ヨハネによる福音書15:1-10

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

この聖句はとても有名です。この1節には、イエス様の独自性が表現されています。つまり、「まことのぶどうの木はこの私である。」と、真のメシアは私であると語られているのです。そして、その木、幹につながる枝が私たちです。この枝にはブドウの実がなります。その実はどういう実でしょうか。自分の実りは豊かなものでしょうか。周りのほうが豊かでしょうか。彼の実りのほうが豊かだ、私の実りのほうが美味しいとか、はっきり言って私たちにはわかりません。私たちには神様の目、ご判断を理解する、知ることはできないからです。ですが、神様はその実りをご存じです。そして、その実りが豊かなものならば、その実を食べる人、つまり私たちの周りにいる人々が、その実りの良さを感じることができるのです。神様から溢れる愛をいただき、それを栄養として生きるならば、私たちの中に実る愛の実は他者のための実となるのです。

一方、その実りをつける枝は、幹がなければ生きられません。幹から、栄養をもらい、根から発する生命力をもらわなければ伸びることもできません。もし、幹から離れることがあるならば、枝は自らの力で生きることも、自らの力で立つこともできません。ただただ、枯れるだけなのです。時に、私たちは、ついつい自らの力で立とうとしてしまいます。そして、周りが良いというような人になろうとしますし、相手が求めるような人になろうとします。どうにか、みんなが認めてくれるような実をつけようと必死に頑張るのです。ですが、本当の自分、私たちの実りを知っているのは神様だけです。どんな枝になろうとしても、イエス様という幹、最高の栄養である、神様の言葉がなければ、良い実をつけることはできません。だからイエス様は「私につながっていなさい」とおっしゃられるのです。また、自分の力だけでつながっておくこともできない弱い私たちなので、「私もあなたがたにつながっている」とイエス様自らが私たちにつながってくれているとおしゃってくださるのです。

枝は、神様の愛と恵み、そして、許しを覚える時、枝の芯から芯まで神様のみ言葉である栄養が染み渡ります。そして、その栄養が染み渡ってこそ、初めて良い実を結ぶことができ、その実が隣人を愛し、生かすものへとなるのです。        田中尚美伝道師