無自覚な罪

 神さまの御言葉を軽んじたファラオは、雷と共に激しく降ってくる雹によって全土が打ち砕かれるさまを見て、モーセとアロンを呼び寄せて言いました。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない」。このように悲鳴を上げたのです。
 

 ファラオの罪は今に始まったものではありません。最初から神さまの御言葉に従わなかったこと、神さまに対する傲慢が罪を犯してきたのです。ファラオは、自分の罪が何かを知らないまま「今度ばかりはわたしが間違っていた」と今回のことに対しては、悪いのはファラオとエジプトの民であると認めただけでした。
 このことは何もファラオとエジプトの民だけに限ったことではありません。現在この世に生きている多くの人たちもそうです。イエス・キリストの十字架の愛(救い)を知らない人は、自分が罪人であるということを知らないし、また罪が何なのかを悟ることができないでいるのです。だから何か問題が起こると、一時的にそれを避けるために、またファラオのようにそのことだけを解決するために「困った時の神頼み」的に、口先だけで自分に都合のいい神さまに助けを求めてしまうのです。それゆえ、イエス・キリストを救い主と信じ、御言葉に従うクリスチャンは、この地にキリストの福音を伝えるために選ばれているのです。

 モーセは、ファラオもエジプトの民も悔い改めていないことを知りながら、ファラオの願いを聞き入れて、神さまに向かって両手を広げて祈りました。すると、雷も雹もやみ、大地にそそぐ雨もやみました。
 モーセはエジプトの地に雹を降らせる時も、神さまに与えられた杖を握り、御言葉に従って手を天に向かって差し伸べました。このように神さまに従うモーセの手は、罪人を裁く審判の手となり、また罪人のために祈る愛の手にもなるのです。

 ファラオは、天地を支配し、すべてのものを自由に用いられる神の力と権威と、与えられた災いを取り除いてくださる神さまの愛と哀れみを体験しました。そして神さまに守られる民は、あらゆる災難から守られることも見せられました。けれども、この体験を通してもファラオの頑なな心は変わることはありませんでした。
 そして災いが取り去られると、また心変わりし罪を重ね、頑なな心は、なお頑なになったのです。そして今度もまた、イスラエルの民を去らせなかったのです。
 ファラオのこの姿を通して、人間の罪というものがどれほど深いものであるかを思わされます。

「しかし、あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていないことを、わたしは知っています。」(出エジプト記9:30)

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