「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分の物だと言う者はなく、全てを共有していた。」(使徒4:10-11)初代教会の最初の姿は、「神の国」と言っても過言ではなく、「教会かくあるべし」と示される。しかし、早晩、アダムとエバが楽園から追放されたように、教会は《神の似姿》としての在り様を失っていく(使徒5:1-11、6:1、Ⅰコリ11:21)。

 『富める青年(議員)』の話を想う。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやり…それから私に従いなさい。」(ルカ18:22) 青年は「非常に悲しみ」その場を立ち去った。主に従い、教会を建て上げるとは何と難しいことか!
 「義人はいない、一人もいない」(ロマ書3:10*口語訳) 私たちは決して、完全な存在にはなれない。それでもイエス様は十字架で自らの命を捧げ、私達に聖霊を注いで、私達を「義なる者」として下さった(テトス3:6-7)。だからこそ、救いの恵みに応えて、「十分の一」(マラキ3:10)を主に喜んで捧げ、主に従い、教会を建て上げていきたい。
 「連理(別々の木が途中から絡み合い一つの木となる)・比翼(翼が一つずつの鳥が常に一緒に飛んでいる空想の鳥)の愛」とは、なかなか行かないものであるが、イエス様は「インマヌエル-わたしはあなたと共にいる」と約束された。清水ヶ丘教会は主の教会。主の愛を信じ、教会を建て上げて参りましょう。ハレルヤ!