創世記は、天地万物の創造、人類の創生を通じて、「主の祝福」という信仰の大命題を明らかにする。地球規模、全世界、全人類への祝福が三度宣言されているが、決して「甘やかし」ではなく、それぞれに制約、付帯条件がつけられており、信仰には、目指すべき地平があるという教えが込められている。また、ちょうど人間の成長過程に合わせて、乗り越えるべき試練、艱難苦難もあることを教える。

第1の祝福・アダムとエバには、「善悪の知識の木の実を食べてはならない」という制約はあるが、試練はなく、最初から「エデンの園」に象徴される満ち足りた環境が全て備えられている。これは、人が赤ちゃんの頃は、全て備えられ、愛されて成長するべきことを示している。

第2の祝福・ノアには、大洪水に象徴される災害、災難という試練が描かれている。世の中、成長過程には何かしら理不尽な、辛いことがある。しかし、真の信仰は、主の救いを伝えるためならば災難苦難を乗り越え、救いの箱舟を作り、生きて行くことと示される。

第3の祝福・アブラハムには、祝福の約束と共に、“時間”という試練が、横たえられている。「あなたの子孫を大地の砂、天の星のように」と告げられてから四半世紀が経った。信仰者は誰しも、いつまで待っても成就しない夢や希望、やがて老いていくという人生の中から、それでも救いを宣べ伝えるために立ち上がるという真の信仰を掴み取っていく。

信仰の頂、それは自らを献げてでも、救いを宣べ伝えるということである。アブラハムは祝福の源となるイサクを主に献げる決心をしたが、「主の山に備えあり」、主はその信仰に応えて犠牲の供え物を備えてくださった。そして、全人類へ祝福のため、御子イエス・キリストを十字架に献げてくださった。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。…あなたがたのために場所を用意しに行く。」主の祝福にハレルヤ!