nakajima on 10月 13th, 2019

列王記上18:30~40

主の預言者を迫害するアハブ王、イゼベル女王の下、偶像崇拝がはびこるイスラエルにおいて、エリヤは敢然と戦いを挑むことになった。それは単身エリヤと王宮に召し抱えられた450人のバアルの預言者、さらに400人のアシェラの預言者との戦いであり、到底、勝利を望み得ない状況であった。しかし、荒野の40年を彷彿とさせる干ばつの危機にあって主に守られたエリヤは、最強のエジプト軍を退け、イスラエルを守り抜かれた万軍の主が我が主であるとの確信に立って、どちらの神が真の神であるかの戦いを挑んだ。

その戦いはカルメル山において繰り広げられることになったが、そこにはイスラエルの民も集められていた。皆、主の救い・出エジプトの恩寵に与ったものの末裔であったが、600年の時が経過し、すでに真の神を見失ってしまっており、エリヤに味方する者は誰もいなかった。

エリヤは祭壇の犠牲の供え物に天から火を降らせることができる御方が真の神だと戦いを挑んだ。バアルの預言者もアシェラの預言者も半狂乱の体で祈り叫んだが、無論、火は降らなかった。しかし、エリヤが「アブラハム、イサク、イスラエルの神」に祈り求めると、天からの火が犠牲の供え物も、祭壇の周囲に満たされた水もすべて焼き尽くした。「これを見たすべての民はひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です』と言った。」四面楚歌、絶体絶命のような状況であったが、エリヤは、信仰によって、まず主の勝利を預言した。

「神に感謝します。神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」(Ⅱコリント2:14)。主は私たちを勝利に導かれるまで、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消されない御方です(マタイ12:20)。今、困難と試練にあっても、「私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(Ⅰコリント15:57)。ハレルヤ!  中島 聡主任牧師

列王記上17:8~16

列王記上17章は、エリヤにまつわる3つの奇跡が記されており、この三奇跡は、聖書全体にわたる救済史の縮図であり、預言者として歩み行くため、信仰の戦いを戦い抜くために大切なことは何であるかが示されている。

①1-7節。数年の間、露も雨も降らない試練は、「荒野の四十年」を経て救われたイスラエルを表している。数羽の烏が朝に夕にパンと肉を運んできたとは、マナと鶉(うずら)を彷彿させる。干ばつにおける川の水は、エリムの十二の泉、マサとメリバの水(出エジプト記15:27、17:1-7)であって、たとえ自らの失態が招いた試練であっても、主は主に信じ従い、執り為す者=預言者がいれば、民を助けてくださることが記されている。

②8-16節。窮乏はなお続くが、一人の寡婦によって養われる。寡婦は残り僅かパン一切れを作るだけの小麦粉と油しか持っていなかったが、エリヤにそれを捧げたところ、壺の粉、瓶の油は尽きることなく幾日も食べ続けることができた。ここで余りの寡婦の窮状に注目する。寡婦は息子と最後のパンを食べて、あとは死を待つばかりだった。その悲惨が、残り僅かを捧げたことにより祝福に変えられた。これは、「五千人、四千人の給食」を彷彿させる。数万人の民が食事も持たずにいた。これがどんなに悲惨な状況であるか。福音書は「群衆を見て深く憐れみ」とイエス様の心情を明かにしている。ルカでは「飼い主のいない羊のような」(放っておけば死んでいく)人々と憐れんでいる。この群衆、ほとんどがイエス様の癒しの奇跡を求めて来ている。病に苦しみ、食べるに事欠き、そんな人たちが数万人いる。弟子達もどうしようもない状態であったが、たった一人の少年が弁当を捧げると、主はそれを祝福され、皆の腹を満たされたのであった。

③すべて万事上手く行くと思いきや、一人息子が死んでしまい、母は絶望の淵に立たされる。しかし、エリヤが子どもに三度身を重ねると生き返ったことは、イエス・キリストの十字架と復活を予兆している。弟子達も一度は、イエス様の十字架で絶望したことだろう。母の「あなたの口にある主の言葉は真実です」と告白して17章は終わる。百人隊長は十字架のイエス様から救い主を確信した。またマリヤをはじめ、弟子達も復活の主を確信していった。信仰、預言、伝道にとって大切なことは、試練にあっても、絶望にあっても、ひたすらに主の臨在と導きを信じて主に従うことである。ハレルヤ!  中島 聡主任牧師

nakajima on 9月 29th, 2019

Ⅱテモテ 4:1~8

パウロは、弟子たちを守り、時に慰め、時に励まし、育てるために多くの手紙を書いた。それは一人一人のためでもあるが、同時に福音(宣教者)を担う教会を育てるためでもあり、それらが新約聖書となったことに深い意義を覚える。

聖書=神の言葉は、神の御子イエス・キリストによる救いの福音と、その福音を宣べ伝えるのに不十分な存在である私たちを励まし導き、力づけて育てるための書、主の愛に満ちた書であることをもう一度心に刻みたい。

オネシモ、エパフロディト、テモテを受ける入れるように書き送られた手紙に学んできたが、パウロは、特にテモテには入念に筆を重ねて手紙を書き送っている。それだけ、案ずること、課題があり、また大いに期待をしていたのだと思わされる。

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」

今日も、伝道師、牧師が立てられる際に朗読される聖句であり、福音宣教の基本である。真の救いは、イエス・キリストを救い主と信じること、キリストに罪を贖いとっていただき、赦していただくために悔い改めて洗礼を受けること、救いを自分だけのものとせずに、隣人に宣べ伝える者となること、一言で言うなら、「神愛・自愛・隣人愛(神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する)」である。

そして、私たちはやがて神の子として皆、「義の冠」を受け、真の救い、栄光に満たされるのである。手塩にかけることを惜しまなかったパウロ、私たちに義の冠を与えるため、その頭に茨の冠を被られたキリストの愛によって福音伝道に仕えてまいりましょう。ハレルヤ!  中島 聡主任牧師

nakajima on 9月 27th, 2019

フィリピ 2:19~30

テモテとエパフロディトについての依頼。お願い事の手紙にしては、パウロ節というか、かなり辛辣な物言いで始まっている。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」もし自分がフィリピの教会員だったとしたら、散々な頼まれ方と思われるが、パウロの真意はフィリピの教会を責めることにあるのではない。

むしろ、フィリピの教会だけが、パウロの宣教をそのスタートからよく助け、パウロの窮乏を救ってきたことが後に記されている(フィリピ4:15-16)。フィリピの教会は、パウロによって紫布の商人リディアとその家族、占いの霊に取り憑かれていた女性を救ったがために投獄されたパウロによって、大地震の夜に一人の脱獄者も出さずに済んで命を救われた看守とその家族から始まった教会である(使徒言行録16章)。フィリピの教会はとても熱心だったのである。だからとは言えないが、厳格な律法主義の教えが教会を真理から遠ざけようとしていた。

パウロの依頼①テモテを受け入れてくれ。テモテは、何らかの出来事によって、神の賜物が消えかかっており、臆病の霊に吹かれていた(Ⅱテモテ1:6-7)。しかし、パウロはテモテを「わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」(同2:1)と励まし、彼を宣教者、教会の監督として立ち直らせたのである。②エパフロディトを受け入れてくれ。彼はパウロの宣教を助けるべきであったが、瀕死の重病に陥ってしまった。普通、「元気になったら頑張って」であるが、間違った律法主義、成果主義的な教会においては“主の御役に立てなかった失敗者”である。しかし、パウロはオネシモにしても、テモテ、エバフロディトにしても、ひたすらに主の真理に照らして、手塩にかけて愛し、育てた。たとえ自分が獄中にあっても。かつて自分が主の光に照らされ、滅ぶべき迫害者であったのに、主に愛され、宣教者とされたからである。愛によって育てられた彼らは皆、主の器となった。主の愛を知る者とされた恵みに感謝!ハレルヤ!中島  聡主任牧師

nakajima on 9月 15th, 2019

フィレモン8~16

フィレモンへの手紙・パウロの獄中書簡の一つ。パウロのコロサイへの宣教によってクリスチャンとなったフィレモンは、自宅を「家の教会」として提供していた。彼にはオネシモ(「役に立つ」という意味で、奴隷に多い名前)という奴隷がいたが、何らかの事情によって逃亡してしまい、今、パウロのもとに身を寄せている。逃亡自体が処罰対象の時代であったので、主人の元に帰らせるにあたり、一筆したためたのがフィレモンへの手紙である。

本書はフェレモン宛てと同時に、主だったメンバーの名前と、「家にある教会へ」とあるので、単なる私信ではなく、オネシモに関して教会としての判断を求めている。先ず、獄中の身でありながら、オネシモの身を案じるパウロの愛に学ぶ。次に、奴隷という身分にある者、しかも逃亡という違反を犯した者への愛を学ぶ。ローマ帝国の覇権拡大に伴って急激に増加した奴隷の扱いは劣悪になり、奴隷虐待に関する種々の処罰法を定めねばならなかった。勿論、今日においては奴隷制度そのものが罪であるが、そのような時代にあって、パウロが示したオネシモへの処遇依頼は刮目に価する。パウロは、オネシモを「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として、…一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」と、逃亡を許すばかりではなく、奴隷から解放し、自由人として迎え入れるように依頼している。驚くべき依頼だが、しかし、そもそも奴隷と言うなら、全イスラエルは奴隷の末裔であり、奴隷からの解放=罪からの解放は、聖書全巻の最重要テーマであると言える。パウロがオネシモに関する負債、損害があれば自らその責を負うと「自筆」でしたためたことは、神の愛~キリストの自己犠牲による贖いに倣う信仰のゆえであった。この愛の故に一人の人が解放され、後にエフェソの教会の優れた監督となったという伝承は心に響く。神の愛によって皆、罪と様々な縄目から解放され、福音を宣べ伝えることができる者とされるのです。ハレルヤ!中島聡主任牧師

nakajima on 9月 8th, 2019

Ⅰコリント13:1~13

愛の教えは、前章の「霊的な賜物の用い方」として、「最高の道」を記しています。それは教会を造り上げる道であり、信仰者の歩み方の最善を示しています。教会は、信仰者一人一人が体の各部位のごとくに各々の特性を活かし働きますが、決してばらばらではなく、まるで一つの体であるように共同体を形成していくのです。そして、体の全ての部位が、酸素、栄養を供給されなければ壊死してしまうように、絶えずキリストの霊を注がれて奉仕を為せるように、礼拝、祈祷会を第一に教会・信仰生活を送る必要があるのです。

教会には、「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、奇跡、病気を癒す賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者など」が与えられていますが、聖書は、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」と教えます。使徒よりも、預言者よりももっと大きな賜物、それが愛なのです。預言も、異言も、山を動かすほどの完全な信仰も、全財産を施しても、殉教したとしても、愛が無ければ無に等しく、無益、それほど愛は「最高」なのです。

その愛について15の特性が記されています。1)忍耐強い、2)情け深い、3)妬まない、4)自慢しない、5)高ぶらない、6)礼を失わない、7)自分の利益を追求しない、8)苛立たない、9)恨みを抱かない、10)不義を喜ばないで真実を喜ぶ、11)すべてを忍ぶ、12)すべてを信じる、13)すべてを望む、14)すべてを耐える、15)決して滅びない。どれも意義深く、かつ達成困難なものばかりですが、その中でも一番最初に置かれ、さらに11)、14)と、三度繰り返されているとおり、愛とは何かを一言で言うなら、「愛は忍耐」ということになります。13章に9回出てくる愛は全部アガペの愛であり、私達が熱心に求めるべき最高の賜物とは、神の愛、すなわち忍耐の愛なのです。先ず神の愛を求め、そして14章、福音を宣べ伝えるための霊的な賜物、特に預言の賜物を熱心に求めなさい、それは祈りと賛美に現されるとあり、そこに「アーメン」(主よ、真にそのとおりですという信仰告白、救いの成就)が生まれるのです。 ハレルヤ!中島聡主任牧師

使徒言行録27:21~26

使徒パウロのローマへの旅は、長く困難な旅でした。

使徒パウロの伝道旅行の中で、これほど自然との闘いを記しているところはほかにありません。2コリント11:16以下に、伝道の際に起こった苦労がまとめて記されてありますが、3度難破し、一昼夜、海の上を漂ったことさえもあると言っています。

使徒パウロのローマ行きは主によって約束されていました。エルサレムで捕らえられた夜には、主なる神さまが「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(使徒23:11)と示されました。

しかしながら、早くから示されていたことも、その目標到達までには、並々ならぬ困難が待ち受けていました。それを思う時、私たちクリスチャンが主なる神さまの御心を行うのに多くの困難を乗り越えていかなければならないことは、むしろ当然なのだということを感じさせられます。

パウロはほかの囚人達と一緒に護送されました。その航海は大変なものでした。風が彼らの行く手を遮ったのです。そのようにして航海が手間取るうちに、季節は過ぎてしまい、船旅には危険な季節となってしまいました。

まもなくパウロの心配は的中し、船は暴風、大嵐に遭遇し、太陽も星も見えず、船の進路もつかむことが出来ないので助かる望みは全く消えようとしていました。

そんな絶望的な状況の中で使徒パウロは語ります。「だれ一人として命を失う者はないのです。…神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」(使徒27:22-24)

使徒パウロが、きわめて困難な状況に置かれながらもこう語り得たのは、主の約束を信じ、それが確かなものであると確信していたからです。

「人生の海の嵐に」(聖歌472)に歌われているように、私たちの人生とは嵐にもまれる船のようなものです。しかし、主イエスが私たちの港、安らぎを与えてくれる場です。主にある確かな平安を得て、福音宣教へと遣わされていきましょう。ハレルヤ!

片平貴宣牧師

nakajima on 9月 4th, 2019

使徒言行録19:8~22

神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。

19章はパウロのエフェソでの伝道が記されています。当時、エフェソはローマ属州アジア州の首都とされ、貿易で栄えた町でした。また、エフェソは黒魔術も有名で、アルテミス大神殿があり人々は魔術本やオカルトにはまっており、それで利益を生む人々もいました。そんなエフェソにパウロは異例の長さの約3年留まり伝道をしました。エフェソから送ったⅠコリントの信徒への手紙には「私の働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです(16:8-9)」と記されています。このようにたくさんの実りがある一方、苦難や困難が同じぐらいあったことが窺えます。

エフェソでの伝道の問題には大きく分けて3つの壁がありました。1つはヨハネの洗礼しか受けたことがなく、イエス・キリストを知らない弟子たちです。2つ目は黒魔術です。人々は魔術や占いを好んで行っていました。そして、3つ目は、偶像礼拝の問題とそこから利益を生み出す人々です。このような状況の中、パウロは、講堂で人々の休憩時間に神の国を宣べ伝え、人々を救いに導きました。また、神様はパウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われたのです。それを見たものがパウロを真似て悪霊を追い出そうとしましたが、逆に彼らが襲われる事件がおこりました。魔術とは人間が良いように超自然をコントロールしようと試みることであり、神様のご意志を曲げようとすることです。それは、人が神様の法つまり秩序をコントロールしようとすることだからです。しかし、奇跡とは、神様の行為であり決して人の行為ではありません。11節を見ますと、「神は」となっています。ここで主語は神様でありパウロではありません。パウロが奇跡を起こしたのではなく、神様ご自身が働かれたということです。奇跡とは上からの神様からのコントロールであり、神様の御意志であるということがわかります。

このようにパウロは神様の助けをいただきながら、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、誰もが主の言葉を聞くことになったのです。パウロはエフェソに滞在中、ローマ行きを常に熱望し、またコリントの教会を心配していました。パウロは手紙の中で弱音をよく吐いています。しかし、同時に神様は耐えられない試練は与えられないと語っています。それは、その苦しみを共に背負ってくださる主イエスが共にいてくださるからです。

ハレルヤ!田中尚美伝道師

nakajima on 8月 21st, 2019

使徒言行録16:25~34

世界に福音を宣べ伝えるため、使徒パウロはフィリピ(現在のトルコとギリシャの境当たり)を訪れていた。そこに「占いの霊に取り憑かれた女奴隷」がいた。

「当たるも八卦当たらぬも八卦」(Fortune telling does not always come true.

Fortune telling is a hit or miss)だが、占いを好む人たちによって相当稼ぎ出していた。しかし、パウロとシラスの福音に触れて、「いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えている」と“信仰告白”、伝道の叫びをあげ続けるようになった。

叫び声では伝道にならないのでパウロはこの女性から「占いの霊」を追放したが、占いによって金儲けをしていた主人たちがパウロとシラスを捕らえて、違法な行為を働いていると訴え出た。

二人は一方的な取り調べの挙げ句に衣服をはぎとられ、何度も鞭打たれ、一番奥の牢に投げ込まれてしまった。鞭打たれ、足枷をはめられた体は、身悶えする痛みに苛まされていたであろうが、二人は真夜中まで「賛美の歌をうたって、神に祈っていた」のであった!すると大地震が起こり、牢の戸がみな開き、囚人たちの鎖も切れてしまった。看守は、囚人たちが脱獄したに違いないと思い込み、自害しようとしたが、パウロの呼びかけによって一命を取り留めた。賛美と祈りに聞き入り、福音に触れた囚人たちは誰一人、脱獄していなかったのである。

異国の地における鞭打ちと投獄は、本来、絶望であるが、賛美と祈りが救いの奇跡をもたらしたのだ。福音に触れ、主イエスを信じることによって罪の赦しが得られると信じた囚人たちは、もはや脱獄の必要は無いと悟ったのであろう。その様を目の当たりにした看守もまた、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」の言葉に信じ従ったのであった。

どんな困難にあろうとも、まず、私たちが信じ、賛美し、祈ること。然(さ)すれば「主イエスを信じなさい。」との伝道が実を結んでいくのである。救いの恵みに感謝し、賛美し、祈る。9月16日、福音伝道の恵みの時を目指してハレルヤ!中島 聡主任牧師

使徒言行録13:42~52

パウロとバルナバによるアンティオキア(現トルコ共和国)宣教。パウロは、アブラハム、モーセ、サムエル、サウル、ダビデ、バプテスマのヨハネ、イエス・キリスト、神の壮大なる救済史~かつて自分が迫害したステファノの説教を彷彿させる~を語り聞かせた。特にイエス・キリストの復活と、この方による罪の赦し、「信じる者は皆、この方によって義とされる」信仰義認に力点が置かれた、見事という他ない説教であった。

しかし、「ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。』」(10:34)との告白に学んだ通り、すべての人が救われる、律法ではなく信仰によって救われるという真理には、一朝一夕に到達できるものではなかった。

使徒言行録は、聖霊の力によって福音が宣べ伝えられると同時に、この人の弱さゆえの争い、対立が鮮明に描かれている(福音書からずっとそうであるが)。①ユダヤ人対異邦人、②ユダヤ教対キリスト教、③そしてキリスト教の中でも律法を重んじるユダヤ人キリスト教徒と異邦人からの改宗者、幾重もの争いと対立が繰り広げられるのである。

パウロとバルナバの宣教によって「ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」ので、ユダヤ人が妨害に出た。救いは、ユダヤ人だけではなく、すべての人にもたらされる。本来、喜ばしいことだが、人は特権(選民)、既得権、優遇、プレミアムの類に弱い。つい、自分だけ、自分たちだけ、に流される。アンティオキアは最初期にキリスト教会が形成された地であったが(「アンティオキア出身の改宗者ニコラオ」(6:5)、「アンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(11:26))、その道のりは決して平坦なものではなかった。しかし、「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも、救いをもたらすために」。この主が我らを福音に召し出し、必要の全てを与えて下さるからハレルヤ!中島 聡主任牧師