マタイによる福音書7:7-12

私たちは人生の旅路を行くとき、言葉ではなく、泣くことでしか尋ねられない無力な子どものような時があります。一生懸命山を越えても、固く閉ざされたドアに出くわすことがあります。ここで諦める人もいれば、あの手この手とこのドアをこじ開けようとする人もいます。しかし、このドアを開けられるのは神様だけだと聖書は語っています。そのドアは死ではなく、永遠の命につながるものです。門をたたくなら、必ず神様は、私たちの魂の渇き、叫びに答えて下さいます。なぜなら、モーセに主が「私は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」と語られたように、神様自らが私たちを見出し、私たちの苦しみを知っておられるからです。私たちが神様を見つけたのではなく、神様が私たちを見出してくださっているのです。だからこそ、私たちは神様に求めることが許されています。そして、求める者には、神様が必ず良いものをくださるとイエス様はおっしゃるのです。

イエス様は「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」と続けて教えられました。ここで、イエス様は自分たちの願うことばかりでなく、他者へも同じようにしなさいと教えられるのです。私たちは幼い時から「人にされて嫌なことはしてはいけない」と教わってきました。しかし、イエス様はネガティブではなく、ポジティブにこの黄金律を語ります。イエス様は、義の本質は罪の否定的な回避ではなく、建設的な善行であると教えられました。それは、イエス様の人生やたとえ話(マタイ25:31-46、ルカ10:25-37等)にも表れています。

しかし、私たちがこの黄金律を実践するのは容易いことではありません。ここに至るまでには試練があります。ですが、神様の霊によって私たちの心が変えられ、神様の力が働くならばそれは可能となります。様々な試練を通して、私たちは神様により頼むこと、明け渡すこと、神様を必要とする者であることを自覚するのです。田中 尚美伝道師