神がかたくなにする

 ファラオは、もはや神さまの許容のときが過ぎ去り、彼を裁かれるときが待ち受けていることに全く気がついてはいませんでした。神さまは続いて第六の災いについてモーセとアロンに命じられました。
 その災いとは、エジプト全土の人と家畜が膿の出るはれ物に侵されるというものでした。その前の災いでは、家畜は被害を受けましたが、人間は守られています。けれどもここでは、悔い改めることをしなかったエジプト人に対して、人間もその腫れ物に襲われることになったのです。

 ファラオはこれまでにも、何度も何度も警告を与えられ、悔い改めのチャンスが与えられてきました。けれども、それにもかかわらず、彼は神さまの声を無視し続けてきたのです。そのため、ついに神さまの猶予の時は過ぎ去って「主がファラオの心を頑なにされたので、彼は二人の言うことを聞かなかった」(12)と記されているように、ファラオは裁かれる存在となってしまったのです。
 これまでの災いの中では「ファラオが心を頑迷にした」「ファラオは心を頑なにした」と記されていました。ですから、心を頑なにしたのは、ファラオ自身であることがはっきりしていました。けれども12節には「主がファラオの心を頑なにされたので」と記されています。
 神さまは、ファラオが悔い改めてイスラエルの民をエジプトから去らせることを望んでおられたはずです。それなのに、どうしてファラオの心を頑なにされるのでしょうか。それでは明らかに矛盾しているのではないかと思えます。

 神さまの声を聞いていながら無視し続けているとどうなるか。私も経験したことがありますが、だんだんと神さまの声が聞こえなくなってくるのです。最初のうちは心に留まるものがあり、従おうか、否かと迷ったりすることもありますが、無視し続けていると、そのうしろめたさもなくなってくるのです。そのうち、神さまの御声も全く聞こえなくなってしまいます。するとどうなるでしょうか。悔い改めるチャンスを失うのです。
 それを聖書は「主がファラオの心を頑なにされた、主が人の心を頑なにされた」という言い方をしているのではないでしょうか。私たちは、主が私たちの心を頑なにされるようなことがないように、その前に主を恐れ、全能な神さまの前にひれ伏し、主のみ声に聴き従う決心をする必要があるのではないでしょうか。
 けれども神さまは、ファラオがどんなに頑なであっても滅びることを願ってはおられません。神さまは誰一人として滅びることを望んでおられません。すべての人を救おうとし、その救いを喜ばれるお方なのです。それゆえに、なおファラオとエジプトの人々に、悔い改めと救いのチャンスを与えておられるのです。

 これまでのエジプトに下された災いは、神さまに逆らうファラオの心から始まりました。それを悟らないファラオがいかに愚かであるかを、神さまは深い愛を持って教えておられるのです。神さまは何も、罪人に対して怒り、滅ぼそうとして災いを下されるのではありません。神さまが滅ぼそうと思うならとっくの昔にそうしていたはずです。15節には、「実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできた」と語られています。しかし、そうではなく神さまは、ファラオとエジプトの民が悔い改めて神さまのもとに立ち帰ってくることを願われたのです。

 神さまは、これらの災いを下す目的を「わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたにわからせるためである」と語られています。つまり、主なる神こそがまことの神であり、この世のすべてを支配し、導いておられるということをファラオに気づかせることが目的だったのです。自分こそがエジプトの王、支配者であると思い、神さまのことを知ろうとも、認めようともしないファラオに対して、神さまは、エジプトを含めてこの世界全体を本当に支配しているのは、人間の王ではなく主なる神であることをこれらの災いを通して分からせようとしているのです。
 さらに、「しかし私は、あなたに私の力を示して私の名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた」と語られています。神さまの御心は、ファラオとエジプトの民にご自身の御力を見せることによって、彼らが神さまの大いなる御名を全地に伝え、すべての人々が神さまに従って、神とともに永遠に栄えることを願っておられるのです。

「しかし、主がファラオの心をかたくなにされたので、彼は二人の言うことを聞かなかった。」(出エジプト記9:12)

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