マタイによる福音書6:25-34

「何を食べようか? 何を着ようか?」と思い悩むなかれ。

「今日の晩ご飯は何にしようか? 今日は何を着て出掛けようか?」とは少し違うようである。「《自分の命のこと》で何を食べようか、何を飲もうか思い悩むな」とあり、「寿命をわずかでも延ばすことができようか」とあるので、不老長寿的な、偏執的な悩みを思わせる。命のために何を食べようか、何を飲もうかと思い悩む余り、却ってストレスで命の害になるということだろう。

また「《自分の体のこと》で何を着ようかと思い悩むな」とあるのは、「服装が身分階級を表していた時代なのでそのことを指摘している」という注解が妥当と思われる。「良く見られたい、見栄を張りたい」、いずれも人の命、存在の本質ではないということだろう。

ルカ福音書に並行記事があるが、マタイは「【自分の】命のこと」、「【自分の】体のこと」と、この思い悩みが極めて自己中心な点を強調している。勿論、ルカもこの「思い悩み記事」の前の“天富”のところで「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」(ルカ12:21)と、自己中心な思い悩みの愚かしさを指弾している。

神は、「空の鳥、野の花」を養い、栄華を極めたソロモンよりも美しくし、価値あるものとされる。まして、あなたがたはそれらよりも価値あるものだ、と宣言されている。

「自分にとって必要なものがある。」そんなことは、神はご存知である。「我らの日毎の糧を今日も与えたまえ」と祈るように主も教えられた。

「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。」ここで、「富める青年」のように、「何という難しいミッションだ」と思い悩んではならない。山上の説教の第一を忘れてはならない。「貧しい者」、「心の貧しい者」はすでに神の国を与えられていることを。“幼な子”は神の国に入れられることを(マルコ10:14)。

神は幼な子のごとくに救いをただ信頼し、また心貧しく救いに飢え渇く一人一人に神の国を与えてくださる。神の義を求めるとは、主を信じ礼拝を守り、主の御名を讃美し、主の言葉の恵みに与り、すでに神の国は与えられたと感謝して自らを献げることに尽きる。私たちは土の器であるが、そこに神が最高の宝である神の国と神の義を注いでくださっていることを信じる。

「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)。自己中心的な不安、不満から解き放たれ、すべての人が神の目に価高く貴い存在であることを宣べ伝える者となるように祈り願っていく。自分と、そして、隣人(次世代、新しい人)の救いを願う時、神の国がそこにある。ハレルヤ!中島聡主任牧師