ルカによる福音書22:14-23
「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。』」いよいよ捕縛され、鞭打たれ、十字架に磔られようという時、イエス様は弟子たちと過越の食事を共にしたいと切に願っておられたのだ。

私はこの過越の食事を「切に願っておられた」という言葉が心に突き刺さった。この言葉はルカ福音書にしかないが、よく書き記してくれた!という思いである。

これは御自身が、私は三位一体の神である、すなわち、出エジプトを導かれた神であることを表明しておられるのだ。そして、今、過越の食事を願っておられるということは、エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民を救い出された、あの時以来、神の側からの救済の歴史は一時も途切れることなく続いていることを示している。

一方、イスラエルの民はどうであったかというと、列王記下23:21-22「(ヨシヤ)王はすべての民に命じて言った。『この契約の書に記されているとおり、あなたたちの神、主の過越祭を祝え。』士師たちがイスラエルを治めていた時代からこの方、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった。」とある通り、イスラエルの民は出エジプト、過越の恩寵を忘れ、イスラエル王国は分裂し、衰退の一途という歴史を辿っていたわけである。

このことは、歴代誌下35:18「預言者サムエルの時代以来、イスラエルにおいてこのような過越祭が祝われたことはなく、ヨシヤが祭司、レビ人、そこに居合わせたすべてのユダとイスラエルの人々、およびエルサレムの住民と共に祝ったような過越祭を行った者は、イスラエルの歴代の王の中に一人もいなかった。」にも記されており、何とかヨシヤ王によって一度、過越祭を通りして唯一の神への信仰を取り戻そうとしたが、また忘れ果ててしまい、

遂にはアッシリア、バビロンによって滅ぼされ、ローマ帝国の植民地となり、そして、今、祈りの家であるべき神殿を「強盗の巣」にしてしまったにも関わらず、それでもなおイエス様は「過越の食事」をもって、救いを与えようとされているという神の愛に心打たれるのである。

そもそもイスラエルの民が飢饉を逃れてエジプトに移住した後、約束の土地カナンに帰らなかったが故に奴隷となったわけであるが、それでも神は民を救い出されたように、これから神の御子イエス・キリストを裏切り、逃げ出す弟子たちのために、再び過越の食事を共にし、その罪の裁きから弟子たちが過ぎ越されることを切に願っておられたのである。従って、実に神は、御子イエス・キリストは、1500年におよんで過越の食事を切望しておられたのである。

ところで、かつての過越においては、エジプト軍、ファラオの長子は過ぎ越すことができなかった。そして、最後の晩祭においてユダは過ぎ越すことができなかった。どちらにも共通して言えることは、自分の力ですべてのことを為そうとしたという点である。

ファラオは当時、地上最強の軍事力をもってイスラエルを虐げ続けようとした。ユダは、イエス様をユダヤ教指導者たちに売り渡し、絶体絶命の窮地に追い込むことによって、イエス様が超絶的な奇跡をおこされ、ローマの支配下からイスラエルを解放し、かつての王国を取り戻せると、己の考えを最優先させてしまった。ここで、過越の恩寵、主の晩餐の恵みに与る条件は、力があるか無いかではなく、ただひたらすに主を信じ、主の御心に従いゆく従順さであることを示される。

当時、イスラエルの民は、この地上で最も弱い民であった。また、弟子たちも、この後、逃げ出すことしかできない弱い存在であった。しかし、主は、そのような力の有る無しではなく、信じる者を守り、恵みを与えてくださる御方であることを覚えたい。

すべての人を救いに至らせたい。主のその願いは私たちすべて、一人一人を罪の裁きから過ぎ越させることに及んでいる。「これはあなたがたのために与えられるわたしの体である。…これはあなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」と、イエス様はアガペの愛をもって晩餐に私たちを招いておられる。

確かに、私たちは、この神の愛に満ちた最後の晩餐=聖餐に、共に与ることができなくなり、1年が過ぎた。深い悲しみを覚える。しかし、出エジプトの過越からずっと「共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」主の悲しみ、痛み、待ち続けておられた時間に比べれば本当にほんの一時である。

「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

「最後の晩餐」はこの世的に見れば決して楽しい食卓ではなかった。しかし、主は全身全霊を献げて、弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれ、その足までも洗ってくださった。私たちも今、霊的な枯渇、苦しみの中にありますが、主の受難、忍耐し続けられ、捧げ続けられた主の愛を覚え、感謝して祈り、今できることに仕えて参りましょう。ハレルヤ! 中島聡主任牧師