nakajima on 8月 16th, 2020

創世記1:27-2:3

人間が被造物の最高位にあることの象徴として火を扱えることが挙げられる。その原因譚として、ギリシャ神話「プロメテウスの火」では、動物に牙や角や、翼やエラを気前よく与えたのは良いが、人間に与えるものが無くなってしまい、闘神・知恵の女神アテナに相談したところ「火を与える」ことになった、とある。続きでは、これを知った主神ゼウスが激怒して、プロメテウスを山上に磔にし、鷲に肝臓をついばませて絶命させ、しかし夜の内に再生し、また鷲に肝臓をついばませる…、という残酷な処刑を科したとある。

聖書では、唯一神なる創造主が、最初から人間を「神に象(かたど)り、神に似せて造られ」、「命の息を吹き入れ」て、「生きる者」とされた。そして、牙や角によってではなく、「彼らを祝福して」、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と、この地を従わせ、他の被造物のすべてを支配する力をお与えになったとある。さらに、「全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべて与え」られた。

無論、火を扱う力も神は人に与えられたが、それはうっかり八兵衛で与えたのではないし、火どころではなく、神は自らの息、すなわち聖霊を与え、人を完全なる祝福の内に創造され、すべてを与えられたのである。ただし、「『善悪の知識の木』からだけは、決して食べてはならない」と、ただ一つの戒めが課せられた。

「善悪の知識」とは、単なる物事の判断、善悪の区別ではない。人間社会において、「これは善、これは悪」と判断し、区別することは大切なことだが、神にしか為し得ない『最後の審判』を下すことは許されていない。

人は、神から与えられた祝福と力をもって、確かにこの地を従わせ、被造物の最高位に立っている。その英知をもって核兵器を所有するまでに至った。凄まじい力を手にしている。しかし、人には、「これが悪だ」と断じて、最後の審判を下してはならないと戒められている。核兵器の投下は決して人間が踏み込んではならない領域なのである。

神は、人に与えられた祝福がすべての人に行き渡ることを願っておられる。それには、『第七の日』、神が安息され、すべてを祝福し、聖別された日を覚えて、主日礼拝を守り続ける必要がある。礼拝において、神の息・聖霊を受け、この身に祝福と聖別を受け、創造の御業を再確認し、「主の平和」をこの世に実現していくことができるように祈り求めていくのである。主の祝福は完全であり、主によって

伝道の力は与えられている。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

マタイ福音書13:18-23

「種蒔きの譬え」 三福音書を合わせ読むと、以下のようになる。

  • 道端に落ちた種⇒鳥、すなわち悪い者、サタン、悪魔に食べられてしまった。
  • 石地に落ちた種⇒根が無いので枯れた、すなわち、御言葉(信仰、伝道)のために艱難、試練が起こるとつまずく、身を引いてしまう。
  • 茨の中に落ちた種⇒茨に覆われて実を結ばなかった、すなわち、この世の思い煩い、富や快楽の誘惑に覆われて実らない、あるいは実が熟さない。
  • 良い土地に落ちた種⇒三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ、すなわち、御言葉を聞いて悟ることができ、サタンにも、艱難試練にも、この世の思い煩い、富、快楽にも負けず、それらにあっても忍耐して豊かに実を結ぶ。

この譬えでは、最初の三つが失敗、駄目なケースで、最後が成功事例として描かれているが、意味するところは、「蒔かれた種の内、四分の三は実らない。伝道とはそういうもの。簡単にはいかないのだ。」、「しかし、良い土地の種が三十倍、六十倍、百倍の実を結び、豊かになれるから結果オーライだ。」というメッセージなのだろうか。確かに伝道にはそのような一面もある。しかし、聖書とは常に自分に語りかけられているメッセージでもある。

「正しい者(義人)はいない。一人もいない。」(ローマ書3:10)とあるように、誰もがサタンの誘惑、伝道のための艱難試練、この世の思い煩い、富や快楽の誘惑に負けてしまう可能性がある。100%義人として生きることができる人など一人もいない。だからこそ、「良い土地」、すなわち神の言葉、すなわち礼拝、祈祷会に立ち返り、主の祝福と恵みをいただいて、多くの実を結んでいくことができるように祈り、願っていくのである。決して、「あの人は①~③だった。」とか、「自分はクリスチャンだから④だ」という話ではないのである。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5) 必要なことは、主イエス・キリストに繋がり、礼拝を守って主から聖霊の力をいただき、その力によって成長し、実を実らせることである。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」(同15:16)祈ってくださった主にハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 8月 3rd, 2020

使徒言行録17:10-15

神の言葉は、ヨヤキム王によって切り裂かれ、炉の炎で焼き尽くされてしまった。しかし、神はエレミヤに再びすべての言葉を書き記すように命じられた。そこでエレミヤは再び、神の言葉を預言し、書記官バルクがそのすべてを筆記した。このようにして聖書が残されることになった。

これらは“言(ロゴス)・キリスト”(ヨハネ福音書1章)の十字架の死と復活を予兆しており、神の言葉は決して滅びないことを証している。「天地は滅びるが、わたし(キリスト)の言葉は決して滅びない。」(イザヤ40:8、マルコ13:31)

使徒パウロは、その神の言葉(メシア・救い主の復活)を携え、第2回伝道旅行に出発した。17章では、シラスと共に、まずテサロニケ(ギリシャの第2都市)においてユダヤ人の会堂において伝道し、ユダヤ人、さらに多くのギリシャ人、おもだった婦人たちが信仰に入った。ところが、ユダヤ教指導者たちはこれを激しく妬み、「広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家(パウロとシラスが世話になっていた家)を襲わせた」のであった。

大変、危険な状態であったので、ヤソンと彼の支持者は、パウロとシラスを、ベレアへ送り出した。 二人は危険な目にあいつつも、ベレアでも早速に会堂で伝道を始めた。そもそも使徒言行録16章、ティアティラでの伝道において、何度も鞭打たれ、足枷をつけて投獄されている。しかし、神は二人を守られ、全囚人も守られ、さらに看守もその家族も救いに至ったのであった(「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」16:31)。

このように神の言葉、救いの言葉は、いかなる窮地にあったとしても決して滅びることなく、今、私たちの手元にあるのである。ベレアにおいても然り。ユダヤ人たちは、「非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、その内の多くの人が信じ」た。するとまたユダヤ教指導者たちが、ベレアにも「押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた」のであった。しかし、パウロとシラスは伝道の旅を続けたのである。

聖書には、伝道が生易しいものだとは一言も書いていない。むしろ伝道は命懸けのものであることが記されている。だからこそ、私たちは日曜ごとに礼拝を守り、主の祝福を受けつつ、兄弟姉妹が祈りと讃美によって一つとなって峻厳なる伝道に立ち向かっていくのである。今夏にできる伝道は何か。「力と愛と思慮分別の霊」を戴いて、主に仕えて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 7月 26th, 2020

エレミヤ書36:27-32

「言葉が主からエレミヤに臨んだ。…残らず書き記しなさい。…それぞれの悪の道から立ち帰えるかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」(36:1-5)

ソロモン王以降、イスラエルの王は神に逆らい、王国は北と南に分裂し、BC722年、アッシリア帝国によって北イスラエル王国は滅ぼされてしまった。南ユダ王国も存亡の危機にあったが、主はエレミヤを通して、「神の言葉~救いのチャンス」を与えようとされた。

エレミヤは、神から与えられた預言の言葉を語り、書記官バルクがその全てを筆記した。纏められた巻物はヨヤキム王の前で朗読されることになったが、王は「三、四欄読み終わるごとに、ナイフで切り裂いて、暖炉にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった」のであった。

救いのために差し出された手を振りほどくばかりか、その腕をへし折るような行為に対して、主はエレミヤに対して「改めて、別の巻物を取れ。…王ヨヤキムが燃やした初めの巻物に記されていたすべての言葉を、元どおりに書き記せ。」と命じられたのであった。(*イエス・キリストの十字架の死と復活)

この箇所における最もたる注釈と言えば、内村鑑三『後世への最大遺物』に記されている、19世紀イギリスの思想家、歴史家トーマス・カーライルによる『フランス革命史』の執筆譚であろう。彼は何十年とかけて革命史を書き上げたが、原稿を1日だけという約束で友人に貸したところ、友人の召使いが炉にくべて燃やしてしまったのである。さすがのカーライフも虚無に暮れたが、やがて「自分は愚人であり、あんな革命史など大したことはない。しかし、もう一度書き直すならば、それは貴いことであろう」と再び筆を執ったのであった。「信念は行動に移さなければ意味が無い。」カーライルは、内村だけでなく、新渡戸稲造、夏目漱石などにも大きな影響を与えている。

今日、倉持芳雄牧師召天30周年を記念する。倉持先生は、横浜ミッション診療所のために蒲田新生教会を辞されたが、「命のパン」を宣べ伝えるため、新たに教会を建てるにあたって苦難の中、「彼(アブラハム)は、望むべくもあらぬ時になお望みて信じたり。」(ローマ6:14*文語訳)との信仰を、会堂用地を探し抜く、土地管理人の戸を叩き続ける、という行動に移された。また、多くの青年信徒たちも祈りに祈り、バザーを開き、手製のぬいぐるみを売り、開墾に汗を流した。信仰とは、次の世代のために神の言葉を信じて自分を献げ、伝道すること。“言(ロゴス)”は神御自身、永遠の命、人間を照らす光である(ヨハネ福音書1章)。我らは何があっても語り継ぎ、その信仰を実行に移す者である。ハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 7月 20th, 2020

ヨハネによる福音書15:1-10

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

この聖句はとても有名です。この1節には、イエス様の独自性が表現されています。つまり、「まことのぶどうの木はこの私である。」と、真のメシアは私であると語られているのです。そして、その木、幹につながる枝が私たちです。この枝にはブドウの実がなります。その実はどういう実でしょうか。自分の実りは豊かなものでしょうか。周りのほうが豊かでしょうか。彼の実りのほうが豊かだ、私の実りのほうが美味しいとか、はっきり言って私たちにはわかりません。私たちには神様の目、ご判断を理解する、知ることはできないからです。ですが、神様はその実りをご存じです。そして、その実りが豊かなものならば、その実を食べる人、つまり私たちの周りにいる人々が、その実りの良さを感じることができるのです。神様から溢れる愛をいただき、それを栄養として生きるならば、私たちの中に実る愛の実は他者のための実となるのです。

一方、その実りをつける枝は、幹がなければ生きられません。幹から、栄養をもらい、根から発する生命力をもらわなければ伸びることもできません。もし、幹から離れることがあるならば、枝は自らの力で生きることも、自らの力で立つこともできません。ただただ、枯れるだけなのです。時に、私たちは、ついつい自らの力で立とうとしてしまいます。そして、周りが良いというような人になろうとしますし、相手が求めるような人になろうとします。どうにか、みんなが認めてくれるような実をつけようと必死に頑張るのです。ですが、本当の自分、私たちの実りを知っているのは神様だけです。どんな枝になろうとしても、イエス様という幹、最高の栄養である、神様の言葉がなければ、良い実をつけることはできません。だからイエス様は「私につながっていなさい」とおっしゃられるのです。また、自分の力だけでつながっておくこともできない弱い私たちなので、「私もあなたがたにつながっている」とイエス様自らが私たちにつながってくれているとおしゃってくださるのです。

枝は、神様の愛と恵み、そして、許しを覚える時、枝の芯から芯まで神様のみ言葉である栄養が染み渡ります。そして、その栄養が染み渡ってこそ、初めて良い実を結ぶことができ、その実が隣人を愛し、生かすものへとなるのです。        田中尚美伝道師

nakajima on 7月 12th, 2020

ヨハネによる福音書6:26-33

イエス様は「五千人の給食」の奇跡によって、群衆の腹を満たされた。男だけで五千人(6:10)であるから、女性、子どもを合わせると数万人におよぶ大群衆であったと推測できる。これだけの大群衆が、「イエスが病人たちになさったしるしを見た」ので、集まってきたのであり、さらにイエス様がガリラヤ湖を向こう岸に渡られても、その後をついてきた人々である。確かに神癒の奇跡を耳にすれば、「すごい方が現れたものだ!」となるが、家を空けてまで、遠く離れた場所までついて行くだろうか。また、「過越祭が近づいていた」とあるので、当然、そちらに行って、犠牲の供え物を買うなり、準備するはずと思われる。この人たちは、病の癒しを切実に願う人々、つまり病を抱えている人、もしくはその家族であったのだ。そして、その日の食べ物も持参できていない人たちである。この人たちは、イエス様が「山上の説教」をされた時の群衆と酷似しており、イエス様の眼差しは変わること無く、貧しく、悲しく、苦しみにある人々に向けられていることが分かる。

他の福音書における「五千人の給食」では、「飼い主のいない羊のような有様」(マルコ6:34)の「大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒やされた」(マタイ14:14)とある。そして、たった一人の少年の、たった一つの弁当という“献身”に対して、イエス様は「感謝の祈り」を唱え、その献身を「三十倍、六十倍、百倍」に祝福して群衆を満ち足らせられたのであった。

主の御業は誉むべきかな。しかして、福音宣教とは、腹を満たして終わりではない。それは荒野において、サタンが「石をパンに変えてみろ」と言った誘惑に屈することになる。

イエス様は、出エジプトの故事(荒野におけるマンナ)に遡り、御自身が、イスラエルの救済を導かれた神が遣わした「命のパン」であること、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)と、御自身の十字架の死によって、すべての人に永遠の命を与える救い主であることを告げられた。

残念ながらこの教えを聞いて、群衆も、多くの弟子たちも離れ去り、もはやイエス様と共に歩まなくなった。十二弟子だけが残った。そして、その十二人も皆、裏切り、逃げ去ってしまった。しかし、弟子たちは復活の主に出会ったので、全世界に福音を告げ知らせる者となり、今日、全世界に教会が建っている。主の「百倍の祝福」にハレルヤ!中島聡主任牧師

ルカによる福音書7:1-10

イエス・キリストの福音の大切な柱の一つに病の癒やしがある。イエス様はガリラヤ湖北西部の町カファルナウムに入られた。するとイエス様の噂を耳にしていたローマ軍の百人隊長が部下の癒しを願って、“ユダヤの長老たち”を使いにやって、「部下を助けてくださるように」と頼んだ。カファルナウムにもローマ軍の駐屯地があり、当時、支配者側であったローマの軍隊長の命令を長老たちは断ることはできなかったわけであるが、ルカ6:11「彼ら(律法学者、ファリサイ派の人々=長老)は怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」とあるから、どれほど、“煮え湯”を飲まされた心境であったか。しかし、その百人隊長が「ユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれた」人物でもあったので、彼らは「熱心に願った」とある。是々非々ではなく、ご都合主義である。彼らが怒り狂ったのは、イエス様の救いはすべての人のためにあるので、①選民か否かに左右されない。②律法に左右されない。その中でも最上級の十戒、安息日すら凌駕する(同6:5)、と説かれていたからだ。しかしながら、軍隊長が会堂を建ててくれたので、今、怒りの矛先を収めてイエス様に癒しを熱心に願っているのである。

癒しの奇跡、救いは、自分に利があるから為すのではない。イエス様は、ご自分の命を狙う長老たちの願いであったが、その部下のところに向かわれた。ところで、イエス様が近づいて来られると、その軍隊長は、今度は自分の友人を使いにやって「御足労に及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。(癒すと)一言おっしゃってください」と最上の敬意を表したのであった。イエス様は「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と絶賛された。この時点で、信仰において弟子たちを含めイスラエル人よりもこの隊長が最も信仰深い人であったのだ。信仰とは、主による救いを信じること、頼り切ること、その神性を誉め讃えることである。

立派な百人隊長であるが、そもそもイエス様は「万軍の主」である。そのイエス様が百人の軍隊長の願いを聞かれ、その前に敵の利己的な願いにさえ従われた。福音とはどこまで遜り、僕となり、仕える者となることができるかに懸かっていることを示される。主は「すべての人の僕」になって、「自分の命を献げるために来た」(マルコ10:44-45)。万軍の主にハレルヤ!中島聡主任牧師

nakajima on 6月 28th, 2020

マルコによる福音書4:35-41

イエス様は、福音、救いを宣べ伝えるにあたって、「すべての人が救われる」と説き明かし、悪霊を追い出し、病を癒やされた。そして、マルコ4章においては、

そこに『大きな祝福』があることを明らかにされた。

  • 『種蒔きの譬え』~神の言葉を信じ、受け入れ、試練に耐える者には、「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」祝福がある。
  • 『ともし火と秤の譬え』~神の言葉を隠さずに輝かせる者、秤に存分に神の言葉を入れる者には、祝福が「更に与えられる」。
  • 『成長する種の譬え』~神の言葉を信じて種を蒔けば「豊かな実」=祝福を収穫することができる。
  • 『からし種の譬え』~どんなに小さな種であっても、神の言葉を信じて蒔くならば、空の鳥が巣を作れるほどの大きな枝=大きな祝福となる。

イエス様は、いつも人々が福音を理解できるように、たとえを用いて分かり易く話された。さらに、弟子たちにはもっと理解を得ることができるように、「すべてを説明された」のであった。

そして、さらに“自然”を制御する力を示されたのであった。この段階では、マルコ福音書によれば、弟子たち全員はイエス様の奇跡を目の当たりにしていないが、少なくとも、筆頭格のシモン・ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、イエス様が多くの悪霊を追い出し、多くの病を癒やす奇跡を見ている。レビ(マタイ)も癒やしの奇跡を見ている。そして他の7人もイエス様の奇跡を伝え聞いたので、イエス様のもとに集まってきて、悪霊が「あなたは神の子だ」と叫ぶのを聞いたのであった。しかし、湖に突風が吹き荒れ、舟が沈みそうになると、「先生、わたしたちが溺れてもかまわないのですか」と、救い主が共におられる信仰を失い、恐怖を露わにしたのであった。イエス様はすでに命懸けで福音宣教に向かっておられる。弟子失格のところだが、主は、恐れおののく弟子たちを叱るのではなく、自然を叱って従わせ、弟子たちの信仰の灯火が消えないようにされたのであった。それは遙か古の預言(「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく」イザヤ書42:3)の成就でもあった。どんなことがあっても私たちを救い、力と祝福を与えてくださる主にハレルヤ!中島 聡主任牧師

nakajima on 6月 21st, 2020

ルカによる福音書5:17-26

「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。」

大したことであるが、これは純粋に教えを乞うためではなく、“偵察”である。イエス様が悪霊に取り憑かれた男を癒やされると、その噂は、「たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」(マルコ1:28)とあり、関心の高さが窺える。その前に、イエス様が「イスラエル以外の人も救われる」と説くと、「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになってイエスを町の外に追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」(ルカ4:28,29。マルコ福音書では3:6に、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」)とあるので、イエス様は宣教開始早々、大変な状態にあったことがよく分かる。

すでに命を狙われている状況において、イエス様は一歩も引くことなく、「主の力」、聖霊の力によって、ひたすらに「病気を癒やしておられた」のであった。そこに中風を患っている人を癒やしてもらおうと四人の男が床ごとその人を運んできたが、群衆に阻まれて近づけないので、屋根を剥いでイエス様の前に吊り降ろした。

イエス様はこの人たちの行為の奥底にある心を見て、それを「信仰」と見てとられ、「人よ(マルコ福音書では『子よ』)、あなたの罪は赦された」と言われた。これに対して、律法学者や長老たちは「神を冒涜している。罪を赦す権威は神にしかない。イエスとは何者だ。」と憤慨を深めたが、この後、癒しの奇跡を目の当たりにして何もすることができなかった。

当時、病は罪の結果であり、“救いの対象外”に置かれていた。これは為政者にとって、共同体にとって都合の良い考え方であった。病に苦しんでいる人を“助けなくても良い、責められない”し、それが絶対的に“正しい信仰”ですらあったからだ。しかし、イエス様は四人の友の心根こそ信仰と言われ、その人を信仰共同体の一員として、否、「我が子よ」と呼びかけ、精一杯の愛を注がれたのである。この御方が永遠の命までも与えると言われるのだから、ハレルヤ! 中島 聡主任牧師

nakajima on 6月 14th, 2020

ルカによる福音書4:31-37

自らもバプテスマ(洗礼)を受けて「新生」を経験されたイエス様は、聖霊に満たされた。そしてまた霊によって荒野に導かれ、サタンの誘惑を受けられた。ここに新生から「聖化」、信仰の成長過程が示される。信仰とはキリストの十字架と復活、罪の贖いと永遠の命を信じて救われる、すなわち洗礼を受けることをスタートとして、新生の状態から聖化へと進んでいくのであるが、では「聖化」とは一体何か?

その答えは、イエス様が辿られた、新生から聖化への過程を見れば分かる。イエス様は洗礼を受けて聖霊に満たされた後、サタンの誘惑に打ち勝つという試練を経験された。サタンの誘惑~①「石をパンに変えてみろ」、②「わたし(サタン)を拝めば、国の一切の権力と繁栄を与える」、③「神殿の屋根から飛び降りてみろ。天使が助けてくれるから」~とは、一言で言えば、「聖霊によって与えられた力を利己的な自己実現のために用いろ」に尽きる。聖化という重要教理(例えば、メソジスト教会創始者J.ウェスレー『キリスト者の完全』)の説明は簡単ではないが、面白いことにサタンが最も分かりやすい反面教師となっている。すなわち、サタンの誘惑の逆、「聖霊によって与えられた力を隣人の救いのために用いて生きる」、これこそが聖化である。

イエス様は、悪魔の誘惑に打ち勝ち、聖化を遂げられ、何をされたか、どのように生きられたか。今朝の4章を見れば、「イエスは“霊”の力に満ちて」、①諸会堂で教え、②旧約の時代においてさえ異邦人が救いに与っていた事実を説き明かされ、③汚れた霊に取りつかれた男を癒し、④多くの病人を癒し、⑤町を巡回して諸会堂で福音を告げられたのであった。

イエス様は聖霊によって権威と力を得ておられたが、その権威と力を己のためではなく、人々の救いのための聖書の説き明かしと、癒しのために用いられた。

キリスト者は、バプテスマと同時に新生し、主の祝福も、聖霊による恵みも与えられている。聖化へと進み行くには、与えられた恵みと賜物を福音宣教のために献げ、用いていくことである。私たちは弱く、躓きやすいものであるが、キリストの権威によって聖なる者とならせていただけるのである。ハレルヤ! 中島 聡主任牧師