信仰生活に妥協なし
あぶの大群に困り果てたファラオは、モーセとアロンの要求を聞き入れ、犠牲をささげることを許可します。けれども、エジプトの労働力であるイスラエルの民を失いたくなかったファラオは、「遠くまで行かせることは認められないが、エジプトの国内で礼拝をするのは認めよう」と提案したのです。このファラオの妥協案に対して、もちろんモーセは拒否し、それを退けました。
このモーセとファラオのやり取りに対して、「礼拝をするのに変わりないのだから、この国の中でしようが、荒野でしようがどこでしたってよいではないか」と思う人もいるかもしれません。
ローマの信徒への手紙12章2節には、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれる、また何が完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と記されています。この「この世に倣ってはなりません」というのは、口語訳聖書では、「この世と妥協してはならない」と訳されています。
私たちはこの世に生きるクリスチャンとして信仰生活をこの世の中でしていますから、当然のことながらこの世の事柄と、またクリスチャン以外の人たちと協調してやっていかなければならないことも多々あります。また、そういうことをしていかないと、はたから見ると偏屈な人と思われたり、変人扱いされることも無きにしもあらずです。
けれども、安易にこの世と妥協して、クリスチャンとしての最も大切な点を曲げてはならないことがあります。イエスさまは、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と拒否することを教えられました。
人類はいつの時代でも、文化圏にある人たちでも、発展途上の地域の人たちでも神を礼拝してきました。けれども多くの場合は、神を自分のための道具として拝んでいるのです。自分が楽しい生活ができるように、豊かになるための一つの手段として神を信仰しているのです。
けれどもイエス・キリストの十字架を信じてクリスチャンとなったものは、そうであってはなりません。私たちの神は、私たちの父であり、今も生きて私たちとかかわりを持っていてくださる神さまです。その神さまによって私たちは造られたのです。
私たちの人生には目的があります。それは神さまのために生きていくことです。私たちの目的は、自分が長生きすることでもなければ、この地上でたくさんの宝を持つことでもありません。地位や名誉を得て、人々から羨ましがれることでもありません。私たちの人生の目的は、神さまの栄光を現していくことです。
神さまの栄光のために私たちは生かされているのだ、ということを知るならば、この世の問題に対しても妥協して生きるのではなく、神さまの御心に従って解決していくようにと教えられます。問題を自分の力で解決しようとすることは、自分の思いに妥協することであり、神さまを必要としていない生活をすることなのです。
この国に留まってとか、あまり遠くに行かないで、ということが私たちの心にささやかれます。「あまり熱心にならなくてもいいじゃないか」、「まあ自分の生活の範囲内の中で信仰生活をすればいいじゃないか」、そういったことは、何千年前にファラオがモーセに言ったことだけではありません。私たちに毎日、もっと自由に生きたらと語りかけてくるサタンの声なのです。
モーセたちは頑固だと言われたかもしれません。大国の王が、そこまで妥協しているのに、一介の奴隷の民の年老いた男が、それを拒否するのは世間的に見れば傲慢で非礼なのかもしれません。同じく私たちも、「クリスチャンってどうして自分の主張をそんなに通すの」、と非難を受けることもあるかもしれません。けれども、神さまのみことばであれば、「この世に倣って(妥協して)はならないのです」。これは果たして私の意見なのか、それとも、父なる神さまのみことばなのか、そのことを神さまに問いつつ、神さまのことばに対しては「そのとおりにする」こと以外にないのです。ここに私たちの信仰の成長があると思うのです。
「我々の神、主に犠牲をささげるには、神が命じられたように、三日の道のりを荒れ野に入らねばなりません。」(出エジプト記8:23)