主の言葉を畏れる
依然として神さまに従おうとしないファラオに対して、神さまは七つ目の災を下すことを告げられました。それは、「エジプト始まって以来、今日までかつてなかったほどの甚だ激しい雹を降らせる」災いです。しかも、ここにきて災いは、いよいよ人の命を奪うものに至ります。
けれども今回もまた、直ちにその災いが起こるのではなく、神さまは「明日の今ごろ」と時を示してくださり、その時までに野にいる家畜を避難させるようにと指示をされたのです。
それでもファラオは神さまの警告を軽んじ、心に留めることはありませんでした。しかしこの時、ファラオの家臣の中にも、モーセの語る神さまの言葉を恐れる者が出てきました。彼らは、神さまの命令に従ってしもべと家畜を家に非難させました。そして、イスラエルの民と同じように、自分自身と家族、しもべ、家畜を災いから守ることができたのです。
けれども、神さまがせっかくこのように逃れの道を示してくださったにもかかわらず、「主の言葉を心に留めなかった者」、すなわち、神さまの御言葉を軽んじ、それを真剣に聞こうとしなかったものは、しもべや家畜を野に残しておいたままでした。そのために、僕や家畜に災いを与えてしまったのです。
このことを通しても、神さまの御言葉を畏れて、それを信じ、それに従うものには救いの恵みが与えられることを教えられます。旧約聖書は、イスラエルの民が「選ばれた民」という考えが中心にありますが、ここではそれを超えたメッセージ、神さまはイスラエルだけを救おうとされているのではなく、イスラエル人以外にも、神さまの救いが入り込んでいることを示しているのではないでしょうか。
箴言1章7節には「主を畏れることは知恵の初め」と記されています。また、箴言9章10節にも、「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め」と記されています。この言葉は、その他、詩編111編にも出てきます。この「初め」というのは、最初ということと同時に、最も大切なことという意味です。
私たちは人生を生きていく中で、さまざまな知恵と知識を学びます。しかしそのことがいかなる意味を持つかということ、そのような知識や知恵がどういう風に役立つかということは、主を畏れるかどうかにかかっているのではないでしょうか。主を畏れることなく、私たち人間がさまざまな知識を身につけていく時、それを知らない人間よりもかえって恐ろしい人間になっていくことがあります。あるいは主を畏れることなく、力を手にする人間は、それを持たない者よりも、より恐ろしい人間になってしまうこともあります。人間のすべての知識、知恵は、主を畏れ、その主をあがめる時に、初めて最も人間らしい、そして謙虚なものとして役立つのではないでしょうか。そして神様はそのような主を畏れる人を心に留め、救いのうちに置いてくださるのです。
「ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を野に残しておいた。」(出エジプト記9:20-21)