マタイ26:36~46 イエス様は「最後の晩餐」において

パンをとり、「賛美の祈り」を唱えてこれを割いて弟子達に与えられた。また御自分の杯をとって、「感謝の祈り」を唱えて、弟子達に飲ませられた。それは十字架において裂かれる御自身の体、血であり、弟子達・私達に永遠の命を与えるための代償であった。

私達はマタイ福音書6:9~15、ルカ11:2~4に依拠する祈りを「主の祈り」(Lord’s Prayer)と呼んでいるが、正しくは、「主が教えられた祈り」であろう。

「バプテスマのヨハネの弟子達が祈っているような祈りを私達にも教えてください」と弟子達が嘆願したところ、主がこのように祈れと教えてくださったのだから、そうだ、「主の祈り」と言うならば、「早朝の祈り」(マルコ1:35)をはじめ、この最後の晩餐における祈り、そして、続くゲッセマネにおける祈りこそが、「主の祈り」である。

主日ごとにささげる「主の祈り」は素晴らしい祈りである。しかし、その祈りに私達の信仰を託すことができるのは、主御自身が祈りつつ歩まれ、その祈りを成就されたからである。自分の命までも献げるにあたって感謝の祈りと賛美の祈りを捧げられた。余りの苦しみゆえ、

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈り、十字架に向かわれた主がおられるので、私達は祈りによって信仰生活を全うすることができるのである。

主は御名によって祈る我らと共におられ(マタイ18:20)、我らの願いをかなえ、必要を与えてくださるのである。伝道を願う!ハレルヤ! 主任牧師 中島 聡