忍耐する神
ファラオは自分の国民の苦しみよりも、自分のプライドを守ることに必死になっていました。そのために、さらに次の災いがエジプトに下ることになってしまったのです。そして神さまがエジプトに下された第四の災いは「あぶの災い」でした。
このしるしは「明日」起こると、神さまは起きる時を予告されました。神さまは、このことをすぐにおこなうのではなく、「明日」という時間的猶予をお与えになりました。すなわち、ファラオに明日という時を知らせ、ファラオとエジプトの民に、悔い改め、立ち返ってくる機会を与えられたのです。
神さまが直ちにこの災いを実行しないで、まず「明日」という時を示されたのは、すべての人を救うために与えられる愛の時、恵みの時なのです。神さまはファラオとエジプトの民だけでなく、今日の私たちのためにも救いの時を与え、放蕩息子の帰りを待つ父のように、待っていてくださるのです。
けれどもファラオは、ここでも神さまの御声に聞き従うことが出来ませんでした。そのために神さまのさばきがエジプトを襲ったのです。おびただしいあぶの大群がエジプト中に蔓延してファラオの王宮や家臣の家の中にまで入り込みました。
この奇跡がイスラエルの神の御業であることをはっきり現すために、神さまは、神の民とそうでない民とを区別されました。それによってイスラエルの民の中には、まことの神さまが共に住んでくださり、災いから守っておられることを現されたのです。
もちろん神さまは、すべての人を救いたいと願っています。イエス・キリストが十字架にかかられたのも、すべての人を救うためであったことを私たちは確信しています。けれども神さまの救いを受け入れるか、それともファラオのように頑なになって拒んでしまうのかによって、あぶの大群が来る地と、一匹も現れない地と、その二つに分けられてしまうのです。人はこの二つのうちのどちらか一方を必ず選ぶことになるのです。それゆえ、私たちは、神さまがその時々に応じて与えてくださる御言葉を決して軽んじることはできないのです。いざ、そのときになって、ファラオのように泣き叫ぶことのないように、今このときに神さまのみ声に聞き従って生きる決心をすること。その一時、一時が大切なのだと思います。
「わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う。明日、このしるしが起こる」(出エジプト記8:19)