nakajima on 9月 21st, 2020

創世記9:1-11

堕落と不法が満ちたので、神は、人を「地上からぬぐい去ろう」と言われた。さらに「人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も」とまで言われた。いいとばっちりであるが、神は、アダムとエバ、カインの時と同様に、箱船を建造する力を与えて、ノアとその家族、またすべて命あるものは雌雄二つずつ、また創世記7:2では「すべて七つがいずつ」を助け出し、人・被造物が生きていくことができるようにされた。

地上のすべてを覆い尽くす大洪水は激烈な裁きであったが、1年かかってようやく水がひき、ノアと家族、動物たちは乾いた大地に降り立つことができた。ノアは、まず「主のために祭壇を築いた。そして…焼き尽くす献げ物として祭壇の上に献げた」。大洪水の間、箱船の中で過ごした1年間はどれほど恐怖、不安、苦労の多いものであったろうか。

40日40夜の豪雨、すべてが吞み込まれていく世の終わりと思える大洪水、1年にもおよぶ船中生活、動物や鳥たちの世話、異臭、一歩も外に出ることができない閉塞感、どんなにか辛い日々であったかと思うが、ノアと家族は、不平不満ではなく、まず感謝の礼拝を献げた。

わずか1週間の歩みの中でもなかなかに辛いことがある。理不尽な思いをすることもある。しかし、生かされて主の御前に礼拝を献げる時が来た。ならば、まず感謝を献げること、それが主日礼拝であることを示される。神はノアの礼拝、信仰を見て、地を洪水によって滅ぼすことは2度としないと言われた。そして、アダムとエバに与えられた最初の祝福、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」、「地の命あるものすべて」を再び与えてくださった。なんという神の愛!

ただし、「善悪の知識の木の実」に手を出してはならなかったように、「血を含んだままの肉」と、「人の命」に手を出してはならないと戒められた。いずれも神によって創造された命の尊厳を守るようにとの戒めである。「あの人は、駄目、馬鹿」と裁くなら最高法院、地獄の火だとイエス様は言われた。人に手をあげるとは、人を創造された神に手をあげること。人を殺めるとは、人を創造された神を殺めること。神は祝福と契約を「代々とこしえ」のものとされ、その証を「美しい虹」とされた。今も私たちは時に虹を見る。主の祝福と契約は今もなお続いているのである。感謝をもって礼拝を献げ、命を大切にして参りましょう。ハレルヤ!中島 聡主任牧

nakajima on 9月 13th, 2020

創世記6:1-8

「ノアの箱船」、洪水による裁きの発端は、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」からであった。その悪とは、「神の前での堕落」=不信心と、「不法」=強者が法で弱者を絶対的に虐げることであり、信仰的にも社会的にも悪が満ちていた。神は、洪水の前に、人の寿命を「120年」とする裁きを行われたが、それでも人は悔い改めず、その120年をもってして神を誉め讃えるのではなく悪を行っていたので、遂に洪水による裁きが下されることになったのである。

しかし、ただノアだけは、「神に従う無垢な人」、「神と共に歩む人」であったので、神はノアとその家族を箱船によって救出することにされた。神はノアに箱船の建造方法を教え、ノアはその教えに従って、長さ300アンマ(約135m)、幅50アンマ(約22.5m)、高さ30アンマ(約13.5m)、3階構層という壮大なスケールの箱船を家族と共に造り上げた。神は、そこにノアの家族以外に、すべて命あるもの、肉なるものから、二つずつ、雌雄を乗せて生き延びるように命じられた。また食べられる物はすべて集めて食糧とするように命じられた。

創造主なる神は、アダムとエバ、カインに対してそうであったように、今また、「人」が生きていくことができるように、裁きに愛の御手を添えてくださったのである。

神に命じられたすべての生き物が乗船し、扉が閉じられると、「天の窓」が開け、大洪水がもたらされた。水はすべての山をも呑み込んで、なお15アンマ(約6.75m)降り注いだ。地球上を覆い尽くす大洪水であったが箱船は乗り込んだ全ての命を守り抜くことができた。神が命じられた箱船の長:幅:高=30:5:3は、積載量に優れた現代のタンカーと同じ比率であり、神の「人を救いたい」、庇護の願いがどれほど大きいものであるかを示される。アダムとエバ、カイン、そして「不法に満ちた地もろとも滅ぼす」と言われた神が、ここまでして人を守ろうとされたことを忘れてはならない。

聖書によれば、やがて終末が来て、地上の全てが裁かれると預言されている。しかし、忘れてはならない。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17) 既に神によってイエス・キリストという箱船が建造されている。あとは私たちが招くのみである。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 9月 6th, 2020

創世記4:1-15

アダムとエバは、神の創造の意志に従って助け合うことができずに、「善悪の知識の木の実」を食べてしまい、アダムはエデンの園を追放されることになった。エバは神の言葉通り、アダムの後を追い、共に暮らすことになった。

二人に兄カイン、弟アベルが与えられた。兄は土を耕す者となり、弟は羊を飼う者となった。ある日、主に献げるために、兄は土の実りを持ってきた。弟は肥えた羊の初子を持ってきた。神が弟の献げ物に目を留められると、兄は「激しく怒って顔を伏せた」。

エデンの園を追放されたが、神の庇護を受けていたアダムとエバは、神を礼拝することをカインとアベルに伝えていたが、「何のための礼拝か」(=信仰とは何か)を伝えきれていなかった。

礼拝において神に献げるとは、自分に力がある、自分が強い、自分が偉いと認められるためではない。神と隣人に仕えていくことができるように献げるのであり、それこそが信仰なのである。さらに、単に「土の実り」ではなく、「肥えた羊の初子」とあるように、その時の最善を献げることが信仰なのである。ただし、それは贅の限りを意味しているのではない。イエス・キリストが「レプトン銅貨2枚」(マルコ12:42-44)、「水一杯」」(マタイ10:42)、「一度の食事、衣服、宿、見舞い、訪問」(マタイ25:35-36)をもって、天に至る報いがあると言われたように、その人に為し得ることを献げればそれで善いのである。

カインは、激しい怒りを神に諫められたが、反省も悔い改めもできずに、騙して、隠れて、弟を殺してしまった。人の心に、サタンによる原罪が色濃くあることが示される。このことにより、カインは共同体から追放されることになるが、それでも神はカインを見捨てることなく、印を与えて庇護を約束された。まさに“御主印”である。

私たちも隣人に対して怒り、憤りを覚える者であるが、神は私たちに庇護をお与えになる。この神の愛を信じて歩んで参りたい。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」(2コリント9:7-8)ハレルヤ!中島聡主任牧師

創世記3:1-7

神様は、私たちにそれぞれ向き合い助け合うために、隣人を与えてくださいました。それは神様が望む、愛の共同体つまり神様の国をここで感じるためです。ですが、私たちはエバが蛇のせいにしたように、アダムがエバのせいにし、神様のせいにしたように、自己保身に走り、自己中心、自己愛を捨てきれません。それは、イエス様を信じていても、起こることです。自分を大切にすることは素晴らしい事です。なぜなら自分自身も神様の創造物なのですから。

ですが、自己中心というものは自分を愛し、受け入れることではありません。自分だけが得する、楽することばかり考え、神様の被造物である隣人、他者をおとしめます。それは自分自身だけで生きようとする、自分の人生は自分だけのものと考える人の弱さからくるものです。

けれども、人は独りでは生きられません。アダムもそうでした。だから、神様はエバという向き合う相手、パートナーを与えて下さったのです。つまり、私たちはもともと、自分だけのために生きるようには造られていないということです。自分を差し出す理由、愛する人に向かって生きること、他者のために生きることによってはじめて私たちは人として生きられ、満たされるのです。自分の命は隣人、他者があってこそのものです。

イエス様はそのご自分の命を私たちのために差し出してくださいました。それは究極の愛の形です。そして、それこそがまさに人としての生きる意味であることを示してくださっているのです。イエス様を信じ、イエス様を通して神様に出会い、そして、イエス様のように隣人のために生きること。それがまさに永遠の命を与えて下さるイエス様の道なのです。それは、時に苦しいものかもしれません。

ですが、自分だけのために生きる虚しさは死を招きます。時に苦しくとも、隣人と共に生き、神様の愛によってこそ私たちはこの命を生きる者へとなるのです。  田中尚美伝道師

nakajima on 8月 23rd, 2020

天地万物を創造された神は、人をあらゆる被造物の中で最高の存在として創造し、また最高の祝福をお与えになった。人はエデンの園において神と共に住まうことすら許された。もはや完全、完璧と思われるが、それでも人は人である。決して完全、完璧ではない。それが証拠に、人には「助ける者」が必要であった。神は、人を深い眠りに落とされ、彼のあばら骨の一部から女を創造された。人(アダム)は、彼女(エバ)を見て、「ついにこれこそわたしの骨の骨、肉の肉」とたいそう喜んだ。

これで、めでたしめでたしのようであるが、残念ながら、人は互いに助け合うことができずに、たった一つの戒めすら守ることができなかった。園の中央には「命の木」と「善悪の知識の木」が生えていたが、神は「善悪の知識の木」からだけは取って食べてはならない、と戒められた。どれぐらいの期間、この戒めを守ったのかは定かで無いが、ある日、サタンの誘惑に負けて、二人はその実を取って食べ、罪を犯してしまった。

アダムは自分の罪を、あろうことか神とエバに転嫁しようとし、彼女はサタンに騙されたと言い逃れようとした。二人は助け合うことができなかった。この罪(原罪)の結果、人はエデンの園に住まうことができなくなり、「命の木に至る道」は、「ケルビム」と「剣の炎」とによって閉ざされることとなった。

人は園から追放され、破滅の道を辿るほかないところであった。しかし、主なる神は、二人に「皮の衣を作って着せ」てから追放し、さらに、そこ(エデンの園)から「取られた土を耕させることにされた」。つまり、耕せば実る豊穣な土を与えられたということ。

アダムを助ける者としてエバが創造され、二人は互いに助け合って生きていくべきであったが、できなかった。ところで、聖書をよく読むとエデンの園から追放されたのは、アダムだけだということが分かる。それなのに、二人共がエデンの園の外で暮らすことになった。エバは、苦境においてアダムと共に生きていくことを決意したのだ。それはアダムが園を追放されることになってから、初めて「女」ではなく、「エバ」と呼んだ、すなわち、自分にとってたった一人の固有の存在として呼びかけ、それにエバが応えてくれたということであろう。

おそらく二人の力だけでは終わりだったろうが、神が二人を助けてくださった。ここに、第一に、神の赦しと助けを受け入れていくのが人、第二に、男と女ではなく、互いにたった一人の大切な存在として表明し、受け入れ合って人は生きていくもの、という教えが与えられる。「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソ4:32)、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3:13-14)主は我が助け主、イエス・キリストの愛によって福音の御業に仕えて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 8月 16th, 2020

創世記1:27-2:3

人間が被造物の最高位にあることの象徴として火を扱えることが挙げられる。その原因譚として、ギリシャ神話「プロメテウスの火」では、動物に牙や角や、翼やエラを気前よく与えたのは良いが、人間に与えるものが無くなってしまい、闘神・知恵の女神アテナに相談したところ「火を与える」ことになった、とある。続きでは、これを知った主神ゼウスが激怒して、プロメテウスを山上に磔にし、鷲に肝臓をついばませて絶命させ、しかし夜の内に再生し、また鷲に肝臓をついばませる…、という残酷な処刑を科したとある。

聖書では、唯一神なる創造主が、最初から人間を「神に象(かたど)り、神に似せて造られ」、「命の息を吹き入れ」て、「生きる者」とされた。そして、牙や角によってではなく、「彼らを祝福して」、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と、この地を従わせ、他の被造物のすべてを支配する力をお与えになったとある。さらに、「全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべて与え」られた。

無論、火を扱う力も神は人に与えられたが、それはうっかり八兵衛で与えたのではないし、火どころではなく、神は自らの息、すなわち聖霊を与え、人を完全なる祝福の内に創造され、すべてを与えられたのである。ただし、「『善悪の知識の木』からだけは、決して食べてはならない」と、ただ一つの戒めが課せられた。

「善悪の知識」とは、単なる物事の判断、善悪の区別ではない。人間社会において、「これは善、これは悪」と判断し、区別することは大切なことだが、神にしか為し得ない『最後の審判』を下すことは許されていない。

人は、神から与えられた祝福と力をもって、確かにこの地を従わせ、被造物の最高位に立っている。その英知をもって核兵器を所有するまでに至った。凄まじい力を手にしている。しかし、人には、「これが悪だ」と断じて、最後の審判を下してはならないと戒められている。核兵器の投下は決して人間が踏み込んではならない領域なのである。

神は、人に与えられた祝福がすべての人に行き渡ることを願っておられる。それには、『第七の日』、神が安息され、すべてを祝福し、聖別された日を覚えて、主日礼拝を守り続ける必要がある。礼拝において、神の息・聖霊を受け、この身に祝福と聖別を受け、創造の御業を再確認し、「主の平和」をこの世に実現していくことができるように祈り求めていくのである。主の祝福は完全であり、主によって

伝道の力は与えられている。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

マタイ福音書13:18-23

「種蒔きの譬え」 三福音書を合わせ読むと、以下のようになる。

  • 道端に落ちた種⇒鳥、すなわち悪い者、サタン、悪魔に食べられてしまった。
  • 石地に落ちた種⇒根が無いので枯れた、すなわち、御言葉(信仰、伝道)のために艱難、試練が起こるとつまずく、身を引いてしまう。
  • 茨の中に落ちた種⇒茨に覆われて実を結ばなかった、すなわち、この世の思い煩い、富や快楽の誘惑に覆われて実らない、あるいは実が熟さない。
  • 良い土地に落ちた種⇒三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ、すなわち、御言葉を聞いて悟ることができ、サタンにも、艱難試練にも、この世の思い煩い、富、快楽にも負けず、それらにあっても忍耐して豊かに実を結ぶ。

この譬えでは、最初の三つが失敗、駄目なケースで、最後が成功事例として描かれているが、意味するところは、「蒔かれた種の内、四分の三は実らない。伝道とはそういうもの。簡単にはいかないのだ。」、「しかし、良い土地の種が三十倍、六十倍、百倍の実を結び、豊かになれるから結果オーライだ。」というメッセージなのだろうか。確かに伝道にはそのような一面もある。しかし、聖書とは常に自分に語りかけられているメッセージでもある。

「正しい者(義人)はいない。一人もいない。」(ローマ書3:10)とあるように、誰もがサタンの誘惑、伝道のための艱難試練、この世の思い煩い、富や快楽の誘惑に負けてしまう可能性がある。100%義人として生きることができる人など一人もいない。だからこそ、「良い土地」、すなわち神の言葉、すなわち礼拝、祈祷会に立ち返り、主の祝福と恵みをいただいて、多くの実を結んでいくことができるように祈り、願っていくのである。決して、「あの人は①~③だった。」とか、「自分はクリスチャンだから④だ」という話ではないのである。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5) 必要なことは、主イエス・キリストに繋がり、礼拝を守って主から聖霊の力をいただき、その力によって成長し、実を実らせることである。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」(同15:16)祈ってくださった主にハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 8月 3rd, 2020

使徒言行録17:10-15

神の言葉は、ヨヤキム王によって切り裂かれ、炉の炎で焼き尽くされてしまった。しかし、神はエレミヤに再びすべての言葉を書き記すように命じられた。そこでエレミヤは再び、神の言葉を預言し、書記官バルクがそのすべてを筆記した。このようにして聖書が残されることになった。

これらは“言(ロゴス)・キリスト”(ヨハネ福音書1章)の十字架の死と復活を予兆しており、神の言葉は決して滅びないことを証している。「天地は滅びるが、わたし(キリスト)の言葉は決して滅びない。」(イザヤ40:8、マルコ13:31)

使徒パウロは、その神の言葉(メシア・救い主の復活)を携え、第2回伝道旅行に出発した。17章では、シラスと共に、まずテサロニケ(ギリシャの第2都市)においてユダヤ人の会堂において伝道し、ユダヤ人、さらに多くのギリシャ人、おもだった婦人たちが信仰に入った。ところが、ユダヤ教指導者たちはこれを激しく妬み、「広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家(パウロとシラスが世話になっていた家)を襲わせた」のであった。

大変、危険な状態であったので、ヤソンと彼の支持者は、パウロとシラスを、ベレアへ送り出した。 二人は危険な目にあいつつも、ベレアでも早速に会堂で伝道を始めた。そもそも使徒言行録16章、ティアティラでの伝道において、何度も鞭打たれ、足枷をつけて投獄されている。しかし、神は二人を守られ、全囚人も守られ、さらに看守もその家族も救いに至ったのであった(「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」16:31)。

このように神の言葉、救いの言葉は、いかなる窮地にあったとしても決して滅びることなく、今、私たちの手元にあるのである。ベレアにおいても然り。ユダヤ人たちは、「非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、その内の多くの人が信じ」た。するとまたユダヤ教指導者たちが、ベレアにも「押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた」のであった。しかし、パウロとシラスは伝道の旅を続けたのである。

聖書には、伝道が生易しいものだとは一言も書いていない。むしろ伝道は命懸けのものであることが記されている。だからこそ、私たちは日曜ごとに礼拝を守り、主の祝福を受けつつ、兄弟姉妹が祈りと讃美によって一つとなって峻厳なる伝道に立ち向かっていくのである。今夏にできる伝道は何か。「力と愛と思慮分別の霊」を戴いて、主に仕えて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 7月 26th, 2020

エレミヤ書36:27-32

「言葉が主からエレミヤに臨んだ。…残らず書き記しなさい。…それぞれの悪の道から立ち帰えるかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」(36:1-5)

ソロモン王以降、イスラエルの王は神に逆らい、王国は北と南に分裂し、BC722年、アッシリア帝国によって北イスラエル王国は滅ぼされてしまった。南ユダ王国も存亡の危機にあったが、主はエレミヤを通して、「神の言葉~救いのチャンス」を与えようとされた。

エレミヤは、神から与えられた預言の言葉を語り、書記官バルクがその全てを筆記した。纏められた巻物はヨヤキム王の前で朗読されることになったが、王は「三、四欄読み終わるごとに、ナイフで切り裂いて、暖炉にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった」のであった。

救いのために差し出された手を振りほどくばかりか、その腕をへし折るような行為に対して、主はエレミヤに対して「改めて、別の巻物を取れ。…王ヨヤキムが燃やした初めの巻物に記されていたすべての言葉を、元どおりに書き記せ。」と命じられたのであった。(*イエス・キリストの十字架の死と復活)

この箇所における最もたる注釈と言えば、内村鑑三『後世への最大遺物』に記されている、19世紀イギリスの思想家、歴史家トーマス・カーライルによる『フランス革命史』の執筆譚であろう。彼は何十年とかけて革命史を書き上げたが、原稿を1日だけという約束で友人に貸したところ、友人の召使いが炉にくべて燃やしてしまったのである。さすがのカーライフも虚無に暮れたが、やがて「自分は愚人であり、あんな革命史など大したことはない。しかし、もう一度書き直すならば、それは貴いことであろう」と再び筆を執ったのであった。「信念は行動に移さなければ意味が無い。」カーライルは、内村だけでなく、新渡戸稲造、夏目漱石などにも大きな影響を与えている。

今日、倉持芳雄牧師召天30周年を記念する。倉持先生は、横浜ミッション診療所のために蒲田新生教会を辞されたが、「命のパン」を宣べ伝えるため、新たに教会を建てるにあたって苦難の中、「彼(アブラハム)は、望むべくもあらぬ時になお望みて信じたり。」(ローマ6:14*文語訳)との信仰を、会堂用地を探し抜く、土地管理人の戸を叩き続ける、という行動に移された。また、多くの青年信徒たちも祈りに祈り、バザーを開き、手製のぬいぐるみを売り、開墾に汗を流した。信仰とは、次の世代のために神の言葉を信じて自分を献げ、伝道すること。“言(ロゴス)”は神御自身、永遠の命、人間を照らす光である(ヨハネ福音書1章)。我らは何があっても語り継ぎ、その信仰を実行に移す者である。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 7月 20th, 2020

ヨハネによる福音書15:1-10

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

この聖句はとても有名です。この1節には、イエス様の独自性が表現されています。つまり、「まことのぶどうの木はこの私である。」と、真のメシアは私であると語られているのです。そして、その木、幹につながる枝が私たちです。この枝にはブドウの実がなります。その実はどういう実でしょうか。自分の実りは豊かなものでしょうか。周りのほうが豊かでしょうか。彼の実りのほうが豊かだ、私の実りのほうが美味しいとか、はっきり言って私たちにはわかりません。私たちには神様の目、ご判断を理解する、知ることはできないからです。ですが、神様はその実りをご存じです。そして、その実りが豊かなものならば、その実を食べる人、つまり私たちの周りにいる人々が、その実りの良さを感じることができるのです。神様から溢れる愛をいただき、それを栄養として生きるならば、私たちの中に実る愛の実は他者のための実となるのです。

一方、その実りをつける枝は、幹がなければ生きられません。幹から、栄養をもらい、根から発する生命力をもらわなければ伸びることもできません。もし、幹から離れることがあるならば、枝は自らの力で生きることも、自らの力で立つこともできません。ただただ、枯れるだけなのです。時に、私たちは、ついつい自らの力で立とうとしてしまいます。そして、周りが良いというような人になろうとしますし、相手が求めるような人になろうとします。どうにか、みんなが認めてくれるような実をつけようと必死に頑張るのです。ですが、本当の自分、私たちの実りを知っているのは神様だけです。どんな枝になろうとしても、イエス様という幹、最高の栄養である、神様の言葉がなければ、良い実をつけることはできません。だからイエス様は「私につながっていなさい」とおっしゃられるのです。また、自分の力だけでつながっておくこともできない弱い私たちなので、「私もあなたがたにつながっている」とイエス様自らが私たちにつながってくれているとおしゃってくださるのです。

枝は、神様の愛と恵み、そして、許しを覚える時、枝の芯から芯まで神様のみ言葉である栄養が染み渡ります。そして、その栄養が染み渡ってこそ、初めて良い実を結ぶことができ、その実が隣人を愛し、生かすものへとなるのです。        田中尚美伝道師