みことばの糧1192

『全ての罪を赦すために』

マタイによる福音書27章27節~44節

今週よりいよいよ受難週となります。最後の一週間、主イエスは以下のように歩まれました。
・日曜日:棕櫚の聖日・エルサレム入城。群衆はこぞって主イエスを迎える
・月曜日:宮きよめ。神殿の境内から商人を追い出す。
・火曜日:エルサレムを望んで嘆く。救いを求めない人々への嘆き。
・水曜日:ナルドの香油。ベタニアにて。
・木曜日:過越の食事。最後の晩餐・裏切りの予告。
・金曜日:受難日。ゴルゴダの丘で十字架に付けられる。
・土曜日:ローマ兵、弟子達が遺体を盗まないよう墓を見張る。
これらの出来事は全て、私たちの救いのためになされました。受難週の歩みで特に私たちの心に突き刺さるのは、主イエスが私たちの身代わりに全ての痛み・苦しみを負ってくださったことです。
鞭打ち、荊冠、暴力、不当な扱い、そのいずれも主イエスには受けられる理由はありませんでしたが、私たちの救いのため全てを甘んじて受けられたのです。
鞭打ち一つとっても、大変残虐な刑罰でした。当時の方法では、三人が鞭をふるったそうですが、三人がかりで主イエスを鞭打ったのではありませんでした。
主イエスに対して鞭をふるうのは二人で、交互に行います。残りの一人は鞭をふるう二人に対して、弱く打ったと判断した方を鞭打ちました。
ですから、鞭をふるう二人は自分たちも打たれたくないので、全力で主イエスを打ち叩く事になります。人の心をもてあそぶような残虐な刑罰、それが鞭打ちでした。
けれどもそれは、私たちの罪深さを示すものでもあります。そして、その罪の全てを赦そうとしておられる神さまの救いの計画の偉大さをも示されます。
まさにイザヤ書53章にある「苦難の僕の詩」の如くです。「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)
この御言葉の如く、主イエスの負われた苦しみが私たちのためであり、それによって私たちは神さまとの平和・和解を得、救われる者となりました。
受難週を迎えたこの時、主イエスの負われた苦しみに心寄せつつ、それによって私の罪が赦された事を感謝して歩みましょう。ハレルヤ!

片平貴宣牧師