真実なお方

 神さまは、なおもその心を頑なにしているファラオに、エジプト中の家畜を激しい疫病が襲い、家畜がみな死に耐えてしまうということを、モーセを通して警告されました。また、この時も前回の第4の「あぶの災い」と同じように神さまはエジプトとイスラエルを区別され、イスラエルの民の家畜には全く害が及ばないようにされました。

 神さまがイスラエルの民を区別され、災いから守られたのは、彼ら自身の功績によるものではありません。では、どうして神さまは、そうされたのでしょうか。
 それは神さまが彼らの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された祝福を必ず行われる真実なお方であるからです。たとえ彼らの子孫であるイスラエルの民が神さまを忘れても、あるいは捨ててしまっても、神さま御自身は決して彼らを見捨てることをなさらないのです。いや、見捨てることができないのです。この神さまの祝福(愛)は、今も昔も変わることはありません。ですから私たちは、安心して神さまについていくことができるのです。

 エジプト人は、いろいろな動物を宗教的崇拝の対象として敬っていました。ここに出てくる牛とか羊などもエジプトでは神聖視されて、エジプトの至るところでこれらの動物を神とした神殿が築かれていたと言われています。そして、その動物たちを神さまは疫病で打つということをなされたのです。つまり、この動物が疫病にかかるということは、神さまがナイル川を打った時と同じように、エジプトの神々を打たれたということです。
 病にかかり死んでいくものを神聖化し敬うエジプト人たちは、それでも自分たちの愚かさを悟ろうとはしなかったのです。被造物は神さまに守られて、はじめて生きることができるのです。そのことは、一頭も死ななかったイスラエルの民の家畜を通して教えられています。けれども、ファラオやエジプト人たちは、そのことに目を向けることはしませんでした。

 神さまはこの災いを下される前に、あぶの災いを下されたときと同じように、「明日」という時間的猶予を与えてくださっています。つまり、ここでも神さまは、直ちに災いを行わないで、「明日」という時間的余裕を与え、災いを避けるために悔い改める時を備えてくださっていました。
 ところがファラオは、またしてもこの警告も無視してしまったのです。心の頑ななファラオは悔い改める心を持っていませんでした。そして翌日、疫病はモーセの言葉通りに発生しました。それによってエジプトの家畜は、ことごとく死んでしまいました。家畜は一家の家計を支える大切な財産です。それを失ったというのですから、エジプトの人々にとっては大損害を被ったことになります。しかし、それにもかかわらず、ファラオはまだ心を頑なにしたままでした。なぜなら、エジプト人にとっては死活にかかわる苦しみであっても、ファラオ個人にとっては、それほど大きな痛みではなかった、直接彼の生活を脅かすまでには至らなかったからです。

「しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別される。イスラエルの人々の家畜は一頭たりとも死ぬことはない。」(出エジプト記9:4)

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