創世記4:1-15

アダムとエバは、神の創造の意志に従って助け合うことができずに、「善悪の知識の木の実」を食べてしまい、アダムはエデンの園を追放されることになった。エバは神の言葉通り、アダムの後を追い、共に暮らすことになった。

二人に兄カイン、弟アベルが与えられた。兄は土を耕す者となり、弟は羊を飼う者となった。ある日、主に献げるために、兄は土の実りを持ってきた。弟は肥えた羊の初子を持ってきた。神が弟の献げ物に目を留められると、兄は「激しく怒って顔を伏せた」。

エデンの園を追放されたが、神の庇護を受けていたアダムとエバは、神を礼拝することをカインとアベルに伝えていたが、「何のための礼拝か」(=信仰とは何か)を伝えきれていなかった。

礼拝において神に献げるとは、自分に力がある、自分が強い、自分が偉いと認められるためではない。神と隣人に仕えていくことができるように献げるのであり、それこそが信仰なのである。さらに、単に「土の実り」ではなく、「肥えた羊の初子」とあるように、その時の最善を献げることが信仰なのである。ただし、それは贅の限りを意味しているのではない。イエス・キリストが「レプトン銅貨2枚」(マルコ12:42-44)、「水一杯」」(マタイ10:42)、「一度の食事、衣服、宿、見舞い、訪問」(マタイ25:35-36)をもって、天に至る報いがあると言われたように、その人に為し得ることを献げればそれで善いのである。

カインは、激しい怒りを神に諫められたが、反省も悔い改めもできずに、騙して、隠れて、弟を殺してしまった。人の心に、サタンによる原罪が色濃くあることが示される。このことにより、カインは共同体から追放されることになるが、それでも神はカインを見捨てることなく、印を与えて庇護を約束された。まさに“御主印”である。

私たちも隣人に対して怒り、憤りを覚える者であるが、神は私たちに庇護をお与えになる。この神の愛を信じて歩んで参りたい。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」(2コリント9:7-8)ハレルヤ!中島聡主任牧師