マタイによる福音書7:1-6

1-2節「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」裁きとは、罪があるかないかを見極め、あったならば科料・過料するために行われること。この教えでは、人を裁くと100%有罪ということになる。 なぜ?

答えは、「主の祈り」とは「十戒=律法」を完全に守ることができない私たちのために、主がアガペの愛によって祈りに焼き直してくださったものと説いたその中にある。

「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」⇒「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」

本来、私たちには意識するとしないに関わらず“罪”がある。8月6日8時15分に広島原爆投下を覚え平和祈念のために教会の鐘を鳴らしたが、世界にはたった1発でも広島型原爆の1500倍の破壊力を持つ核兵器が山のようにある。広島、長崎の惨状の1500倍の地獄など想像もできないが、私たちは人と人、国と国が、そういう兵器を突きつけ合っている世界に生きている。また世界に内乱、紛争は絶えず、難民、食糧難に喘ぎ、きれいな水を飲むことができない子どもたちも数え切れないほどいる。まさに“為す罪・為さざる罪”がある。従って、本来、私たちは祈りによって赦していただかねばならない存在であることを忘れないようにという教えである。

3-5節、そのように先ず自分を省みることを諭されているが、語り口が手厳しい。5節の「偽善者よ」(ルカ福音書でも使用)と言われると、当時の宗教指導者層を指しての言葉であっても、辛い気持ちになる。しかし、それぐらいの心持ちでなければ、自分がすぐ傲慢になって、人を裁く者になることを忘れてはならないと示される。

6節、犬と豚に申し訳ないが、当時、ユダヤでは犬も豚も、異邦人・救われない者の象徴であった。全ての人を裁かずに、2節「量る秤」と相反すると思える。ルカによれば秤とは「与えなさい」、「そうすれば、押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りを良くして、懐に入れてもらえる」とある通り、恵みの報いの教えになっているが、しかし6節では「聖なるもの」を与えてはならない、噛みつかれるだけだと教えている。不可解だが、聖書には聖書が答える。真意は、最後はアガペの愛が勝利するという事。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)

「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」(同12:47)

「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」(同12:48)

この3:17、12:47と12:48の激烈な矛盾こそが、どんな理不尽においても救いを全うされた主の全てを現している。

イエス様がこの12:47,48を語り始められる時、「イエスは、【叫んで】こう言われた」とある。どんなに神の愛による救いを説いても、天の父なる神の権威によって病を癒やし、悪霊を追い払っても、宗教指導者たちは、イエス様を殺そうと計画し、ラザロまでも殺そうと企む始末であったからである。

そう、主は踏みにじられ、噛みつかれたのだ。同12章の27節では、イエス様は「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」と、苦しみの杯を呑み、御名の栄光、御心が成るように心を決められた。そして、主は十字架を全うされ、全ての人に救いを与えられた。

このアガペの愛において、私たちの「裁かずにおれません」の全てが打ち砕かれ、結果、私たちは救われるのである。裁かないとは、「裁かないでおいてやる」ではなく、愛して、その人の救いのために己が身を捧げることであるとイエス様が身を示された。祈り求めるならば主がアガペの愛を土の器に満たしてくださる。ハレルヤ!中島 聡主任牧師