「・・・。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。・・・。」 マタイによる福音書20:18~19

 キリストの十字架は、日頃神を信じ、教えを守り、自分こそ神に選ばれている者だと自負する人々と、神との契約から遠く、神を知らず、信仰のない人々に次々と引き渡された結果です。誰がそんなことをしたのでしょう。それはイエスさまを日頃慕い、「ホサナ、ホサナ、今来る王に祝福あれ」とエルサレムにお迎えした群衆です。どうしてそうなってしまったのでしょうか。
 「引き渡す」、それは自分との関係を断つことです。イスカリオテのユダの「裏切り」も文字通りこのことでした。とすると、イエスさまとの関わりを恐れて逃げ出したほかの弟子たちも同じです。
 キリストの十字架は、神が人となってまで近づき、関わりを持とうとされているにもかかわらず、日和見的なわたしたちの都合で安易にそれを退けた結果なのです。
 「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きているのである」(ガラテヤ2:20)と告白するほどにキリストに結ばれていたいものです。