ルカによる福音書23:44-56

今週からいよいよ受難週となります。木曜日は洗足、翌日の金曜日は受難日となります。私はイスラエル旅行に行った時、エルサレムにある「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」と呼ばれる、主イエスが死刑判決を受けてから葬られるまでに実際に歩まれたであろう道筋を辿りました。その最後には聖墳墓教会があります。主イエスの十字架が立てられた岩盤、十字架から降ろされた主イエスが寝かされた岩、そして主の亡骸が収められた墓の一部が、その教会の中にあります。

紀元30年4月のある日の午前9時頃、エルサレム近くのゴルゴダの丘に、ローマ兵の手によって三本の十字架が立てられました。真ん中の十字架には、主イエスが、両側の十字架には、それぞれ犯罪人がつけられました。この三本の十字架の場面は、まさに罪にまみれた私たちのただ中に、神様が真の愛を示して下さったことを象徴します。

自分を王と自称し国家の転覆を謀ったとの、もっとも重い罪を科せられて、最悪の犯罪人と見なされて十字架につけられました。しかし、その罪は全くの濡れ衣でした。群衆は主イエスが無実であったことを誰もが知っていましたが、祭司長たちが嘘の証言を言わせて、何とかして十字架につけようとしました。

主イエスは全くの無実で十字架につけられたにもかかわらず、その苦しみと恥を耐え忍ばれました。敵に対する赦しの言葉を持って、すなわち、愛を持ってこの刑を受けられました。主イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)との執り成しをしてくださり、私たちの罪を贖われました。真ん中の十字架は、愛の象徴です。

そして、その両側にある十字架は、罪人の姿、この世の姿を象徴します。一人は主イエスをののしり、もう一人はそれをたしなめ主からの救いを約束されます。彼らも十字架につけられ苦しい最中にいたわけですから、恨み辛みを述べたくもなったでしょう。自分の罪を認めず、主の救いをも受けいれず滅びへ向かう歩みをする、そのような人がこの世の中にはいるのです。

それに対して、自らの罪を認め、悔い改めて罪の赦しを受け、救いへと与る人がいます。40-42節にその犯罪人の言葉が記されています。「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。」

彼は確かにここで悔い改め、主から救いの約束を受けました。「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」(ルカ23:43)のです。

まさに罪人の真ん中に主イエスは来られ、罪人の身代わりにその命を献げて下さいました。主の十字架によって、救いの道が備えられています。誰でも今、悔い改めて主イエスを救い主として信じるなら、救いに与ることができます。

三本の十字架はまさに、この世に主の愛と救いが示されたことの象徴です。特に今週は受難週を迎えます。主の苦しみと十字架は私のためであり、それを代わって背負ってくださった主の愛を覚えて歩みましょう。    ハレルヤ! 片平貴宣牧師