サムエル記上10:20-25

族長、祭司、士師、預言者。神様はなんとかしてイスラエルの民を祝福し、外敵に襲われれば助けだそうとされた。民が何度も何度も逆らい、背信の罪を犯したとしても、御自身が選んだ民だからという理由で、愛し抜かれた。

そして、今、イスラエルの導き手として王を立てることにされた。これは神の御意志ではなく、民が「今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」(8:5)と願ったが故であった。

結果から言うと、王制はソロモンまでは良かったが、その後、王国は南北に分裂、アッシリア、バビロンによって滅ぼされることになる。神はサムエルを通して「王はあなたたちの息子を徴用する。王のために耕作や刈り入れに従事させる。武器や戦車の用具を造らせる。あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。羊の十分の一を徴収する。こうしてあなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。」と警告されたにも関わらず、民は「我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」と、王の擁立を嘆願した。

なぜ、民は王の王、主の主、万軍の主、最高最善の神ではなく、人間の王を求めたのだろうか。しかし、私たちもすべてのすべてにおいて神を第一としているかと問われれば、「人間」の価値観、限界性の中での生き方を求めていると言わざるを得ない。

サウルがイスラエル初代の王として選ばれた。本人としては全く寝耳に水。サウルも自分自身を振り返って「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンでも最小の一族(マトリ氏族)の者です。」と王に選ばれ、油注がれることに大きな戸惑いを露わにしている。いよいよ籤で王に選び出された時、いわば戴冠式に臨む時に及んで彼は「荷物の間に隠れて」いた。

王に相応しくないと思えるが、王たる者として必要なことは自己顕示欲、支配欲ではなく、遜る姿勢であることを示される。

「民は叫んで言った『王様万歳』」。致し方ないが、本当は神に感謝の叫び、讃美を捧げるべきことを忘れてはならない。

私たちも主に選ばれて教会を建て、礼拝を捧げている。常に主に感謝の讃美、祈りを捧げる群として歩み続けて参りましょう。

ハレルヤ! 中島 聡牧師