ヨハネ20:24-29 「トマスの不信」が際立って記されているが、マグダラのマリヤをはじめ婦人たちの復活の知らせに対して、「使徒たちはこの話が戯言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)、「彼らはイエスが生きておられること、そしてマリヤがそのイエスを見たことを聞いても信じなかった」(マルコ16:11)、またエマオへの途上から帰ってきた二人の弟子が「行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」(同16:13)とある。弟子達は皆、復活を信じてはいなかったのである。ルカ24:40、本書20:20でもイエス様はわざわざ弟子達に手足、脇腹の傷跡を見せておられる。なんという不信心か。完全に弟子失格、落第であり、マルコではさすがに「イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をお咎めになった」(16:14)とあるが、それでも決して弟子達を見放すことはせずに、弟子達が信じることができるようになるまで復活の御姿を現し続けられた。

そして、トマスに対しては、「釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」との全く無礼な要求に対して、「あなたがたに平和があるように」と祝福の言葉と共にお応えになったのである。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は、幸いである。」真の弟子の境地がここにある。「見る」は「自分」であり、「信じる」は「主イエス」である。どちらを優先させるのか。信じるならば復活の恵み、永遠の命が与えられ、また与えていくことができるのである。「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。」(口語訳・ローマ4:18)ハレルヤ!   主任牧師 中島 聡