サムエル記上3:15-21

士師、ルツを終えまして、今朝から、サムエルの学びに入りますが、これまでの旧約聖書における神様の救いの契約について、ざっと振り返っておきたいと思います。

神様は、第一にイスラエルをアブラハム、イサク、ヤコブ、すなわち族長を用いて約束の土地に導かれました。しかし、ヨセフの時代になって、民は飢饉から逃れるためにその地を離れ、結果、失ってしまったわけですが、神はモーセ、レビ人ですから、すなわち祭司指導者によって民を再び約束の地に導かれたわけです。

そして、その後継者にヨシュアとカレブも与えてくださいました。しかし、民は約束の土地を嗣業として分け与えられたにも関わらず、神の目に悪とされることを行ったので、その地においてミディアン人、ペリシテ人はじめ諸外国の攻撃にさらされることになってしまった。しかし、神様はギデオンやサムソンなど十二人の士師によって民を守り抜かれたわけです。

しかし、士師の時代が終わりを告げるころ、イスラエルは同族、身内であるベニヤミン族との血みどろの争いもありましたが、宗教指導者による信仰継承は破綻をきたしていたと言えます。

しかし、それでも神は祭司エリを立ててイスラエルを導びこうとされたのですが、エリの二人の息子ホフニとピネハスは「ならず者」と呼ばれていたのであった。なんとも残念なことですが、これがサムエル記上の始まりです。

しかし、それでも神様はイスラエルを助けるためにハンナという女性、信仰深い一人の女性の切なる祈りからサムエルを与えられたのです。ハンナは約束どおりサムエルをナジル人として神に献げるため、献児するため、乳離れするのを待って、祭司エリにその子を委ねました。こうして預言者サムエルが誕生し、神はサムエルを通して「神の救いの言葉」、すなわち、預言を与えられました。

ここで、サムエルが神の預言を聞いた時、「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(3:1)とあることに注目します。神とイスラエルの関係がまことに希薄になっていることが分かります。しかし、本当にそうだったのでしょうか。

確かに私たちの印象には、神様が「サムエルよ、サムエルよ」と三度呼び掛けられ、少年サムエルは、祭司エリが呼び掛けたと思って、「お呼びになりましたか?」、「いいや、わたしは呼んでいない、戻ってやすみなさい」。これが三度続き、エリはサムエルに「今度声が聞こえたら、『主よ、お話ください。僕は聞いております』と答えなさい」と教えた、あのくだりですね。

そして、主の言葉がサムエルに臨んだわけですが、しかし、2章を読みますと、サムエルに告げられた預言、実はもうすでにエリに直接、「神の人」が来て告げていた事柄であったことが分かります(同2:27-36)。当時、すでに主の言葉が臨むことは少なくなっていた、とは、実は聞く私たち、人間の側の心が頑なになっているだけで、神様は、ずっと私たちに語りかけておられるということを示されます。

私たち人間が、静まって、神の御声を慕い求める時、礼拝、祈祷会の時を大切にできているだろうかということを思わされるわけです。

エリとサムエルに告げられた預言の内容は、ならず者となってしまったホフニとピネハスの故に、祭司の家は滅ぼされるというものでした。エリは、「神の人」から直接、この預言を聞いていたんです。そして、「主が御目にかなうとおりに行われるように」と答えていたのですが、二人の息子を諫めることはできなかった。ですから、本来ならばその時点で裁かれているはずなのに、神様は裁きを待たれ、少年サムエルを通して、一人の男の子を通して、悔い改めと救いの機会を与えて下さったのである。

このチャンスがあったわけですが、やがて「サムエルは成長し…主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。…主は御言葉をもって、サムエルに御自身を示された。サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。」(3:19-4:1)またしても神はイスラエルを助けるために新たにサムエルという預言者を立て、エリの家への裁きについても執行を猶予されていたのですね。

この時点において、神様がサムエルを預言者、指導者として立てておられるのは明白です。

ここで、イスラエルがペリシテに出撃する、進撃するという展開になるのですが、おそらくサムエルにイスラエルはどのようにするべきか、の預言、祈りを何一つ求めなかったのでしょう、ホフニとピネハスは戦死し、その知らせを受けた祭司エリも死んでしまった。神様の言葉に耳を傾けなかった、背を向け続けたホフニとピネハス、エリは裁かれることになったのです。

そして、さらには「神の箱」を奪われるという致命的な敗北を喫したにも関わらず、神はペリシテから神の箱を呼び戻され、イスラエルを救おうとされたのであった。このように族長に遡り、神様の救いの御計画を見る時、神様の無尽蔵の、無限大の、アガペの愛はすでに旧約において明らかにされていることを知らされます。

そう、神様は私たちがたとえ、どのような状況になろうとも、救いの契約を違えることはない、必ず救いの契約を成就しようとされる御方であるこということです。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師