Archive for the ‘ひとり言’ Category

神さまの御業を楽しむ

清水ヶ丘教会には「銀輪会」という自転車同好会があります。今日は歓迎のツーリングに連れて行っていただきました。走りながら、神さまが造られた大地や海、風、草木や空を舞う鳥たちを目の当たりに出来ることを感謝に思います。

現代では交通手段が発達し、お金と時間さえあればどこへでも行ける時代になりました。あるいはともするとパソコンの画面上で旅行気分を味わうことができ、現地に行かなくても様々な情報を知ることが出来ます。それはそれで便利で楽しさもありますが、やはり神さまが造られた天地万物を直接楽しむのとは違いがあると思います。

私たち人間も神さまによって造られた存在の一つですが、特別な存在として造られています。美しいものを見ればきれいだと思いますし、感動をする「心」が与えられています。その「心」をさらに活かして神さまがお造りになった天地万物を見るならば、さらなる感動や発見があるのでは、と思います。これからももっと神さまの御業を楽しむべく、いろいろな体験をすることができれば、と願います。

ハレルヤ。

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みなさん、はじめまして

今年度より清水ヶ丘教会に遣わされ、「恵みのひとしずく」を担当することとなった片平です。

日々神さまから注がれている、神さまからの恵みを皆さんと分かち合っていきたいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

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無自覚な罪

 神さまの御言葉を軽んじたファラオは、雷と共に激しく降ってくる雹によって全土が打ち砕かれるさまを見て、モーセとアロンを呼び寄せて言いました。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない」。このように悲鳴を上げたのです。
 

 ファラオの罪は今に始まったものではありません。最初から神さまの御言葉に従わなかったこと、神さまに対する傲慢が罪を犯してきたのです。ファラオは、自分の罪が何かを知らないまま「今度ばかりはわたしが間違っていた」と今回のことに対しては、悪いのはファラオとエジプトの民であると認めただけでした。
 このことは何もファラオとエジプトの民だけに限ったことではありません。現在この世に生きている多くの人たちもそうです。イエス・キリストの十字架の愛(救い)を知らない人は、自分が罪人であるということを知らないし、また罪が何なのかを悟ることができないでいるのです。だから何か問題が起こると、一時的にそれを避けるために、またファラオのようにそのことだけを解決するために「困った時の神頼み」的に、口先だけで自分に都合のいい神さまに助けを求めてしまうのです。それゆえ、イエス・キリストを救い主と信じ、御言葉に従うクリスチャンは、この地にキリストの福音を伝えるために選ばれているのです。

 モーセは、ファラオもエジプトの民も悔い改めていないことを知りながら、ファラオの願いを聞き入れて、神さまに向かって両手を広げて祈りました。すると、雷も雹もやみ、大地にそそぐ雨もやみました。
 モーセはエジプトの地に雹を降らせる時も、神さまに与えられた杖を握り、御言葉に従って手を天に向かって差し伸べました。このように神さまに従うモーセの手は、罪人を裁く審判の手となり、また罪人のために祈る愛の手にもなるのです。

 ファラオは、天地を支配し、すべてのものを自由に用いられる神の力と権威と、与えられた災いを取り除いてくださる神さまの愛と哀れみを体験しました。そして神さまに守られる民は、あらゆる災難から守られることも見せられました。けれども、この体験を通してもファラオの頑なな心は変わることはありませんでした。
 そして災いが取り去られると、また心変わりし罪を重ね、頑なな心は、なお頑なになったのです。そして今度もまた、イスラエルの民を去らせなかったのです。
 ファラオのこの姿を通して、人間の罪というものがどれほど深いものであるかを思わされます。

「しかし、あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていないことを、わたしは知っています。」(出エジプト記9:30)

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主の言葉を畏れる

 依然として神さまに従おうとしないファラオに対して、神さまは七つ目の災を下すことを告げられました。それは、「エジプト始まって以来、今日までかつてなかったほどの甚だ激しい雹を降らせる」災いです。しかも、ここにきて災いは、いよいよ人の命を奪うものに至ります。
 けれども今回もまた、直ちにその災いが起こるのではなく、神さまは「明日の今ごろ」と時を示してくださり、その時までに野にいる家畜を避難させるようにと指示をされたのです。

 それでもファラオは神さまの警告を軽んじ、心に留めることはありませんでした。しかしこの時、ファラオの家臣の中にも、モーセの語る神さまの言葉を恐れる者が出てきました。彼らは、神さまの命令に従ってしもべと家畜を家に非難させました。そして、イスラエルの民と同じように、自分自身と家族、しもべ、家畜を災いから守ることができたのです。
 けれども、神さまがせっかくこのように逃れの道を示してくださったにもかかわらず、「主の言葉を心に留めなかった者」、すなわち、神さまの御言葉を軽んじ、それを真剣に聞こうとしなかったものは、しもべや家畜を野に残しておいたままでした。そのために、僕や家畜に災いを与えてしまったのです。

 このことを通しても、神さまの御言葉を畏れて、それを信じ、それに従うものには救いの恵みが与えられることを教えられます。旧約聖書は、イスラエルの民が「選ばれた民」という考えが中心にありますが、ここではそれを超えたメッセージ、神さまはイスラエルだけを救おうとされているのではなく、イスラエル人以外にも、神さまの救いが入り込んでいることを示しているのではないでしょうか。

 箴言1章7節には「主を畏れることは知恵の初め」と記されています。また、箴言9章10節にも、「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め」と記されています。この言葉は、その他、詩編111編にも出てきます。この「初め」というのは、最初ということと同時に、最も大切なことという意味です。
 私たちは人生を生きていく中で、さまざまな知恵と知識を学びます。しかしそのことがいかなる意味を持つかということ、そのような知識や知恵がどういう風に役立つかということは、主を畏れるかどうかにかかっているのではないでしょうか。主を畏れることなく、私たち人間がさまざまな知識を身につけていく時、それを知らない人間よりもかえって恐ろしい人間になっていくことがあります。あるいは主を畏れることなく、力を手にする人間は、それを持たない者よりも、より恐ろしい人間になってしまうこともあります。人間のすべての知識、知恵は、主を畏れ、その主をあがめる時に、初めて最も人間らしい、そして謙虚なものとして役立つのではないでしょうか。そして神様はそのような主を畏れる人を心に留め、救いのうちに置いてくださるのです。

「ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を野に残しておいた。」(出エジプト記9:20-21)

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神がかたくなにする

 ファラオは、もはや神さまの許容のときが過ぎ去り、彼を裁かれるときが待ち受けていることに全く気がついてはいませんでした。神さまは続いて第六の災いについてモーセとアロンに命じられました。
 その災いとは、エジプト全土の人と家畜が膿の出るはれ物に侵されるというものでした。その前の災いでは、家畜は被害を受けましたが、人間は守られています。けれどもここでは、悔い改めることをしなかったエジプト人に対して、人間もその腫れ物に襲われることになったのです。

 ファラオはこれまでにも、何度も何度も警告を与えられ、悔い改めのチャンスが与えられてきました。けれども、それにもかかわらず、彼は神さまの声を無視し続けてきたのです。そのため、ついに神さまの猶予の時は過ぎ去って「主がファラオの心を頑なにされたので、彼は二人の言うことを聞かなかった」(12)と記されているように、ファラオは裁かれる存在となってしまったのです。
 これまでの災いの中では「ファラオが心を頑迷にした」「ファラオは心を頑なにした」と記されていました。ですから、心を頑なにしたのは、ファラオ自身であることがはっきりしていました。けれども12節には「主がファラオの心を頑なにされたので」と記されています。
 神さまは、ファラオが悔い改めてイスラエルの民をエジプトから去らせることを望んでおられたはずです。それなのに、どうしてファラオの心を頑なにされるのでしょうか。それでは明らかに矛盾しているのではないかと思えます。

 神さまの声を聞いていながら無視し続けているとどうなるか。私も経験したことがありますが、だんだんと神さまの声が聞こえなくなってくるのです。最初のうちは心に留まるものがあり、従おうか、否かと迷ったりすることもありますが、無視し続けていると、そのうしろめたさもなくなってくるのです。そのうち、神さまの御声も全く聞こえなくなってしまいます。するとどうなるでしょうか。悔い改めるチャンスを失うのです。
 それを聖書は「主がファラオの心を頑なにされた、主が人の心を頑なにされた」という言い方をしているのではないでしょうか。私たちは、主が私たちの心を頑なにされるようなことがないように、その前に主を恐れ、全能な神さまの前にひれ伏し、主のみ声に聴き従う決心をする必要があるのではないでしょうか。
 けれども神さまは、ファラオがどんなに頑なであっても滅びることを願ってはおられません。神さまは誰一人として滅びることを望んでおられません。すべての人を救おうとし、その救いを喜ばれるお方なのです。それゆえに、なおファラオとエジプトの人々に、悔い改めと救いのチャンスを与えておられるのです。

 これまでのエジプトに下された災いは、神さまに逆らうファラオの心から始まりました。それを悟らないファラオがいかに愚かであるかを、神さまは深い愛を持って教えておられるのです。神さまは何も、罪人に対して怒り、滅ぼそうとして災いを下されるのではありません。神さまが滅ぼそうと思うならとっくの昔にそうしていたはずです。15節には、「実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできた」と語られています。しかし、そうではなく神さまは、ファラオとエジプトの民が悔い改めて神さまのもとに立ち帰ってくることを願われたのです。

 神さまは、これらの災いを下す目的を「わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたにわからせるためである」と語られています。つまり、主なる神こそがまことの神であり、この世のすべてを支配し、導いておられるということをファラオに気づかせることが目的だったのです。自分こそがエジプトの王、支配者であると思い、神さまのことを知ろうとも、認めようともしないファラオに対して、神さまは、エジプトを含めてこの世界全体を本当に支配しているのは、人間の王ではなく主なる神であることをこれらの災いを通して分からせようとしているのです。
 さらに、「しかし私は、あなたに私の力を示して私の名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた」と語られています。神さまの御心は、ファラオとエジプトの民にご自身の御力を見せることによって、彼らが神さまの大いなる御名を全地に伝え、すべての人々が神さまに従って、神とともに永遠に栄えることを願っておられるのです。

「しかし、主がファラオの心をかたくなにされたので、彼は二人の言うことを聞かなかった。」(出エジプト記9:12)

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真実なお方

 神さまは、なおもその心を頑なにしているファラオに、エジプト中の家畜を激しい疫病が襲い、家畜がみな死に耐えてしまうということを、モーセを通して警告されました。また、この時も前回の第4の「あぶの災い」と同じように神さまはエジプトとイスラエルを区別され、イスラエルの民の家畜には全く害が及ばないようにされました。

 神さまがイスラエルの民を区別され、災いから守られたのは、彼ら自身の功績によるものではありません。では、どうして神さまは、そうされたのでしょうか。
 それは神さまが彼らの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された祝福を必ず行われる真実なお方であるからです。たとえ彼らの子孫であるイスラエルの民が神さまを忘れても、あるいは捨ててしまっても、神さま御自身は決して彼らを見捨てることをなさらないのです。いや、見捨てることができないのです。この神さまの祝福(愛)は、今も昔も変わることはありません。ですから私たちは、安心して神さまについていくことができるのです。

 エジプト人は、いろいろな動物を宗教的崇拝の対象として敬っていました。ここに出てくる牛とか羊などもエジプトでは神聖視されて、エジプトの至るところでこれらの動物を神とした神殿が築かれていたと言われています。そして、その動物たちを神さまは疫病で打つということをなされたのです。つまり、この動物が疫病にかかるということは、神さまがナイル川を打った時と同じように、エジプトの神々を打たれたということです。
 病にかかり死んでいくものを神聖化し敬うエジプト人たちは、それでも自分たちの愚かさを悟ろうとはしなかったのです。被造物は神さまに守られて、はじめて生きることができるのです。そのことは、一頭も死ななかったイスラエルの民の家畜を通して教えられています。けれども、ファラオやエジプト人たちは、そのことに目を向けることはしませんでした。

 神さまはこの災いを下される前に、あぶの災いを下されたときと同じように、「明日」という時間的猶予を与えてくださっています。つまり、ここでも神さまは、直ちに災いを行わないで、「明日」という時間的余裕を与え、災いを避けるために悔い改める時を備えてくださっていました。
 ところがファラオは、またしてもこの警告も無視してしまったのです。心の頑ななファラオは悔い改める心を持っていませんでした。そして翌日、疫病はモーセの言葉通りに発生しました。それによってエジプトの家畜は、ことごとく死んでしまいました。家畜は一家の家計を支える大切な財産です。それを失ったというのですから、エジプトの人々にとっては大損害を被ったことになります。しかし、それにもかかわらず、ファラオはまだ心を頑なにしたままでした。なぜなら、エジプト人にとっては死活にかかわる苦しみであっても、ファラオ個人にとっては、それほど大きな痛みではなかった、直接彼の生活を脅かすまでには至らなかったからです。

「しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別される。イスラエルの人々の家畜は一頭たりとも死ぬことはない。」(出エジプト記9:4)

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信仰生活に妥協なし

 あぶの大群に困り果てたファラオは、モーセとアロンの要求を聞き入れ、犠牲をささげることを許可します。けれども、エジプトの労働力であるイスラエルの民を失いたくなかったファラオは、「遠くまで行かせることは認められないが、エジプトの国内で礼拝をするのは認めよう」と提案したのです。このファラオの妥協案に対して、もちろんモーセは拒否し、それを退けました。
 このモーセとファラオのやり取りに対して、「礼拝をするのに変わりないのだから、この国の中でしようが、荒野でしようがどこでしたってよいではないか」と思う人もいるかもしれません。

 ローマの信徒への手紙12章2節には、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれる、また何が完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と記されています。この「この世に倣ってはなりません」というのは、口語訳聖書では、「この世と妥協してはならない」と訳されています。
 私たちはこの世に生きるクリスチャンとして信仰生活をこの世の中でしていますから、当然のことながらこの世の事柄と、またクリスチャン以外の人たちと協調してやっていかなければならないことも多々あります。また、そういうことをしていかないと、はたから見ると偏屈な人と思われたり、変人扱いされることも無きにしもあらずです。

 けれども、安易にこの世と妥協して、クリスチャンとしての最も大切な点を曲げてはならないことがあります。イエスさまは、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と拒否することを教えられました。
 人類はいつの時代でも、文化圏にある人たちでも、発展途上の地域の人たちでも神を礼拝してきました。けれども多くの場合は、神を自分のための道具として拝んでいるのです。自分が楽しい生活ができるように、豊かになるための一つの手段として神を信仰しているのです。
 けれどもイエス・キリストの十字架を信じてクリスチャンとなったものは、そうであってはなりません。私たちの神は、私たちの父であり、今も生きて私たちとかかわりを持っていてくださる神さまです。その神さまによって私たちは造られたのです。
 私たちの人生には目的があります。それは神さまのために生きていくことです。私たちの目的は、自分が長生きすることでもなければ、この地上でたくさんの宝を持つことでもありません。地位や名誉を得て、人々から羨ましがれることでもありません。私たちの人生の目的は、神さまの栄光を現していくことです。
 神さまの栄光のために私たちは生かされているのだ、ということを知るならば、この世の問題に対しても妥協して生きるのではなく、神さまの御心に従って解決していくようにと教えられます。問題を自分の力で解決しようとすることは、自分の思いに妥協することであり、神さまを必要としていない生活をすることなのです。

 この国に留まってとか、あまり遠くに行かないで、ということが私たちの心にささやかれます。「あまり熱心にならなくてもいいじゃないか」、「まあ自分の生活の範囲内の中で信仰生活をすればいいじゃないか」、そういったことは、何千年前にファラオがモーセに言ったことだけではありません。私たちに毎日、もっと自由に生きたらと語りかけてくるサタンの声なのです。

 モーセたちは頑固だと言われたかもしれません。大国の王が、そこまで妥協しているのに、一介の奴隷の民の年老いた男が、それを拒否するのは世間的に見れば傲慢で非礼なのかもしれません。同じく私たちも、「クリスチャンってどうして自分の主張をそんなに通すの」、と非難を受けることもあるかもしれません。けれども、神さまのみことばであれば、「この世に倣って(妥協して)はならないのです」。これは果たして私の意見なのか、それとも、父なる神さまのみことばなのか、そのことを神さまに問いつつ、神さまのことばに対しては「そのとおりにする」こと以外にないのです。ここに私たちの信仰の成長があると思うのです。

「我々の神、主に犠牲をささげるには、神が命じられたように、三日の道のりを荒れ野に入らねばなりません。」(出エジプト記8:23)

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忍耐する神

 ファラオは自分の国民の苦しみよりも、自分のプライドを守ることに必死になっていました。そのために、さらに次の災いがエジプトに下ることになってしまったのです。そして神さまがエジプトに下された第四の災いは「あぶの災い」でした。

 このしるしは「明日」起こると、神さまは起きる時を予告されました。神さまは、このことをすぐにおこなうのではなく、「明日」という時間的猶予をお与えになりました。すなわち、ファラオに明日という時を知らせ、ファラオとエジプトの民に、悔い改め、立ち返ってくる機会を与えられたのです。

 神さまが直ちにこの災いを実行しないで、まず「明日」という時を示されたのは、すべての人を救うために与えられる愛の時、恵みの時なのです。神さまはファラオとエジプトの民だけでなく、今日の私たちのためにも救いの時を与え、放蕩息子の帰りを待つ父のように、待っていてくださるのです。

 けれどもファラオは、ここでも神さまの御声に聞き従うことが出来ませんでした。そのために神さまのさばきがエジプトを襲ったのです。おびただしいあぶの大群がエジプト中に蔓延してファラオの王宮や家臣の家の中にまで入り込みました。
 この奇跡がイスラエルの神の御業であることをはっきり現すために、神さまは、神の民とそうでない民とを区別されました。それによってイスラエルの民の中には、まことの神さまが共に住んでくださり、災いから守っておられることを現されたのです。

 もちろん神さまは、すべての人を救いたいと願っています。イエス・キリストが十字架にかかられたのも、すべての人を救うためであったことを私たちは確信しています。けれども神さまの救いを受け入れるか、それともファラオのように頑なになって拒んでしまうのかによって、あぶの大群が来る地と、一匹も現れない地と、その二つに分けられてしまうのです。人はこの二つのうちのどちらか一方を必ず選ぶことになるのです。それゆえ、私たちは、神さまがその時々に応じて与えてくださる御言葉を決して軽んじることはできないのです。いざ、そのときになって、ファラオのように泣き叫ぶことのないように、今このときに神さまのみ声に聞き従って生きる決心をすること。その一時、一時が大切なのだと思います。

「わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う。明日、このしるしが起こる」(出エジプト記8:19)

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神の力と人の力

 約束を守らないファラオに対して、神さまは第三の災いをエジプトに下されました。神さまから言われたとおりにアロンが杖で土の塵を打ったところ、その土の塵はぶよに変わりました。そしてそれは、エジプト全土に広がって、人と家畜を襲ったのです。
 
 エジプトの魔術師たちは、今までと同じように秘術を使ってアロンと同じようにぶよを出そうと試みました。けれども彼らにはできませんでした。そこで彼らはファラオに、「これは神の指の働きでございます」と告白したのです。彼らは、神さまの業としか言いようのない力が働いていることをファラオに告げたのです。ファラオに仕える魔術師たちは、神さまの御力に勝てるものはないことを告白し、自分たちの敗北を認めたのです。

 今日では、これまでまさに神様の領域と考えていたところへ次々と人間の科学が挑戦して、人間の技術を実証して見せています。しかしながら不思議なことに、そこからいつも同時に、両極端の二つの声が聞こえてくるのです。ひとつは、「やはり神などいないのだ。人間はそのうちに何でもできるようになるであろう」という声と、もう一つは「やはり神のなさる業は神秘的で、偉大だ」という声です。
 深く科学について学べば学ぶほど、「これは神の指の働きです」と認めざるを得ない領域に気づくことがあります。人間の到達できる領域はどんどん広がり、深まっていくと思いますが、決して神様に追いつくことはないでしょう。
 この時の魔術師たちも、ちょうどそのような心境であったかも知れません。そして魔術師たちの力を打ち砕くために神さまが用いられたのは、恐ろしい猛獣や大きな怪物ではなく、小さなぶよでした。魔術師たちは、このような小さなぶよでさえも、自由にする力を持っていないことを告白したのです。

 エジプトに下されたこのぶよの災いは、主なる神がまことの神であり、全知全能なお方であることをエジプトとイスラエルの民に、また私たちにも示されたのです。けれどもファラオの心は、魔術師たちが神の力を認めて、モーセとアロンに逆らうことを止めたにもかかわらず、さらに頑なになっていきました。彼は、魔術師たちの言葉を聞きながらも、また、自分の国民がこれほど苦しんでいるにもかかわらず、これが神の業であることを認めようとしませんでした。
 しかし、これはファラオだけでなく、罪人である人間の姿でもあることを教えられます。私たち人間の傲慢さは、最後まで神に逆らい、全く力尽きてからようやく自分の無力さを知り、神だけがすべてのものの主であり、力の源であることを認めることはないでしょうか。

「魔術師はファラオに、『これは神の指の働きでございます』と言ったが、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。」(出エジプト記8:15)

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蛙の災い

 モーセは、神さまの警告の言葉をファラオに伝えました。けれどもファラオは、またしてもその警告のことばに耳を傾けようとはしませんでした。そこでアロンは、モーセの命じるとおりに、手の杖をエジプトの水の上に差し伸べました。すると神さまの警告されたとおりに、エジプト中に蛙が群がり、人々の暮らしを脅かしたのです。
 それにもかかわらず、この時もエジプトの魔術師たちは、同じような秘術を行い、蛙をエジプトの地に這い上がらせました。彼らの頭の中には、もはやモーセとアロンに対抗することしかありませんでした。皮肉なことに、彼らが行った秘術によって、蛙はますます増え、人々の苦しみも限界に達してしまったのです。

 モーセとアロンのように奇跡を行う力を持っていると誇示していたエジプトの魔術師たちがしたことは、人々を苦しめただけでした。もし、彼らが本当にモーセとアロンに対抗しようとするなら、むしろモーセたちがしたのとは反対のことを、つまり、蛇に変わった杖をもとの杖に戻し、血に変わった水をもとの真水に戻し、蛙の大群をナイル川に戻すということをしたはずです。しかし彼らには、それができませんでした。彼らは、蛙を増やすことはできましたが、取り除くことはできなかったのです。
 この時ファラオは、人々を救うことができるのは、主なる神、イスラエルの神だけであることを認めざるを得ませんでした。それで蛙を処理してくれるように主に祈ってくれとモーセに願い求めたのです。

 モーセは、蛙を地にあふれさすことも、絶つことができるのも、ただイスラエルの神だけであることをファラオに示しました。おそらくファラオは、蛙を一刻も早く処理してもらいたいとの思いがあったことでしょう。けれども「今、すぐに」と答えてしまうと、モーセとの約束も即時に守り、イスラエルの民をすぐに去らせなければならなくなってしまいます。ですからファラオは「明日」という時間的猶予を置いたのです。
 ファラオのこの答えを通して彼の不真実さを知ることができます。きっとファラオは、自分の言い分は聞いてもらいながらも、イスラエルの民たちを去らせない良い方法がないかを考えていたことでしょう。あるいは、モーセたちが手を下す前に、蛙がいなくなることを期待していたのかもしれません。
 真実に救いを求める者にとっては、「明日」という時間的余裕ないと思います。一寸先に何が起こるか分からない人間に保証されている時間は、今しかありません。だから今が救いの時なのです。ファラオは、神さまによって悔い改めの機会を与えられていながら、そのチャンスを生かすことができませんでした。

 ファラオもエジプトの人たちも、モーセとアロンよって蛙の災いから救われました。ところがファラオは、災いが取り去られ一息つく暇ができると、その心をまた頑なにしたのです。このようにファラオは、息つく間もないほどの苦しみにあっているときは、自分の力のなさや弱さを悟り、神さまに救いを求めましたが、息つく暇ができると、神さまに助けられたことなど忘れ、己を過信し、また傲慢になるのでした。
 このことは何もファラオだけに限ったことではありません。私たちも苦しいときは神さまに助けを求めますが、その苦しみが去ると、自分の力で解決したかのように思ってしまうことはないでしょうか。そしていつの間にか神さまから遠のいて、自己中心的な傲慢な心がよみがえってくることがあるのではないでしょうか。そのような心に支配されないように、決して私たちの信仰が「困った時の神頼み」のみで終わってしまわないように、いつも神さまの恵みに感謝し、また悔い改めることを覚えながら歩みを進めていきたいと思います。

「ファラオは一息つく暇ができたのを見ると、心を頑迷にして、また二人の言うことを聞き入れなくなった。」(出エジプト記8:11)

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