9月
10
ルカ15:25-32 放蕩息子の譬え。良きサマリヤ人と双璧を成し、ルカ固有の譬え話として燦然と光を放つ。
厚かましくも生前贈与を求め、まとまった財産を手にするや家、家族を捨て、町で放蕩の限りを尽くして身を持ち崩し、豚の餌を食べたいと思うほどに落ちぶれて、やっと自分の過ちを悔い改め、「父なら私を許してくれるかもしれない」と故郷に帰る決心をした弟息子。究極の甘えであるが、父なる神は「遠く離れていたのに息子を見つけ、憐れに思い、走り寄って抱き締め、最上の服を着せ、指輪をはめてやり(後継者としての認知)、履物をはかせ、祝宴を開いてやった。
兄息子は、これに大層腹を立てた。弟息子がやりたい放題やっていた最中も、兄は父に献身的に仕えてきたのだから無理もないと思えるかも知れないが、悔い改めて主を慕う者を救う、信仰とは斯くなるものである。兄が求めていたのは「祝宴=父なる神の愛・救いの信仰」ではなく、「宴会=ご利益・利己的な営利」であったので、大いに不満を覚えたのであった。
兄は、一生懸命やってきた「自分のためには子山羊一匹すらくれなかった」のに、馬鹿な弟のために「肥えた仔牛が屠られた」ことに腹を立てた。「ぶどう園の労働者の譬え」(マタイ20:1-16)で、最後の1時間だけ働いた者に、一日中働いた者と同じ賃金が支払われた時にも、一日中働いた者達が兄息子と同じように怒ったが、主は、「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と言われた。
これが父なる神の愛であり、私達のために十字架にて「神の子羊」が屠られ、「義の冠」が与えられることを忘れてはならない。この主の愛を伝えるために喜び仕えて参りましょう。ハレルヤ!