マタイ18:21-35 「赦し」に関する教え。当時のイスラエルでは「三回は赦す」が定番であった。日本でも「仏の顔も三度まで」(「地蔵の顔も三度」)と教えられる(本来は「仏の顔も三度撫づれば腹立つる」で、すでに三度目で怒りを招くことになっている)。意味するところは、「無遠慮な、敬いの無い願掛けを繰り返すな」というところであろうか。英語でも“Three strikes and you’re out. ”という諺があり、三回当たりが人間の許容範囲と示される。
一番弟子を自負するペトロ、「七回の赦し」を表明して、面目躍如(「サタン、引き下がれ」と責されたことからの名誉回復)を図ったが、主から「七の七十倍の赦し」=「無限の赦し」を諭された。
主は、弟子達に「十字架の死と復活」を三度預言され、「天国の鍵」(教会、聖礼典、陰府に打ち勝つ力、救いの授与の権威)を与えるにあたって、繰り返し言われたことは、「赦し」=「愛し抜く」ということであった。「あなたがたが地上で解くことは天上でも解かれる」(二度)、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」。
ペトロだけでなく、ヤコブとヨハネ、その母に対しても、「偉くなりたい者は皆に仕える者になり、一番上になりたい者は皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と「赦し」の実質を諭された。
「赦す」とは恩赦の宣言ではなく、その人のために自分を献げることであり、回数の問題などではないのである。「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」 ハレルヤ!