nakajima on 10月 17th, 2021

サムエル記上13:8-15

サウルは神様によって「新しい心」を与えられ(サム上10:9)、王として活躍していきます。しかし、勝利を収めていくたびに、彼は「主を畏れる」ことを忘れ、傲慢になっていきました。

サウルが新しい心を与えられたように、私たちは洗礼によって新しい心を与えられています。しかし、それは与えられたからといってほっておいて良いものではありません。己の欲に身を任せば、サウルのようになることを聖書は伝えています。つまり、新しい心とは人の意志を表す言葉でもあります。だから、サムエルがこのように述べているのです。「今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。」(12:20‐21)

だからこそ、「主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。」(12:24)と何度もサムエルや他の預言者たち、そして「神を愛しなさい」とイエス様がおっしゃられるのです。ですが、その意志だけでは私たちに救いはありません。なぜなら、そこに神様の介入つまり霊がなければ変わることができないのが人間だからです。

私たちは自分たちの力では180度変わることはできません。だからこそ、神様の介入、つまり新しい霊である息を吹き込んでいただいてこそ、私たちは新しい命が与えられます。私たちは自分の意思だけでなく、神様の息によって生かされている存在だからです。

だからこそ、神様の新しい霊によって神様が備える道を歩んでいけるよう、神を畏れ、隣人と励まし合い、祈ってまいりましょう。伝道師 田中 尚美

nakajima on 10月 10th, 2021

サムエル記上10:20-25

族長、祭司、士師、預言者。神様はなんとかしてイスラエルの民を祝福し、外敵に襲われれば助けだそうとされた。民が何度も何度も逆らい、背信の罪を犯したとしても、御自身が選んだ民だからという理由で、愛し抜かれた。

そして、今、イスラエルの導き手として王を立てることにされた。これは神の御意志ではなく、民が「今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」(8:5)と願ったが故であった。

結果から言うと、王制はソロモンまでは良かったが、その後、王国は南北に分裂、アッシリア、バビロンによって滅ぼされることになる。神はサムエルを通して「王はあなたたちの息子を徴用する。王のために耕作や刈り入れに従事させる。武器や戦車の用具を造らせる。あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。羊の十分の一を徴収する。こうしてあなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。」と警告されたにも関わらず、民は「我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」と、王の擁立を嘆願した。

なぜ、民は王の王、主の主、万軍の主、最高最善の神ではなく、人間の王を求めたのだろうか。しかし、私たちもすべてのすべてにおいて神を第一としているかと問われれば、「人間」の価値観、限界性の中での生き方を求めていると言わざるを得ない。

サウルがイスラエル初代の王として選ばれた。本人としては全く寝耳に水。サウルも自分自身を振り返って「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンでも最小の一族(マトリ氏族)の者です。」と王に選ばれ、油注がれることに大きな戸惑いを露わにしている。いよいよ籤で王に選び出された時、いわば戴冠式に臨む時に及んで彼は「荷物の間に隠れて」いた。

王に相応しくないと思えるが、王たる者として必要なことは自己顕示欲、支配欲ではなく、遜る姿勢であることを示される。

「民は叫んで言った『王様万歳』」。致し方ないが、本当は神に感謝の叫び、讃美を捧げるべきことを忘れてはならない。

私たちも主に選ばれて教会を建て、礼拝を捧げている。常に主に感謝の讃美、祈りを捧げる群として歩み続けて参りましょう。

ハレルヤ! 中島 聡牧師

 

サムエル記上3:15-21

士師、ルツを終えまして、今朝から、サムエルの学びに入りますが、これまでの旧約聖書における神様の救いの契約について、ざっと振り返っておきたいと思います。

神様は、第一にイスラエルをアブラハム、イサク、ヤコブ、すなわち族長を用いて約束の土地に導かれました。しかし、ヨセフの時代になって、民は飢饉から逃れるためにその地を離れ、結果、失ってしまったわけですが、神はモーセ、レビ人ですから、すなわち祭司指導者によって民を再び約束の地に導かれたわけです。

そして、その後継者にヨシュアとカレブも与えてくださいました。しかし、民は約束の土地を嗣業として分け与えられたにも関わらず、神の目に悪とされることを行ったので、その地においてミディアン人、ペリシテ人はじめ諸外国の攻撃にさらされることになってしまった。しかし、神様はギデオンやサムソンなど十二人の士師によって民を守り抜かれたわけです。

しかし、士師の時代が終わりを告げるころ、イスラエルは同族、身内であるベニヤミン族との血みどろの争いもありましたが、宗教指導者による信仰継承は破綻をきたしていたと言えます。

しかし、それでも神は祭司エリを立ててイスラエルを導びこうとされたのですが、エリの二人の息子ホフニとピネハスは「ならず者」と呼ばれていたのであった。なんとも残念なことですが、これがサムエル記上の始まりです。

しかし、それでも神様はイスラエルを助けるためにハンナという女性、信仰深い一人の女性の切なる祈りからサムエルを与えられたのです。ハンナは約束どおりサムエルをナジル人として神に献げるため、献児するため、乳離れするのを待って、祭司エリにその子を委ねました。こうして預言者サムエルが誕生し、神はサムエルを通して「神の救いの言葉」、すなわち、預言を与えられました。

ここで、サムエルが神の預言を聞いた時、「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(3:1)とあることに注目します。神とイスラエルの関係がまことに希薄になっていることが分かります。しかし、本当にそうだったのでしょうか。

確かに私たちの印象には、神様が「サムエルよ、サムエルよ」と三度呼び掛けられ、少年サムエルは、祭司エリが呼び掛けたと思って、「お呼びになりましたか?」、「いいや、わたしは呼んでいない、戻ってやすみなさい」。これが三度続き、エリはサムエルに「今度声が聞こえたら、『主よ、お話ください。僕は聞いております』と答えなさい」と教えた、あのくだりですね。

そして、主の言葉がサムエルに臨んだわけですが、しかし、2章を読みますと、サムエルに告げられた預言、実はもうすでにエリに直接、「神の人」が来て告げていた事柄であったことが分かります(同2:27-36)。当時、すでに主の言葉が臨むことは少なくなっていた、とは、実は聞く私たち、人間の側の心が頑なになっているだけで、神様は、ずっと私たちに語りかけておられるということを示されます。

私たち人間が、静まって、神の御声を慕い求める時、礼拝、祈祷会の時を大切にできているだろうかということを思わされるわけです。

エリとサムエルに告げられた預言の内容は、ならず者となってしまったホフニとピネハスの故に、祭司の家は滅ぼされるというものでした。エリは、「神の人」から直接、この預言を聞いていたんです。そして、「主が御目にかなうとおりに行われるように」と答えていたのですが、二人の息子を諫めることはできなかった。ですから、本来ならばその時点で裁かれているはずなのに、神様は裁きを待たれ、少年サムエルを通して、一人の男の子を通して、悔い改めと救いの機会を与えて下さったのである。

このチャンスがあったわけですが、やがて「サムエルは成長し…主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。…主は御言葉をもって、サムエルに御自身を示された。サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。」(3:19-4:1)またしても神はイスラエルを助けるために新たにサムエルという預言者を立て、エリの家への裁きについても執行を猶予されていたのですね。

この時点において、神様がサムエルを預言者、指導者として立てておられるのは明白です。

ここで、イスラエルがペリシテに出撃する、進撃するという展開になるのですが、おそらくサムエルにイスラエルはどのようにするべきか、の預言、祈りを何一つ求めなかったのでしょう、ホフニとピネハスは戦死し、その知らせを受けた祭司エリも死んでしまった。神様の言葉に耳を傾けなかった、背を向け続けたホフニとピネハス、エリは裁かれることになったのです。

そして、さらには「神の箱」を奪われるという致命的な敗北を喫したにも関わらず、神はペリシテから神の箱を呼び戻され、イスラエルを救おうとされたのであった。このように族長に遡り、神様の救いの御計画を見る時、神様の無尽蔵の、無限大の、アガペの愛はすでに旧約において明らかにされていることを知らされます。

そう、神様は私たちがたとえ、どのような状況になろうとも、救いの契約を違えることはない、必ず救いの契約を成就しようとされる御方であるこということです。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

nakajima on 9月 26th, 2021

ルツ記4:11-17

エリメレクとナオミの夫婦と二人の息子がおりました。けれどもルツ記の物語の冒頭を見るならば、この家族の歩みは決して幸せとは言い難い所から始まります。飢饉によって国を離れ、モアブでエリメレクと二人の息子は亡くなってしまうのです。

ナオミとオルパ、ルツが残されました。ナオミは故郷であるベツレヘムに帰ることを決めます。オルパもルツも付いていくのですが、途中で説得されてオルパはモアブへ帰りました。けれどもルツの決意は固く、ベツレヘムまで同行することとなりました。

オルパのその後は私たちにはわかりませんが、確かに知りうるのは、従ったルツの方の歩みです。主なる神様に従う者には祝福が与えられる、と彼女の歩みからは知ることが出来ます。

けれども、主なる神様に従う道は平坦な道であるとは限りません。むしろ、その道を選ぶことには困難が伴うことがあります。ルツの歩みはまさにそのような道であったでしょう。ベツレヘムはルツにとっては見ず知らずの土地でしたが、それでも従うところに信仰があります。信仰とはまさに神さまに委ねることであり、神さまにお献げすること、献身の表れです。

ベツレヘムへ行ったルツと、ボアズの取り計らいはとても麗しい物語です。ボアズもまた主なる神さまを信じ、敬う人でありました。外国人であるルツにも、少しの偏見も無く接しました。

ボアズの行いは、律法に基づくものでした。「寄留者を虐げてはならない」(出エジプト23:9)との律法を、彼は正しく実践していたのです。そのような信仰姿勢はまさに新約的であり、福音的である、と示されます。

そのようなボアズの姿は、主イエスを指し示します。主イエスの到来は、私たち全人類にとっての真の祝福です。主イエスによって私たちは罪赦され、救われる者とされたからです。そのような祝福はまさに、神さまの愛のなせる業でした。

ガラテヤ書3:14にはこうあります。「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」

私たちに祝福をもたらす愛、それはご自分のひとり子すら惜しまずに与えてくださる無限の愛でした。ルツとボアズの間にオベドが生まれ、エッサイが生まれ、ダビデが生まれます。そしてその系図は、主イエスへと繋がっていくのです。まさにここに神さまの愛があり、祝福があり、摂理があります。

この真の愛と祝福は私たち一人一人に与えられている、あなたに与える、と聖書は約束をしています。神さまからの愛と祝福とを、心を開いて受け入れ、特別な恩寵の中に入れられていることを覚えつつ歩みを進めましょう。ハレルヤ! 片平貴宣牧師

nakajima on 9月 19th, 2021

ルツ記1:14-19

ルツ記は旧約聖書の真珠、最も麗しい書簡と言われる。「なにせ一人も死者(争いによる)が出ない。」とは言い過ぎであるが、これまでの家族同士、イスラエル対異邦、同族同士の血みどろの最中にあって、まるで真珠のような麗しい書簡である。

旧約聖書には確かに「聖戦」、「聖絶」という教義、信仰の秤として、イスラエル対異邦に勝利するか否かという構図がある。しかし、ルツ記のごとく、明らかに異邦の存在によって救いがもたらされるというメッセージが私たちの胸に強く迫る。

士師の時代、ベツレヘムに住んでいたエリメレクとナオミ夫妻は二人の息子マフロンとキルヨンを連れて、飢饉を逃れモアブの“野”に移り住んだ。そこでの生活は決して楽ではなかったと推し測られる。モアブの地ではなくモアブの野であったから。風土病かどうかは不明だが、夫エリメレクをはじめ二人の息子も10年ほどの間に死んでしまったとある。

二人の息子にはそれぞれオルパ、ルツという嫁がいたが、ナオミは息子たちも死んでしまったので、二人の嫁にそれぞれの実家に帰るように言った。気に掛かるのは、この時も「モアブの野」にいたということ。10年ほど経っても、まだモアブの地でもモアブの町でもなく「野」である。そもそもベツレヘムから来た者に嫁ぐモアブ人がいるだろうか。オルパもルツの家も決して裕福であったとは考え難い。ナオミは二人の嫁に「あなたたちは死んだ息子のためにもわたしたちのためにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように」と言ったのは、真実と思われる。飢饉だからと言ってベツレヘムの皆が逃げたのではない。エリメレクとナオミにベツレヘムで暮らし続ける力が無かったのだろう。二人の嫁からすればそんな異邦の野に逃れてきた異邦の者に嫁ぎ、貧しいながらもなんとか小さな幸せを見つけて暮らしていたのである。

二人の嫁は心からナオミと共に暮らすことを願ったが、繰り返すナオミの言葉にオルパは涙を飲んで里に帰った。しかし、ルツは命を懸けて共に暮らす決心であることを明らかにし、遂に二人でベツレヘムに戻ることになった。

「うつろな帰国」という聖書の表題の通り、一度、ベツレヘムを離れた者にとって、「モアブの野」から、しかもモアブ人の嫁を連れての帰国は、かつての同胞からの蔑視の対象となるものであった。聖書はここまでイスラエル共同体の冷たさを描きながら、ボアズという一人の助け手(厚意/好意)の登場に繋げていく。そして結末はご存知の通り、やがてダビデ王、救い主イエス・キリストの降誕へと至る救いへの道が明示される。真の救いは民族、血筋に依らない。この人に救われて欲しいと祈る信仰による。主は十字架からも願って下さった。ハレルヤ! 中島 聡牧師

nakajima on 9月 12th, 2021

士師記16:22-28

本日は士師サムソンに学びます。聖書には12人の士師が登場しますが、その最後の士師がサムソンとなっている。士師とは、いったい何であったのか、私たちが学ぶべきは何であるのかがここに記されているわけです。

ギデオンの時代、イスラエルはミディアン人におびやかされていたわけですが、今度は、サムソンの時代は、ペリシテ人の脅威に晒されていた時。なぜイスラエルはこんなにも外敵の脅威に晒されるのか?

全ての原因は、聖書にはっきりと記されています。

イスラエルが「神の目に悪とされることを行った」から、すなわち自業自得なのですが、それでも神は「選民」自らが選んだ、契約の民、私が祝福すると約束されたイスラエルの民を守るため、祝福の契約を遂行するために士師を立ててくださった。

ここに士師のなんたるかの第一があります。

神は、私たちを罪の故に滅ぼされるのではなく、たとえ罪があろうとも救いの御手を差し伸べ、罪からの悔い改め、救いと祝福に至るチャンスを、助け手を与えて下さるということです。

そして、士師が12人ということは、士師が何を意味しているのかの結論部分になりますが、先に触れておきます。12は完全数を現しており、人数、回数ではなく、神は、私たちに完全な助け手を与えてくださるということです。ですから、士師記、士師とは、先ずもって神の恩寵の許にあることを覚えるわけです。

さて、ではもう少しサムソンを出生から掘り下げて、その恩寵、恵みの深さに触れていきたいと願います。

サムソンの誕生は、アブラハムの祝福に続くことを象徴しています。アブラハムになかなか子が与えられなかったように、サムソンの父マノアと、その妻の間にも子がいなかったのですが、主の御使いによってサムソンの誕生を告げられ、この世に生まれてきました。

サムソンは祈りによってナジル人(神に献げられた子)として育てられました。彼の両親が敬虔な信仰者であったことが分かる。両親の祈りの中で、(士師記13:24)「主は彼を祝福された」とある。

しかし、サムソンは何故かペリシテ人と結婚することを望んだ。両親は、なんたることか反対した。 

両親、サムソンは、ダン族の者であって、十二部族に嗣業が分割された時、そこはペリシテ人の土地であり、ペリシテとは因縁の関係と言える(士師記18:1によれば、ダン族の定住は、ペリシテ人によって上手くいかなかった)。

ですから、当然、両親が反対したわけです。この結婚に反対したのは、両親だけではありません。

当然、ペリシテ人も面白くない、そのサムソンが結婚の宴席で謎かけをしかけてきて、それが解けないので、ペリシテ人たちは、新婦に謎ときの答えをサムソンから聞き出すように脅しました。

秘密を語ったサムソンが悪いのですが、この結婚はたちまち立ち消えとなりました。

しかし、暫く時が経ち、再びサムソンはガザに住むペリシテ人、デリラを愛するようになった。そして前回同様、ペリシテ人はデリラを籠絡してサムソンを殺めようとした。

デリラは領主から「我々は一人一人お前に銀千百枚を与えよう」(士師記3:3によれば領主は5人だから銀7500枚)と言われ、サムソンを売り渡すことにした。

サムソンは、前回は、なぞ解きの答えを言ってしまっただけなので、無事であったわけですが、今回は三度目の誘惑、泣き落としに根負けして、ナジル人の証である「七房の毛」を剃られてしまい、両眼を抉られ、牢獄で奴隷として粉挽きに従事させられることになってしまいました。

やがて再び毛が伸びた頃、ペリシテの領主達がダゴン神殿での宴会の見世物にサムソンを牢獄から連れ出すと、サムソンは主に祈って言った。

「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こして下さい。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください。」

すると再び「主の力」が与えられ、サムソンは自分の命と引き換えにダゴン神殿の柱を引き倒し、生きている間よりも多くのペリシテ人の命を奪って復讐を果たすことができたのであった。と、こう士師サムソンの物語は締めくくられるわけなんです。

先週、ギデオンが精鋭300人によってミディアン人に勝利した!13万5千人を打ち殺した! と同様ですが、この「イスラエル人対異邦人」の構図を、私たちは受け継ぐことはできない。

16章にいたるまでの、サムソンの殺戮行為としか言いようがないペリシテ人への蛮行がある、なぞ解きを答えられた腹いせに三十人を打ち殺しています。

それで破綻したはずの妻を求めて、適わないと、結果として1千人を、ろばのあご骨で打ち殺しました。そして、今、ダゴン神殿で3千人の命を奪った。

あのダビデとペリシテ人ゴリアトとの戦いにおいて、ペリシテ軍が執拗なまでにイスラエルを罵倒する裏に、この殺戮の歴史が語り継がれていることを思うと、旧約聖書は、本当に深い人の罪の連鎖を私たちに知らしめるためにあると思わされるのです。

士師記、そして士師12人のメッセージは、第一に、神は必ず選んだ者を祝福してくださる。そのために完全なる助け手を送ってくださる、です。しかして、それは人間、人ではない。

それは、救い主イエス・キリスト、ただお一人であるというメッセージを受け取るために士師記、士師、ひいて言えば旧約聖書全体がある。

完全なる助け手は人ではない、選民イスラエルに代表される、どの民族が完全、どの国民が完全ということは絶対に無い、ということを証するために、士師記は最後の士師サムソンの、「神よ、私に復讐させ給え!」の祈りによる大勝利で終わるのではなく、この後、士師記が「イスラエル対ベニヤミン族」という同胞の血みどろの争いに落ち込んでいくわけです。

イスラエル人だから、何族だからといって完全完璧ではないことが明らかにするためです。

サムソンは確かにアブラハムからの祝福の人であり、ナジル人であり、信仰もあった。確かに神に祈った。しかし、最後の祈りは「復讐させ給え」。

キリストは「父よ、彼らをお赦しください」。ここに、旧約聖書から受け継ぐべき真の教えがあるわけです。

 

先週もアフガニスタンにおける戦争の悲惨さについて触れましたが、また残念なニュースは、やっぱり女性に教育を受けさせないようにする、職に貴賤無しとはいいますが要職から遠ざける、やっぱりだめだな…。さらに残念なニュース、アフガニスタンにおいて長年、医療、緑化、灌漑に身を献げられた中村 哲医師に感謝を表す壁画、肖像画が塗り潰され、その上にタリバンの独立を宣言する文字が書かれた。

ところが、ここから、深い学びを与えられることになりました。

その肖像画制作に関わった「アートローズ」という芸術団体の関係者が声明を出しました。「タリバンは中村という英雄を排除しようとしている」と批判した。これが9月6日、7日のニュースです。

私も全く同じ感情を覚えました。怒り、憤り、許し難いという感情です。

しかし、9月9日、中村医師の志を継いで、医療、灌漑の事業を支援するペシャワールの会、今も現地で活動するNGO「ピース・ジャパン・メディアカルサービス」が、別の考え方、現実の取り組みを発信したんです。

「我々は、タリバン側と協議し、山間部における診療所を再開させることができた。深刻な干ばつ被害にも見舞われているので、農場、用水路建設事業の再開も、理解を得た」というんですね。

さらに、中村医師の肖像が塗り潰されたことについて、「偶像崇拝を嫌うイスラムの文化からすれば違和感はない。中村哲の否定とも考えない」と発表したんです。

勿論、心情は面白くないと思いますよ。しかし、今、最優先にするべきは、人々が、子どもたちがキレイな水が飲めるようにすることであるし、診療所にはコロナ感染が疑わしい人が多く訪れるようになったとあるので、ワクチンの供給活動なわけです。

憎しみ、憎悪、負の連鎖は人の力では切れない。その結果は、いつも弱い人、子どもたちにしわ寄せが向かっていく。

「復讐をさせ給え」の祈りでは何も解決しない、むしろ、次の争いに発展する。サムエル記、列王記、歴代誌にある通り、争いは尽きないわけです。

しかし、「彼らをお赦しください」というキリストの祈りは、今、現実に、アフガニスタンの地で、文字通り「命の水」となって流れている。

 

私たちのキリストの教会もチャリティコンサートによってCOVAXに献げることができた、第2弾としてゴスペルチャリティコンサートを願っていたが延期となってしまった。

致し方ない、やるせない気持ちもある、ではどうする。

自らを献げられた主イエス・キリストを仰ぎ見、祈るならば、時必ずや、時は来る。その時にまた大いに献げることができる。

最後に、第Ⅱコリント5:17-19の御言葉によって主の御声を聞きましょう。

「:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

:18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

:19 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」

人には誰でも怒りや憎しみの感情がある。しかし、自分自身、救い主キリストによって神と和解させていただき、永遠の命の祝福までいただいたものであるのだから、

感謝し、「和解の言葉」、聖書の言葉を委ねられた者として、礼拝をこの世に守り抜き、「和解のために奉仕する任務を授けられた者」として、

チャリティをはじめ、神の御心に適うあらゆる奉仕に仕えて参りたいと願います。

キリストを主と仰ぐ教会は、神愛、自愛、隣人愛によって必ず祝福される。この試練の時、主の祝福を信じて歩み続けましょう。ハレルヤ! 中島 聡牧師

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

筋萎縮性側索硬化症(ALS)とは、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気です。 しかし、筋肉そのものの病気ではなく、筋肉を動かし、かつ運動をつかさどる神経(運動ニューロン)だけが障害をうけます。

 

nakajima on 9月 5th, 2021

士師記7:9-15

イスラエルの士師に選ばれたギデオンの使命はミディアン軍との戦いに勝利することであった。旧約聖書にはイスラエル対諸外国(敵、異邦人、偶像崇拝者)との戦記が延々と綴られているが、そもそも「人類はアダムとエバから」ならば、「血の繋がった人間同士の争い」ということになるし、アフガニスタンの状況を思えば、「聖戦」をそのままに受けとめることはできない。

ミディアン人の祖先は、聖書によればアブラハムとケトラとの間の第4子ミディアンとなっている(創世記25:1-2)。また、兄達の怒りを買って井戸に投げ込まれたヨセフを引き上げ、イシュマエル人の奴隷商人にヨセフを売り飛ばしたのがミディアン人である(創37:28)。また、モーセの伴侶ツィッポラはミディアン人の祭司エトロの娘である(出エ2章)。

“人類皆兄弟”にも関わらず、“聖戦”が記されているのは、人類にとって一番大切なのは、血筋でも民族でも無く、唯一の神を信仰し、自分を愛するように隣人を愛する(神愛、自愛、隣人愛)ことへの反面教師として学ぶ必要があるからと受けとめる。

ギデオンは、ミディアン軍と戦うために3万2千人の兵を集めた。しかし、主は「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心が驕り、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」と言われ、「恐れおののいている者は帰らせる」よう命じられた。すると1万人が残った。主はまだ多すぎるので、前方に注意をはらいながら手ですくって水をすすり飲む者だけを残せと言われた。すると300人が残った。

ミディアンの正確な軍勢の記載は無いが、士師記7:12「ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族は、いなごのように数多く、平野に横たわっていた。らくだも海辺の砂のように数多く、数え切れなかった。」、8:10-11にミディアンの王ゼバとツァルムナは「約1万5千人の軍勢を率いてカルコルにいた。…剣を携えた兵士12万が既に戦死していた」とあるので、少なくとも13万5千の大軍であった。これに対しての300人である。酒樽に身を隠し、奇跡の印を二度も求めたギデオンとは想像できない。主を信じ、主が共におられることを信じた時からギデオンは勇者となった。またこの300人も、誰一人逃げ出さないとは真の精鋭と言える。この後、主の御力によってイスラエルは勝利を収めることができた。

福音伝道に仕え、教会施設、設備を守り維持していくためには一人でも多くの力が必要なことは言うまでもない。しかし、無くてならぬ唯一は主であり、主が共にいてくださるという信仰である。幾ら数があろうとも、“自分の力”と驕り高ぶっては意味が無い。

いかなる艱難試練に対しても、求めるは奇跡ではなく、主が共におられると信じる祈りと、主によって必要は満たされ、この試練を乗り越えることができると主の御名を誉め讃える感謝の讃美である。「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」(歴代誌下16:9) 主に祈り、主の御名を讃美しよう。ハレルヤ! 中島 聡牧師

 

nakajima on 8月 29th, 2021

士師記6:11-18

本日はギデオンの物語に聞いていきます。ギデオンは神さまによってイスラエルに遣わされ、「士師」という役割を担いました。彼は、ミディアン人からイスラエルを守る役割をした人です。さまざまな戦いをこなし、イスラエルを勝利に導きました。

そう言いますと、ギデオンとはとても勇敢で立派な人物なのかと思うかも知れませんが、実際は少し違っています。「ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。」(士師記6:11)とあります。

当時の「酒ぶね」は、葡萄酒を作るのにぶどうの実を踏みつぶす、岩に掘られた穴です。人が入れるぐらいの大きさがあったようですが、そこで彼は小麦を打っていました。それは、ミディアン人が収穫の時期を狙って襲ってくることがあったからです。

普通、「勇者」と言えばどんな人を思い浮かべるでしょうか?読んで字の如く、「勇ましい者」、「勇敢な者」でしょう。正面から敵に勇敢に立ち向かうのが勇者だと普通は思い浮かべる姿ではないでしょうか?

ギデオンはこんな事を言っています。「わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」(士師記6:15)。自分の一族は弱く、自分自身も年下ですから、と言って御使いから敵を倒すように言われても、それはできない、と一度は断るのです。

けれども、聖書が示す本当の勇敢さというのは、恐れを知らずに敵に立ち向かうことなのではないのです。本当の「勇者」とはどういう存在なのか、を教えられるのは御使いの言葉です。御使いはギデオンに「勇者よ、主はあなたと共におられます。」(士師記6:12)と語りました。ここに、本当の勇者とはいかなる者なのか、が語られています。

本当の勇者とは、「主が共にいる人」のことなのです。神さまが共にいてくださる人こそ真の勇者です。そして、「主が共にいてくださるのならば恐れはない」と信じる者こそが真の勇者なのだと、この箇所とそしてギデオンの姿からは教えられます。

新約に目を向けますとヘブル書11章にギデオンが登場します。そこは、「信仰とは何であるのか」がまとめて記された箇所で、旧約に登場する信仰の偉人達が並んで出てまいります。

ギデオンに関しては「信仰によって…弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり」(ヘブル11:34)と語られています。信仰による勝利を得た者として、ギデオンは選ばれているのです。

人間が生来の性質として持っている勇気は限界があります。しかし「主が一緒におられる」ことを信じるところから生じる勇気は、人間的な勇気をはるかに超えた働きをします。ギデオンはそのような「信仰の勇者」であり、このような信仰の人を、神さまは用いてくださいます。私たちにも、「勇者よ、主はあなたと共におられます。」との語りかけがあることを覚え、信仰の勇者として歩みましょう。ハレルヤ! 片平 貴宣牧師

nakajima on 8月 22nd, 2021

マタイによる福音書7:24-29

「あなたは、【砂】の上に家を建てる者ではなく、【岩】の上に家を建てる者となりなさい。」山上の説教を締めくくる教え、信仰の集大成である。

砂も岩も表面上は信仰のこと。しかし、「砂の上の家」は主の言葉を聞いて行わない者、「岩の上の家」は行う者のことであり、似て非なるとはまさにこのこと。砂とは、「私は主を信仰している」と言いながら、人間の考え、自分の価値観、自己中心的な自我を土台とした生き方のこと。それでも平時は大丈夫だが、いざ「雨が降り、川があふれ、風が吹いて、その【家】に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」となる。ここで、論点が【家】に進む。

この教えは実に重層的、複合的であるが、家とは、その人の人生、信仰、そして教会を指している。

その家の土台となる岩とは、真の信仰のことであるが、あくまで私たち、人間のことである。イエス様がペトロ(ケファ=アラム語で岩の断片、石)に向かって「わたしはあなた(岩)の上に教会を建てる」と言われたように。しかして、岩=土台には、隅の親石、要石となる大切な基礎部分があるように、それがイエス様であることを忘れてはならない(「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」エフェソ1:22-23)

家とは上述の通り、私たちの人生、信仰、教会であり、「大雨・洪水=試練」が襲っても倒れないことが大切であるが、倒れない家を建てるにはどうすれば良いのかというと、「イエス様の教えを聞いて行うこと」だと答えが明示されている。では、「行う」とは何か。この教えの前節に「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」(形骸化した宗教所作、礼拝)。ただし、「行う」と言っても「御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行った」としても、「不法」ならば意味が無いとある。では、「遵法」は何か。それは「天の父の御心を行う」ことである。

では、【御心】とは何か? 御心とは神を愛し、自分を愛するように隣人を愛すること。では、神愛、自愛、隣人愛とは何か? 神愛と自愛はセットであるが、信じるだけで全ての人を救ってくださる神の愛、そのアガペの愛を信じ感謝して礼拝を守ること、讃美すること、祈ること。そして、隣人愛は、この救い、アガペの愛に隣人を招くことである。

本来、教会、礼拝が閉ざされることはない。しかし、今、対面礼拝を休むことは隣人を愛する信仰によることであり決して教会が倒れることがない。さらにどんな試練にも耐えることができる。隣人を主の救いに招き入れる行い、伝道によって真の人生、信仰、教会が建てられる。今は、示されている福音伝道の備えをして参りましょう。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

マタイによる福音書7:7-12

私たちは人生の旅路を行くとき、言葉ではなく、泣くことでしか尋ねられない無力な子どものような時があります。一生懸命山を越えても、固く閉ざされたドアに出くわすことがあります。ここで諦める人もいれば、あの手この手とこのドアをこじ開けようとする人もいます。しかし、このドアを開けられるのは神様だけだと聖書は語っています。そのドアは死ではなく、永遠の命につながるものです。門をたたくなら、必ず神様は、私たちの魂の渇き、叫びに答えて下さいます。なぜなら、モーセに主が「私は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」と語られたように、神様自らが私たちを見出し、私たちの苦しみを知っておられるからです。私たちが神様を見つけたのではなく、神様が私たちを見出してくださっているのです。だからこそ、私たちは神様に求めることが許されています。そして、求める者には、神様が必ず良いものをくださるとイエス様はおっしゃるのです。

イエス様は「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」と続けて教えられました。ここで、イエス様は自分たちの願うことばかりでなく、他者へも同じようにしなさいと教えられるのです。私たちは幼い時から「人にされて嫌なことはしてはいけない」と教わってきました。しかし、イエス様はネガティブではなく、ポジティブにこの黄金律を語ります。イエス様は、義の本質は罪の否定的な回避ではなく、建設的な善行であると教えられました。それは、イエス様の人生やたとえ話(マタイ25:31-46、ルカ10:25-37等)にも表れています。

しかし、私たちがこの黄金律を実践するのは容易いことではありません。ここに至るまでには試練があります。ですが、神様の霊によって私たちの心が変えられ、神様の力が働くならばそれは可能となります。様々な試練を通して、私たちは神様により頼むこと、明け渡すこと、神様を必要とする者であることを自覚するのです。田中 尚美伝道師