マタイによる福音書7:24-29

「あなたは、【砂】の上に家を建てる者ではなく、【岩】の上に家を建てる者となりなさい。」山上の説教を締めくくる教え、信仰の集大成である。

砂も岩も表面上は信仰のこと。しかし、「砂の上の家」は主の言葉を聞いて行わない者、「岩の上の家」は行う者のことであり、似て非なるとはまさにこのこと。砂とは、「私は主を信仰している」と言いながら、人間の考え、自分の価値観、自己中心的な自我を土台とした生き方のこと。それでも平時は大丈夫だが、いざ「雨が降り、川があふれ、風が吹いて、その【家】に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」となる。ここで、論点が【家】に進む。

この教えは実に重層的、複合的であるが、家とは、その人の人生、信仰、そして教会を指している。

その家の土台となる岩とは、真の信仰のことであるが、あくまで私たち、人間のことである。イエス様がペトロ(ケファ=アラム語で岩の断片、石)に向かって「わたしはあなた(岩)の上に教会を建てる」と言われたように。しかして、岩=土台には、隅の親石、要石となる大切な基礎部分があるように、それがイエス様であることを忘れてはならない(「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」エフェソ1:22-23)

家とは上述の通り、私たちの人生、信仰、教会であり、「大雨・洪水=試練」が襲っても倒れないことが大切であるが、倒れない家を建てるにはどうすれば良いのかというと、「イエス様の教えを聞いて行うこと」だと答えが明示されている。では、「行う」とは何か。この教えの前節に「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」(形骸化した宗教所作、礼拝)。ただし、「行う」と言っても「御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行った」としても、「不法」ならば意味が無いとある。では、「遵法」は何か。それは「天の父の御心を行う」ことである。

では、【御心】とは何か? 御心とは神を愛し、自分を愛するように隣人を愛すること。では、神愛、自愛、隣人愛とは何か? 神愛と自愛はセットであるが、信じるだけで全ての人を救ってくださる神の愛、そのアガペの愛を信じ感謝して礼拝を守ること、讃美すること、祈ること。そして、隣人愛は、この救い、アガペの愛に隣人を招くことである。

本来、教会、礼拝が閉ざされることはない。しかし、今、対面礼拝を休むことは隣人を愛する信仰によることであり決して教会が倒れることがない。さらにどんな試練にも耐えることができる。隣人を主の救いに招き入れる行い、伝道によって真の人生、信仰、教会が建てられる。今は、示されている福音伝道の備えをして参りましょう。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師