創世記11:1-9

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。…ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、…信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」(ヘブライ11:1-7)

ノアの信仰によって、人類は大洪水の裁きを生き延び、再び神の祝福を受け、地に増え広がった。しかし、またしても人の心に、不信仰が満ちることになってしまった。「天まで届く塔のある町を建てて有名になろう。」人生の目的、目標が神への信仰ではなく、高慢な自己実現へとすり替わってしまったのである。

今日、信仰は、第一に主日礼拝によって現される。主の招きに感謝して礼拝堂に集い、主を讃美し、主の言葉に聴き、福音宣教へ遣わされていく。礼拝、教会において高められるのは神の御名であり、私たちではない。私たちは自らを低くして主と教会とに仕える者である。

「そして、全地に散らされないようにしよう。」 私たちは、自分たちが安心して集えるためだけの教会を建てているのではない。私たちは“教会を高くする”ためではなく、教会の敷居を低くし、多くの人々が教会に来ることが出来るようにしていかねばならない。信仰によって教会の外に出て福音の種を蒔いていかねばならない。

「彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」信仰共同体において時に混乱のおこることもある。静まって祈り、各々の心に高慢な思いがないか省みる必要がある。主が中心におられるのではなく、皆が自己中心であったとしたら、たとえ同じ国語であったとしても話しは通じない。塔の建築に携わっていた人たちは、言葉が通じないことでちりぢりになってしまった。もし、塔に込められた願いや想いが自己中心的な欲でなく、皆の幸せを願ってのことであったなら、きっと手話にたどり着き、建築は続行されたことであろう。

「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:15) 教会は、真理を語る時こそ、愛=アガペの愛、キリストに根ざして語らなければならない。そして、何を目的とし、目標としているのかを忘れてはならない。それはキリストに向かって成長することである。

私たちのために十字架を背負って仕えてくださったキリストを目指して互いに仕え合って参りましょう。ハレルヤ!中島 聡主任牧師