蛙の災い

 モーセは、神さまの警告の言葉をファラオに伝えました。けれどもファラオは、またしてもその警告のことばに耳を傾けようとはしませんでした。そこでアロンは、モーセの命じるとおりに、手の杖をエジプトの水の上に差し伸べました。すると神さまの警告されたとおりに、エジプト中に蛙が群がり、人々の暮らしを脅かしたのです。
 それにもかかわらず、この時もエジプトの魔術師たちは、同じような秘術を行い、蛙をエジプトの地に這い上がらせました。彼らの頭の中には、もはやモーセとアロンに対抗することしかありませんでした。皮肉なことに、彼らが行った秘術によって、蛙はますます増え、人々の苦しみも限界に達してしまったのです。

 モーセとアロンのように奇跡を行う力を持っていると誇示していたエジプトの魔術師たちがしたことは、人々を苦しめただけでした。もし、彼らが本当にモーセとアロンに対抗しようとするなら、むしろモーセたちがしたのとは反対のことを、つまり、蛇に変わった杖をもとの杖に戻し、血に変わった水をもとの真水に戻し、蛙の大群をナイル川に戻すということをしたはずです。しかし彼らには、それができませんでした。彼らは、蛙を増やすことはできましたが、取り除くことはできなかったのです。
 この時ファラオは、人々を救うことができるのは、主なる神、イスラエルの神だけであることを認めざるを得ませんでした。それで蛙を処理してくれるように主に祈ってくれとモーセに願い求めたのです。

 モーセは、蛙を地にあふれさすことも、絶つことができるのも、ただイスラエルの神だけであることをファラオに示しました。おそらくファラオは、蛙を一刻も早く処理してもらいたいとの思いがあったことでしょう。けれども「今、すぐに」と答えてしまうと、モーセとの約束も即時に守り、イスラエルの民をすぐに去らせなければならなくなってしまいます。ですからファラオは「明日」という時間的猶予を置いたのです。
 ファラオのこの答えを通して彼の不真実さを知ることができます。きっとファラオは、自分の言い分は聞いてもらいながらも、イスラエルの民たちを去らせない良い方法がないかを考えていたことでしょう。あるいは、モーセたちが手を下す前に、蛙がいなくなることを期待していたのかもしれません。
 真実に救いを求める者にとっては、「明日」という時間的余裕ないと思います。一寸先に何が起こるか分からない人間に保証されている時間は、今しかありません。だから今が救いの時なのです。ファラオは、神さまによって悔い改めの機会を与えられていながら、そのチャンスを生かすことができませんでした。

 ファラオもエジプトの人たちも、モーセとアロンよって蛙の災いから救われました。ところがファラオは、災いが取り去られ一息つく暇ができると、その心をまた頑なにしたのです。このようにファラオは、息つく間もないほどの苦しみにあっているときは、自分の力のなさや弱さを悟り、神さまに救いを求めましたが、息つく暇ができると、神さまに助けられたことなど忘れ、己を過信し、また傲慢になるのでした。
 このことは何もファラオだけに限ったことではありません。私たちも苦しいときは神さまに助けを求めますが、その苦しみが去ると、自分の力で解決したかのように思ってしまうことはないでしょうか。そしていつの間にか神さまから遠のいて、自己中心的な傲慢な心がよみがえってくることがあるのではないでしょうか。そのような心に支配されないように、決して私たちの信仰が「困った時の神頼み」のみで終わってしまわないように、いつも神さまの恵みに感謝し、また悔い改めることを覚えながら歩みを進めていきたいと思います。

「ファラオは一息つく暇ができたのを見ると、心を頑迷にして、また二人の言うことを聞き入れなくなった。」(出エジプト記8:11)

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