ルカ24:28-43 主イエス・キリストは十字架の死、陰府への宣教を経て、「復活」という最大の奇跡を顕された。弟子たちが優れていたからか。否、弟子たちは実際のところ復活を信じてはいなかった。降誕の奇跡も然り。私たち、人間は主による救いの奇跡を受けるに価するものを持っていないし、そのような行いもしていない。にも関わらず主は降誕し、復活された。これが主による救いである。

私たちはただ信じるだけで、この救いに与ることができるのである。では誰が信じることができるのか。

エマオに向かって二人の弟子が歩いていた。いわゆる十二弟子以外の弟子、「一人の名はクレオパ」とあるだけで、もう一人はどこの誰かも分からない。この二人の弟子が何か優れていたのか。否、「暗い顔をして」とあるように、十字架の死が彼らに暗い影を落としており、何らの希望も持っていなかったことが分かる。主からすればどれほど歯がゆかったことであろうか。しかし、主はその二人のために一緒に歩かれ、そして一緒に泊まることにしてくださった(ザアカイの家に泊まろうとされたように)。

主を信じ、主の復活・永遠の命の恵みに与ることができる者とは誰か。主が選び、主が愛してくださった一人一人である。私たちは弱く、主の救い、復活の奇跡を伝えるに力及ばない者である。時には失意の内に人生の途上に行き暮れてしまう。しかし、主は私たちと共に歩んでくださり、「聖餐の恵み」をもって、私たちの心を燃え立たせ、新しい力を与えてくださる。二人の弟子は「心の目を開かれ」、すぐにエルサレムに戻り、主の復活を宣べ伝える者となった。私たちも主と共にあるのです。ハレルヤと伝道して参りましょう!  主任牧師 中島 聡