの来るべき国に祝福があるように。イスラエルの王に!」過越祭のために聖都エルサレムに集まってきた群衆は興奮の坩堝の中、自分達の衣服を道に敷き詰め、棕櫚の葉を手に振りかざし、イエス・キリストをメシア・救い主として熱烈に歓迎した。

しかし、その群衆は一週間もたたない内に、「イエスを十字架につけろ!」と大声で叫び続ける群となった。

かねてよりイエス様の殺害を計画していたユダヤの指導者の煽動があったにせよ、余りに酷い仕打ちである。

しかし、イエス様は黙って屠り場に引かれていく子羊のごとくに十字架に向かわれた。私たちの罪過ちを、一つの条件もつけずに、すべて身代わりとなって背負い、贖いとってくださる。これが主の十字架である。

その両脇に二人の囚人が磔られていた。一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とイエス様を罵った。もう一人は「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」と未来への希望を告げた。するとイエス様はその人に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と仰せになった。

十字架から逃れうる者は一人もいない。そこには確実な死が待っている。しかし、この者は信仰によって、主に語りかけたのである!何をしたのでもない、ただ祈ったのである。そして永遠の命が与えられたのであった。

十字架、それは私たち全ての者の宿命でもある。私たちは皆、少なからずの罪を背負い、やがて死を迎える。しかし、主を信じ、祈りをささげる者にとっては新しい命の始まり、希望となるのである。今日、愛する家族と共に祈りましょう。ハレルヤ!  主任牧師 中島 聡

nakajima on 4月 22nd, 2018

マタイ26:36~46 イエス様は「最後の晩餐」において

パンをとり、「賛美の祈り」を唱えてこれを割いて弟子達に与えられた。また御自分の杯をとって、「感謝の祈り」を唱えて、弟子達に飲ませられた。それは十字架において裂かれる御自身の体、血であり、弟子達・私達に永遠の命を与えるための代償であった。

私達はマタイ福音書6:9~15、ルカ11:2~4に依拠する祈りを「主の祈り」(Lord’s Prayer)と呼んでいるが、正しくは、「主が教えられた祈り」であろう。

「バプテスマのヨハネの弟子達が祈っているような祈りを私達にも教えてください」と弟子達が嘆願したところ、主がこのように祈れと教えてくださったのだから、そうだ、「主の祈り」と言うならば、「早朝の祈り」(マルコ1:35)をはじめ、この最後の晩餐における祈り、そして、続くゲッセマネにおける祈りこそが、「主の祈り」である。

主日ごとにささげる「主の祈り」は素晴らしい祈りである。しかし、その祈りに私達の信仰を託すことができるのは、主御自身が祈りつつ歩まれ、その祈りを成就されたからである。自分の命までも献げるにあたって感謝の祈りと賛美の祈りを捧げられた。余りの苦しみゆえ、

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈り、十字架に向かわれた主がおられるので、私達は祈りによって信仰生活を全うすることができるのである。

主は御名によって祈る我らと共におられ(マタイ18:20)、我らの願いをかなえ、必要を与えてくださるのである。伝道を願う!ハレルヤ! 主任牧師 中島 聡

nakajima on 4月 22nd, 2018

マタイ26:26~30 「五千人の給食」においてイエス様は弟子の何たるかを明らかにされた。それはただ主を信じ、主に従うことである。

給食の奇跡は大群衆を魅了し、彼らはイエス様を王に祭り上げようとしたが、イエス様が引き続きその真意を説き明かされると、皆、去って行ってしまった。誰もイエス様を「神の御子」とは信じていなかったし、「世の罪を取り除く神の《子羊》=罪の贖いのために犠牲となる」ことが理解できなかったのである。

イエス様は十二弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。何という寂しい状況であろうか。

ペトロは「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と気丈に答えたが、すでにユダは裏切りを固め、他の弟子たちも不安と恐れに駆られていた。

しかし、イエス様は「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与え」られた。また御自分の杯から飲ませられた。それは十字架において裂かれるイエス様の御体、信じる者すべての罪を赦し、永遠の命を与えるための契約の血であった。

主の弟子とは何たるか。信じ、従うとは如何なるか。それは主が御自身の命を代償として与えられる祝福(罪の贖い、永遠の命)をただ受けとることである。最良の葡萄酒、網破れんばかりの大漁、幾万人を満ち足らせたパンと魚。救い主とは与える御方である。「救いのために必要なものは全て備えて下さる!」と信じるのが弟子なのである。主は聖霊までも与え給う!(ヨハネ7:16)「わたしがあなたがたを選んだのだ」(ヨハネ15:16)。大いに祝されましょう。ハレルヤ! 主任牧師 中島 聡

ヨハネ6:1~15 五千人の給食。四福音書に共通する大いなる奇跡と愛の教え。「男だけで五千人」なので実際は万単位になる。大群衆を前にしてイエス様は弟子達に食事を施すように言われたが、弟子達は「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう(私達が二百デナリオンものパンを買ってきて、皆に食べさせるのですか)」、「パン五つと魚二匹を持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と否定しにかかった。弟子としては冷たい態度と思われるが、背景を見ると、①宣教派遣から帰ってきたばかりであり、イエス様御自身が「人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われたほど、弟子達は疲れていた。②バプテスマのヨハネがヘロデによって処刑された直後であり、精神的にも圧迫されていた。③過越祭が近づいており尋常ではない人の数に、自分達の力量では到底世話することはできないと弟子達自ら「ここは人里離れた所でもう時間も経ちました。群衆を解散させて下さい」と頼んでいたことが分かる。

弟子達ももはや限界だったのである。しかし!主は群衆を「五十人、百人の組にして座らせるように命じられた」。幾万人をそうさせるのは大変なことであるが弟子達は従った。「水瓶をすべて水で満たしなさい」、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。徒労に終わるやも知れないと思えるその言葉に従う。それが弟子である。すると主は、まず感謝の祈りを捧げられた。そして、五つのパンと二匹の魚は、人々を満腹させるまでに祝され、さらに「十二の籠がいっぱい」(イスラエル十二部族全ての救い)になった。ただ信じ、主に従う。それが大いなる祝福となるのだ。ハレルヤ! 主任牧師 中島 聡

マルコ5:35-43 会堂長ヤイロの十二歳の娘が瀕死に陥っていた。どれほどの心痛であったことか。彼はイエス様の「足元にひれ伏して、しきりに願った」。「私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」マルコ3:1-6によればイエス様が安息日に会堂で癒しの奇跡を行われた際、「ファリサイ派の人々は…早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とあり、既にユダヤ教指導者とイエス様の対立は鮮明なものとなっていた。それを会堂長が知らぬはずは無く、自らの立場が危うくなることを百も承知で、イエス様に娘の癒しを切願した。当然の親の情であろう。

一方、イエス様も、将来自分を十字架に磔る側の者の願いを聞き入れ、会堂長の娘の癒しに向かわれました。その道中、十二年間病に苦しんでいた女性を癒されたが、その最中に娘が亡くなったとの報を知らせる者があり、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と主の来訪を否んだ。双方にとって穏便に済むところであるが、イエス様は会堂長に「恐れることはない。ただ信じなさい。」と、救いを宣言された。そして、弟子を三人(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)に限って同行させ家に着くと、人々があざ笑う中、その子どもを蘇らせたのであった!「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。このアガペの癒し、奇跡に私たちも与り、永遠の命が与えられた。喜び主に仕えて参りましょう。ハレルヤ! 主任牧師 中島 聡

nakajima on 3月 5th, 2018

マルコ1:12-15 今日の主日から受難節に入りました。主の御受難を覚える最初の主日に選ばれている聖書の御言葉は、洗礼を受けられた主イエスはすぐに荒れ野に送り出され、サタンから誘惑を受けられたというものでした。

なぜ洗礼を受けられた主が誘惑に遭われたのでしょうか。たまたまそうなったのでしょうか。それとも主がご自分を鍛えるために荒れ野に向かわれたのでしょうか。しかし聖書は「霊」が送り出したのだと書いています。神さま御自身が、イエスにとってそれが必要なことだとして、イエスを荒れ野に送り込んだのでした。イエスが救い主の道を全うされるためには、このサタンによって試みられるということが非常に大事なことだったからです。

どのように試みられたかについて、マルコはマタイとは違って「誘惑を受けられた」と簡単に記しているだけです。サタンが行う誘惑というのは、神への信仰から引き離そうとすることです。私たちが一番よく知っている例は、創世記に記されているエデンの園での蛇の誘惑です。それは、人がサタンの誘惑に負けたという根本的な事実を伝えているものです。

ですから荒れ野での誘惑も、主イエスを神から引き離そうとするサタンの試みでした。そしてこのことは主イエス御自身が経験されたばかりではなく、それから後代々の教会が、そして代々のキリスト者たちが、今日に至るまで悩み、戦ってきたことでした。教会の戦い、信仰者の戦いというのはいつでも、神から引き離されることに対してでした。

しかし、この戦うイエスについて聖書は大きな事実を伝えています。それは「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」ということです。天使が共におられるのです。愛澤豊重牧師(横浜菊名教会)