10月
18
ルカ15:3~10 「迷子になった一匹の羊」、「無くなった一枚の銀貨」に例えて、主の愛が明らかにされる。迷い出た羊が悪い、整理しておかなかったのが悪い。マイナスの出来事に対して、欠点の指摘は誰にでも出来る。しかし、主イエスは、とにかく探し出すことに全力を尽くし、見つかったならば喜んでくださる。愛していなければできないこと。
私達は、自らの弱さ、罪によって、大切なものを失ってしまうことがある。また国家の政策によっては平和を失ってしまうことさえある。しかし、主イエスは平和の主である。「実に、キリストは私たちの平和であります。…十字架を通して、両者を一つの体として和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:14-16)主は、自らの命を十字架に架けてでも、愛する私たちの平和、幸せを願っておられる。私達は、この平和の主を仰ぎ見て、祈り続けるものでありたい。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12-13)
私たちには、欠けも罪もあるが、主イエスが私達を贖い、癒し、聖潔(きよめ)てくださる。倉持芳雄牧師は、この福音を日本人のみならず、朝鮮人の方々にも伝えようと、一緒に伝道された。倉持先生が天に召されて25周年。私たちは、記念の礼拝を守り、韓国、日本において、共に平和の主を宣べ伝えて参りたい。たとえ、人の目からすれば、失われたように見えたとしても、我らには「すべてを完成させる絆」、「主の愛」がある。ハレルヤ!